理文先生のお城がっこう 歴史編 第49回 秀吉の城1(山崎山への築城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは、豊臣秀吉が築いた城についてです。山崎合戦で明智光秀に勝利した後、秀吉は山崎山に山崎城を築きました。その目的について、当時の秀吉が置かれていた状況に注目しながら考えてみましょう。

本能寺(ほんのうじ)の変からわずか11日後、後に「中国大返し」と呼(よ)ばれる誰(だれ)もが考えられないほどの素早(すばや)い行動で、羽柴秀吉(はしばひでよし)は都近くまで戻(もど)ってきました。秀吉は、現在の大阪府と京都府の境(さかい)に当たる山崎(やまざき)という場所で、主君の織田信長(おだのぶなが)を裏切(うらぎ)って殺した明智光秀(あけちみつひで)との合戦にのぞみました。

合戦は天王山(てんのうざん)で開始され、明智軍の全軍が完全に乱(みだ)れ敗れると、光秀は再挑戦(さいちょうせん)をはかるため後方の勝竜寺(しょうりゅうじ)(京都府長岡京市)から居城(きょじょう)坂本城(滋賀県大津市)へと逃れます。しかし、伏見(ふしみ)を過(す)ぎ、小栗栖(おぐるす)を通過(つうか)しようとした時、突如(とつじょ)農民兵に襲(おそ)われ、槍(やり)でわき腹(ばら)を突(つ)かれ深手を負ったため自害したといいます。この戦いで、逆臣(ぎゃくしん)光秀を討(う)った秀吉は一躍(いちやく)織田家臣団(だん)の中での中心となって、すすめる力や権限(けんげん)を持つことになります。

山崎合戦の跡地
山崎合戦の跡地(あとち)。羽柴秀吉軍は、総勢(そうぜい)約4万の大軍で、戦場を見下ろせる天王山の麓(ふもと)に布陣(ふじん)しました。一方、明智軍は1万6千の軍勢で「御坊塚(おんぼうづか)」に本陣を置きました。勝敗は1日で決し、明智軍は総崩(そうくず)れとなったのです

清須会議

信長亡(な)き後、誰を織田家の正式な後継者(こうけいしゃ)にするかを話し合った清須(きよす)会議では、秀吉は信長の孫の三法師(さんぽうし)(後の秀信(ひでのぶ))を後継(つ)ぎにすることを主張します。重臣の中には、次男信雄(のぶかつ)、三男信孝(のぶたか)を後継者にするのが相応(ふさわ)しいとの意見もありましたが、この意見を退けることに成功しました。

この会議から一月もたたない7月17日、秀吉は毛利輝元(もうりてるもと)(あ)てに手紙を書いています。「山崎(京都府大山崎町)に城を築(きず)くことを命じたので、信長様の葬儀(そうぎ)を引き延(の)ばすことにしました」という驚(おどろ)くべき内容(ないよう)だったのです。清須会議から一月もたたない段階(だんかい)で、山崎山に城を築く工事を起こし、さらに築城(ちくじょう)を優先(ゆうせん)するために主君の葬儀(そうぎ)の延期(えんき)までしていたのです。それだけ、山崎への築城が優先されたと言うことです。なぜ、秀吉は山崎築城を急いだのでしょうか。

山崎山城,中井均,加藤理文,城びと
山崎城縄張り図(現況)(作図:中井 均)

山崎築城

山崎城(宝積寺(ほうしゃくじ)城・宝寺(たからでら)城・財寺(たからでら)城)(京都府乙訓郡)は、山城(やましろ)(現在の京都府)と摂津(せっつ)(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の国境(くにざかい)近く、宇治(うじ)川、木津(きづ)川、桂(かつら)川の3つの河川(かせん)が合流する地です。また、天王山の麓を都と西国(さいごく)を結ぶ西国街道(近世山陽道の別名です)が走る、軍事、警察(けいさつ)、経済(けいざい)の非常に大切な場所でした。京都も近く、西から都の入口を押(お)さえる場所でもあったのです。

山頂(さんちょう)本丸の北の端(はし)には、20m四方程(ほど)の土を盛って造(つく)った土壇(どだん)が残り、わずかながら石垣(いしがき)も残され、ここが天守台(てんしゅだい)と考えられます。

山崎城、天守台の石垣
山崎城天守台の石垣。天守台は本丸の縁辺部(えんぺんぶ)に位置しています。周囲(しゅうい)には石列が残されており、基底(きてい)部からおおよその大きさを推定(すいてい)することが可能(かのう)です

本丸には礎石(そせき)(建物の柱を受ける土台石のことです)と見られる石材もあり、御殿(ごてん)建築(造りが立派(りっぱ)で豪華(ごうか)な邸宅(ていたく)のことです)が建っていたと思われます。さらに西側には一段低く、本丸を補完(ほかん)するための副郭(ふくかく)が設けられ、南側に巨大(きょだい)な井戸も残っています。ここにも石材が残ることから、本丸・副郭まで当時最新の石垣で囲まれていたことが解(わか)ります。

山崎城、本丸
天守台の南側に、ほぼ40m四方程の広さを持つ本丸が見られ、石塔(せきとう)を転用したと推定される石材が残されています。東側に石垣造りの虎口(こぐち)が残っています

本丸の東側の中腹(ちゅうふく)にも曲輪(くるわ)が残り、竪土塁(たてどるい)(山などの斜面(しゃめん)の縦(たて)方向に盛(も)られた土塁です)によって守られており、ここに山上の居館(秀吉の住まいと考えられる建物です)があったのでしょう。

山崎城、竪土塁
本丸の虎口の石塁は、東側へと続く竪土塁へと続いています。竪土塁は、東下の曲輪の虎口まで延(の)びて、虎口を規制(きせい)する土塁の役割(やくわり)をになっています

天王山の南東下の尾根(おね)に残る自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)は二の丸と呼ばれていて、ここも城の範囲(はんい)でした。天王山の東に突出(とっしゅつ)するこの地は、都方面への眺望(ちょうぼう)が開けています。城の正面口は、酒解神社の北西上に構(かま)えられた土塁が外に向かって開く場所にあったと考えられます。山崎城は、突然思い立って築城を開始したとは思えないほど、本格的(ほんかくてき)な城だったのです。

宣教師(せんきょうし)ルイス・フロイスの書簡(しょかん)に「羽柴秀吉は、極めて堅固(けんこ)な城を山崎と八幡(はちまん)(石清水八幡宮)山頂に築きました」とあり、やはり本格的な築城であったことを裏付けています。さらに、「柴田勝家(しばたかついえ)と織田信孝(おだのぶたか)が、清須会議で決めた取り決めに反することなので、直ちに2つの城を壊(こわ)してしまわなければ、城を攻(せ)めて壊すと言ってきたため、秀吉はもし攻め寄(よ)せるなら、どちらが天下を取るのにふさわしいか戦いましょう」と言ったと記録しています。こうして、翌天正11年(1583)、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが繰り広げられ、戦に敗れた柴田勝家は北ノ庄(しょう)(福井県福井市)で自刃(じじん)します。勝利した秀吉は、名実ともに信長の権限を引き継ぐ地位をしっかりと自分の物にしたのです。

山崎城、推定復元イラスト
山崎城推定復元(ふくげん)イラスト(考証:中井 均/イラスト:香川元太郎)
主要部はほぼ石垣を使用し、最高所に天守が構えられていました。宝積寺、酒解神社という宗教勢力とも密接な関係を持っていたことをアピールするねらいもあったのです

秀吉は、信長の後継者になるために、謀反(むほん)人の明智光秀を倒(たお)したことを世にアピールしようとしたのです。そのために、光秀と戦って勝った天王山を選び、ここに城を築いたのです。

『天王寺屋会記(てんのうじやかいき)』(堺の豪商(ごうしょう)、天王寺屋津田(つだ)家の宗達(そうたつ)・宗及(そうきゅう)・宗凡(そうぼん)の三代にわたる茶湯(ちゃのゆ)日記)には、山崎で茶会が開催(かいさい)されたとあります。また、『多聞院(たもんいん)日記』(奈良興福寺(こうふくじ)塔頭(たっちゅう)(大寺院の敷地(しきち)内にある小さな寺院や付属(ふぞく)する寺のことです)多聞院において、文明10年(1478)から元和(げんな)4年(1618)にかけて、僧(そう)の英俊(えいしゅん)を始め、三代の筆者によって延々(えんえん)と書き継がれた日記)には、「筒井順慶(つついじゅんけい)が、山崎財寺城に、秀吉に会いに行きました」とあるように、山の麓にある宝積寺も城域(じょういき)に入っていたことが解ります。

天王山は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、宝積寺、酒解神社など古くからの信仰(しんこう)の山でした。ここに城を築くことは、こうした古くから信仰されている宗教勢力との強いつながりを持っていることを宣伝(せんでん)する効果(こうか)もあったのです。秀吉は、あらゆるものを利用し、信長の正当な後継者としての地位を固めようとしていたのです。

宝積寺本堂
現在の宝積寺本堂。秀吉時代は、宝積寺も城域として取り込(こ)まれていたようですが、後に伽藍(がらん)が大きく改変を受けており、当時の状況(じょうきょう)ははっきりしません

『兼見卿記(かねみきょうき)』(神祇大副(じんぎだいふ)吉田兼見(よしだかねみ)の日記。現在、元亀(げんき)1(1570) ~文禄(ぶんろく)1年(1592)の記事が伝えられています)には、天正12年(1584)3月に「山崎城の天守を取り壊した」との記載が残ります。賤ヶ岳の戦いで、後継者の地位をほぼ確実にすると、築城からわずか1年たらずであっさりと城を壊してしまったのです。この時、秀吉はすでに大坂城(大阪府大阪市)の築城を開始していました。その行動の早さこそが、他を差し置く勢(いきお)いで天下人の地位に登り詰(つ)めた理由ではないでしょうか。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※天守台(てんしゅだい)
天守を建てるための石垣の台座(だいざ)のことです。

※礎石建物(そせきたてもの)
建造の柱を支(ささ)える土台(基礎(きそ))として、石を用いた建物のことです。柱が直接(ちょくせつ)地面と接していると湿気(しっけ)や食害などで腐食(ふしょく)や老朽化(ろうきゅうか)が早く進むため、それを防(ふせ)ぐために石の上に柱を置きました。初めは寺院建築に用いられ、城に利用されるようになったのは戦国時代の後期になってからのことです。

※竪土塁(たてどるい)
山などの斜面の縦方向(等高線に対して直角)に盛られた土塁のことです。竪堀として掘った残土を盛り上げた例も多く見られます。登り石垣と同様の機能(きのう)を持っていました。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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