理文先生のお城がっこう 歴史編 第48回 織田信長の居城(家臣の城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは、織田信長の家臣の城についてです。信長は家臣が城を築く時に、場所や姿かたちまで細かく命令を出していました。その理由を、家臣たちの城の構造や残された資料を通じて見ていきましょう。

天正元年(1573)、室町第15代将軍(しょうぐん)足利義昭(あしかがよしあき)を追放した頃(ころ)から、織田信長(おだのぶなが)は家臣が城を築(きず)く時に、様々な命令を発するようになりました。なぜ信長は、家臣の築城(ちくじょう)に際(さい)して、その場所や城の形に至(いた)るまで、いろいろな命令を出したのでしょうか。こうした命令も、天下統一(とういつ)のシンボルである安土築城を目指した一連の動きと考えることもできないわけではありませんが、それだけではない理由があったとも考えられます。今回は、家臣の城について、信長はどのような命令を出し、どうしようとしていたのかについて考えてみたいと思います。

安土城
織田政権の城の中心であり、他の城を築く時の見本となった安土城天主の礎石群(そせきぐん)。様々な記録が残り、素晴(すば)らしい建築であったことは解(わか)りますが、詳(くわ)しい姿(すがた)かたちは解りません。

共同作業による築城

信長が城を築くように出した命令書の中で、特に注目されるのは、天正3年(1575)と推定される保田知宗(やすだともむね)(佐久間信盛(さくまのぶもり)与力(よりき)(上級武士(ぶし)の指揮下(しきか)に属(ぞく)した騎馬(きば)の武士のことです)(あて)朱印状(しゅいんじょう)(朱印が押された公的文書(印判状(いんぱんじょう))のことです)において「柴田勝家(しばたかついえ)と相談して、普請(ふしん)を実施(じっし)しなさい」と言う内容(ないよう)のものと、天正8年(1580)の細川藤孝(ほそかわふじたか)黒印状(黒印が押された公的文書(印判状)のことです)において勝龍寺(しょうりゅうじ)(京都府長岡京市)を築くにあたって「明智光秀(あけちみつひで)と相談して築きなさい」という内容のものです。明らかに、城を築くに際し共同作業を指示(しじ)した内容になります。また、勝竜寺城跡から出土した軒丸瓦(のきまるがわら)と明智光秀の居城の坂本城(滋賀県大津市)の軒丸瓦が同笵(どうはん)になることが解り、出土遺物(いぶつ)からも共同作業が裏(うら)付けられています。

坂本城同范瓦
3つの城から、同じ版木(はんぎ)を使用して造(つく)られた瓦が出土しています。共同作業か、瓦が移動したのか、あるいは瓦職人(しょくにん)が移動(いどう)したのかなどの理由が考えられます。

共同作業は、特別な場合を除(のぞ)いては、方面攻略(こうりゃく)軍単位で実施(じっし)されました。たとえば、北陸方面攻略軍の最高責任(せきにん)者柴田勝家の目付(めつけ)(大将が良くない行いをしないよう見張(は)る側近のことです)で、府中三人衆(しゅう)と呼(よ)ばれた前田利家(まえだとしいえ)、佐々成政(さっさなりまさ)、不破光治(ふわみつはる)の3人は、信長の命令によって協力し、共同作業で最新鋭(さいしんえい)の技術を自由自在(じざい)に使って城を築くということです。3人の城は、いずれの城も石垣(いしがき)を使用し、天守を築いていたと考えられます。

信長からの命令

さらに、天正3年、北ノ庄(きたのしょう)(福井県福井市)へ直接(ちょくせつ)信長が来て、縄張(なわばり)(城の設計(せっけい)、いわゆるどんな形の城を造るのかという設計計画のことです)をして要害(ようがい)を築くように命じたとあります。天正6年(1578)の、荒木(あらき)(ぜ)めの一環(いっかん)として築かれた(とりで)の構築については、太田郷(ごう)の北の山に砦を、天神山に砦を、安満(あま)の地に(つな)ぎの要害(ようがい)をと、城を築く場所まで命令を出しています。また、天正7年(1579)の荒木攻めの際には、四方に砦を築き、二重、三重に堀(ほり)を設(もう)け、塀(へい)や柵(さく)を築きなさいとした命令書が残っています。信長自ら要害や砦を築く場所を選んで、さらにそこに堀・塀・柵という、どのような構築(こうちく)物を築くかまで指示していたことが解ります。

北ノ庄城、柴田勝家の像
北ノ庄城跡に残る柴田勝家の像。天守は9重との記録が残り、我が国最大級であったと記録に残されています

それだけではありません。元亀(げんき)2年(1571)の細川藤孝宛朱印状において「一人三日間人夫として徴用(ちょうよう)(強制(きょうせい)的に動員して、仕事をさせることです)することを許(ゆる)す」とあり、たとえ信長から支配権を認(みと)められた領国内であっても、勝手に人夫(にんぷ)として徴用(ちょうよう)ができなかったことが判明します。

勝竜寺城推定復元イラスト
勝龍寺城推定復元イラスト(考証:中井 均/作画:香川元太郎)
織田家臣の城は、石垣・天守・瓦葺(かわらぶき)の最新の技術を駆使(くし)した城でした

公儀の城へ

信長による築城に関する細かい点についてまでの決まりは、築城だけにとどまらず国替(くにが)えにおいても決められていたようです。天正9年(1581)10月2日付、前田利家宛朱印状には、以下のような細かな指示が見られます。

「能登国(のとのくに)(現在の石川県の北半分程)を利家に与え、旧領(きゅうりょう)は菅谷長頼(すがやながより)に与(あた)えるので、利家の府中城(福井県越前市)および部下の私宅(したく)まで整備(せいび)して引き渡(わた)すことが大切です。府中の天正9年分の年貢(ねんぐ)は利家の取り分で、来年度からは菅谷の所得にします。また、妻子は急ぎ必ず能登に引っ越さなければいけません。引継(ひきつ)ぎのために長頼を近日越前に派遣(はけん)するので承知(しょうち)しておきなさい」と、国替えに当たっての引継ぎ事項(じこう)についても、信長からこと細かな内容の命令が出されていたのです。この中で、利家の府中城および部下の私宅まで整備して引き渡すことが肝心(かんじん)としているのです。天正9年前後には、城は公儀(こうぎ)(織田政権)の持ち物で、城主等は功績(こうせき)によって、信長から預(あず)けられるようになっていたことが解ります。

城を壊(こわ)す場合も、築城命令同様、すべてを壊すか、役立つものを残すかは、信長の考え一つで決まりました。天正7年の赤松広秀(あかまつひろひで)宛印判状にも、西国の拠点(きょてん)として居城(竜野(たつの))を壊すことなく残したという記録があり、城を残すか壊してしまうかも、信長の考え一つだったことが解ります。

龍野城跡
現在の竜野城跡。赤松広秀時代の城は、櫓(やぐら)の背後に見える鶏籠山(けいろうざん)上にありました

織田政権の城

織田氏の領有(りょうゆう)する国では、城を築いたり、壊したりすることは、すべて信長一人の考え方で決定していました。どんなに簡単(かんたん)で急ごしらえの城であったとしても、必ず信長に許可(きょか)を求めています。秀吉や光秀という方面攻略軍最高責任者(せきにんしゃ)クラスであっても、城を築いたり、壊したりする命令を出すことは許されていませんでした。城に関わる権限(けんげん)は、すべて信長一人の考えで実行されていたのです。

織田氏領国の各地域に築かれた中心的な城の姿かたちについても、信長の考え一つで決められていました。例えば、当時最先端(さいせんたん)の技術の一つである瓦の使用については、細川藤孝の勝龍寺(しょうりゅうじ)(京都府向日市)、明智光秀の坂本城(滋賀県大津市)・福知山城(京都府福知山市)・周山(しゅうざん)(京都府京北町)、羽柴秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)・姫路城(兵庫県姫路市)、佐々成政の小丸(こまる)(福井県越前市)、高山右近(たかやまうこん)高槻(たかつき)(大阪府高槻市)、荒木村重(あらきむらしげ)有岡(ありおか)(兵庫県伊丹市)等で確認されているため、領地が一国以上である国持(くにもち)大名までは確実(かくじつ)に瓦使用を認めたことが解ります。当然、石垣も同様で、国持大名の城には、石垣が使用されていたのです。

周山城、石垣
標高480mの山頂部分を中心に、南北600m×東西1300mに及(およ)ぶ大城郭(じょうかく)の周山城は、明智光秀が築いた城で、安土城と同様に石垣造りで天守を構(かま)えた近世城郭へと繋(つな)がる城でした

織田政権に組み込まれた領主たちは、当時一番進んでいる城を築くための技術(ぎじゅつ)を自由自在に使いこなして、地域(ちいき)を支配(しはい)するために、今まで誰(だれ)も見たことが無い素晴らしい城を築いていきました。信長の許可を得て、瓦・石垣を使用したというより、その命令によって最新鋭(さいしんえい)の城を造り上げたのです。勝龍寺城、坂本城は、安土築城より前に築かれた城になりますが、その他の城は、安土築城以後の完成です。安土築城以後、領国を支配するためのシンボルとして、安土城と同じような人々に見せるための城を築くことが命じられ、織田政権の豊(ゆた)かな経済力(けいざいりょく)や、新しい技術を持っていることを知らしめようとしたのです。信長は、こうした素晴らしい城を各地に築くことで、まだ織田政権に従(したが)っていない各地の戦国大名たちが、戦わずして信長の家臣になることを目指したのです。

姫路城、山里曲輪下段の石垣
天正8年(1580)、羽柴(はしば)秀吉は姫山を中心に総石垣造りで三重の天守を持つ、現在の姫路城の基礎(きそ)を造りました。山里曲輪(くるわ)下段の石垣は、秀吉時代に積まれた石垣です

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※普請(ふしん)
設計図通りに曲輪を造ったり、堀を掘ったりする土木工事全般( ぜんぱん )を行うことです。土木工事には、土塁( どるい )を造ったり、石垣を造ったりすることなども含( ふく )まれます。

※軒丸瓦(のきまるがわら)
 丸瓦の先端に文様( もんよう )の入った円板状の瓦当( がとう )部をつけた瓦で、 鐙( あぶみ )瓦・巴( ともえ )瓦ともいいます。

※同范瓦(どうはんがわら)
軒瓦の型を「范(はん)」と言い、同じ范(型)でった瓦のことを同范瓦と言います。同じ型で造っているため、製品( せいひん )の生産体制(たいせい )や、供給(きょうきゅう )状況( じょうきょう )を知ることが出来ます。

※縄張(なわばり)
城を築く時の設計プランのことです。曲輪や堀、門や虎口( こぐち )などの配置をいいます。

要害(ようがい)
本来は地形がけわしく守りに有利な場所に築かれた城をさします。中世初期は、平時は平地の居館( きょかん)に住み、戦時は近くの要害の山に籠( こも )ったとされ、その山のことをいうこともあります。

※砦(とりで)
取り出して築く城の意味です。居城(本城)の外の、要所に築く小規模( しょうきぼ)な構えの城を指します。出城(でじろ)も同じ意味になります。

繋ぎの要害(つなぎのようがい)(繋ぎの城)
2つの重要な地点(例えば本城と支城との間)の中間付近に築いて、両城の連絡( れんらく )を保(たも )つ役目の城のことです。前線への兵站(へいたん )基地(きち )であり、時には兵の休憩地( きゅうけいち)ともなりました。「伝えの城」も同意義( どういぎ)です。また、「要害」と「城」も同義で使用します。

※居城(きょじょう)
領主が日常( にちじょう )住んでいる城のことです。または、領主が、拠点(本拠)とするために築いた城のことです。本城(ほんじょう)と呼ばれることもあります。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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