2022/07/29
理文先生のお城がっこう 歴史編 第50回 秀吉の城2(大坂城築城)
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは、前回に続いて豊臣秀吉が築いた城についてです。織田信長の後継者として天下統一を進める秀吉は、その足場として大坂城を築きました。当時の大坂城の構造を、発掘調査の結果や貴重な復元図を通じて見ていきましょう。
天正11年(1583)、賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで勝利した羽柴秀吉(はしばひでよし)は、織田信長(おだのぶなが)の役割(やくわり)や権限(けんげん)を引き継(つ)ぐ後継者(こうけいしゃ)の一番手として見なされるようになりました。秀吉は、信長の一周忌(いっしゅうき)にかねてから築(きず)いていた大坂城(大阪府大阪市)へと入城し、今後の活動の足場となる重要な城とします。
大坂の地は、古くから淀(よど)川や大和(やまと)川などが海へと注ぐ河口(かこう)近くに位置する水上交通の重要な場所です。畿内(きない)のほぼ中央で、都に近く、陸上の交通や軍事的、商業的などの面から見ても、最も大切な土地にあたり、主君信長もこの地に城を計画していたのです。秀吉は、安土城(滋賀県近江八幡市)を超(こ)える大きくて立派(りっぱ)な造(つく)りの大坂城を完成させることによって、自分が信長の権限や役割を引き継ぐ正当な武将(ぶしょう)であることを多くの人々に知らせようとしたのです。
城のすぐ北側の台地下を淀川の本流が流れ、またこの淀川を上ると京都に繋(つな)がる交通の要衝(ようしょう)でした。天下人が造った、初めての平城でした。
大坂築城と豊臣時代の遺構
築城(ちくじょう)工事は、秀吉の部下になることを誓(ちか)った武将たちに工事場所を割り当てて分担(ぶんたん)させる割普請(わりぶしん)によって進められました。約5万人もの人々を動員することで、築城工事は急ピッチで進められ、天正13年(1585)までの第1期工事で本丸が完成しています。二の丸を築いた第2期工事は天正16年(1588)まで続くことになります。
秀吉の築いた大坂城は、慶長(けいちょう)20年(1615)の大坂夏の陣(じん)ですべてが焼け落ちて跡形(あとかた)も無くなりました。さらに、徳川政権(せいけん)による新しい大坂城を造る時に、残っていた石垣(いしがき)までも完全に地下に埋(う)められてしまいました。そのため、現在(げんざい)秀吉が築いた大坂城は、地上で何一つ見ることが出来ません。
かつては、幕府(ばくふ)が新しい大坂城を築く時に、石垣を含(ふく)めてすべてが壊(こわ)されてしまい何も残っていないと思われていました。ところが、大阪城総合学術調査(そうごうがくじゅつちょうさ)によって、昭和34年(1959)、現天守閣(かく)前の広場地下から野面積(のずらづみ)の石垣が見つかったのです。当時は、秀吉時代の大坂城の石垣ということも解(わか)らず、謎(なぞ)の石垣と考えられました。その後の調査で、この石垣が秀吉の大坂城の石垣で、現在の大阪城の地下にそのまま埋められていることが解ったのです。
現在まで、大坂城内で発掘(はっくつ)調査等も実施(じっし)されていますが、具体的な遺構(いこう)が確認(かくにん)されているのはわずかに3箇所(かしょ)のみでしかありません。1つは、現本丸金蔵(かねぐら)の東側の南北2箇所の地中で検出(けんしゅつ)された石垣で、豊臣時代の詰(つめ)ノ丸の南東隅(すみ)に位置する詰ノ丸と中ノ段(だん)を繋ぐ石垣と考えられています。2つ目は、本丸から北に一段下がった山里丸の西半分程(ほど)の調査で、現在の地表下4.5mで検出された石組の溝(みぞ)と瓦敷(かわらしき)です。3番目が山里丸・東片(へん)の雁木(がんぎ)に沿(そ)った調査で、現地表下1.5mほどで確認された焼土(しょうど)面(大坂夏の陣の火災(かさい)の跡か)と礎石状(そせきじょう)の石材です。
「金蔵」東側の地下で発見された秀吉時代の石垣(本丸詰の丸)が再発掘されました(大阪市経済戦略局観光課提供)
中でも最も注目されるのが、昭和59(1984)年に行われた「金蔵」東側の水道工事に伴(ともな)う調査で、見つかった高さ約6mの詰ノ丸の石垣で、出隅(ですみ)部(石垣を突出(とっしゅつ)させた部分の隅角)にあたります。石垣の角度は約70度で熊本城(熊本県熊本市)のような反りは見られません。
石材は、中枢(ちゅうすう)部ということで大型(おおがた)の石材を選択(せんたく)して使っています。花崗岩(かこうがん)を主に使ってはいますが、和歌山県で採取(さいしゅ)したと思われる砂岩や緑泥片岩(りょくでいへんがん)や安山岩(あんざんかん)も交じっていました。面白いのは、古墳(こふん)時代の石の棺(ひつぎ)の未完成品や、難波宮(なにわのみや)の礎石(そせき)と思われる石材が転用されていることです。大型石材が豊富(ほうふ)に無かったということでしょうか。自然石をそのまま積んでいますが、総合学術調査検出石垣の隅角部は、直方体状に整形された粗割(あらわり)石(大まかに割って形を整えた石材)を用いています。この地下に眠った石垣を一般(いっぱん)公開しようと「大坂城豊臣石垣公開プロジェクト」が立ち上がり、2024年春に展示施設の開館を目指しています。
大坂城跡出土金箔(きんぱく)瓦(大阪市文化財協会提供)。大坂夏の陣における火災で焼けた土や瓦を、陣後に徳川方が片付けてならしたことによってできた地層(ちそう)から出土した金箔瓦です
秀吉の大坂城の構造
秀吉の大坂城は、地中深く埋められ、その上に徳川大坂城が築かれたため、その構造(こうぞう)はほとんど解りませんでした。ところが、昭和35年(1960)徳川幕府初代京都大工頭(だいくがしら)を務(つと)めた中井家で、「大坂御城小指図か不審ノ所々可相改」と上書きされた2枚の絵図が発見されたのです。
まさか、豊臣時代の絵図が残っているとは思っていなかったため、初めは徳川大坂城の絵図が発見されたと誰(だれ)もが思いました。ところが、現在の姿(すがた)と比較(ひかく)すると、その姿かたちがあまりに違(ちが)っているため、専門家(せんもんか)に調査を依頼(いらい)した所、豊臣時代の本丸図と判明(はんめい)したのです。この絵図には、本丸と内堀(うちぼり)が描(えが)かれ、さらに建物の名前、石垣の高さや長さが書き込まれていました。豊臣時代の大坂城を描いた超(ちょう)一級史料で現在は「中井家本丸図」と呼(よ)ばれています。
「中井家本丸図」から起こした豊臣大坂城の図面です。南西側に馬出状の曲輪が付設していましたが、聚楽第(じゅらくだい)になると完全に独立した馬出曲輪になっています。(豊臣大坂城本丸復元図(仁木宏・家治清真『都市文化研究』vol.22「豊臣時代大坂城指図」(中井家所蔵)をめぐるノート 出典)
この絵図の発見によって、謎に包まれていた豊臣時代の本丸の構造が判明したのです。秀吉の築いた大坂城の本丸は、南を除(のぞ)く三方が水堀で囲まれ、本丸の南側には土橋(どばし)で接続(せつぞく)する一段低い馬出(うまだし)状の曲輪(くるわ)が設(もう)けられており、その外側にL字状をした空堀(からぼり)が設けられていたのです。西側の南端に位置する水堀を曲輪に対して斜(なな)めに入り込(こ)ませることで、2カ所が狭(せば)まり防御(ぼうぎょ)を固めていたことも解りました。
本丸は段々畑のように、3段の石垣で築かれていました。そのため、中枢部(天守と奥御殿)を2本の帯曲輪(おびくるわ)が取り巻(ま)くことになりました。これは、一気に10mを超えるような高石垣を積み上げるまで、石垣を築く技術が発達してなかったためと理解できます。天守は、最上段の北東隅にとびだすように位置し、その南側に奥向きの御殿(ごてん)(秀吉の私的空間)を設けていました。諸(しょ)大名を目通りするための対面所(たいめんじょ)は、南側に付け足された曲輪の東側に設けた表御殿(おもてごてん)で行われていました。ここが秀吉の政治を行うための事務(じむ)をとる人々が集まる中心的な施設でした。
本丸の大手門は、南側の西端近くの桜門桝形(さくらもんますがた)で、北側極楽橋(ごくらくばし)を渡(わた)る通路が搦手(からめて)口になります。この他、万が一の際(さい)の脱出口(だっしゅつぐち)として本丸の一番下の段の北西隅に舟入(ふない)りが設けられていました。また、本丸北側の中段には、広大なスペースの茶会を開いたり、宴会(えんかい)を催(もよお)したりする山里曲輪(やまざとくるわ)がありました。
豊臣大坂城推定(すいてい)復元イラスト(考証:中井 均/作図:香川元太郎)
この山里曲輪に茶室が完成したのが、天正12年(1584)正月3日のことです。天守も本丸御殿も未完成という状況(じょうきょう)にもかかわらず、千利休(せんのりきゅう)と津田宗及(つだそうきゅう)の2人の茶頭(さどう)(お茶のすべてをつかさどる茶のかしら)とともに茶室開きを行った記録が残されています。山里曲輪は、その名の通り利休の侘茶思想(わびちゃしそう)(贅沢(ぜいたく)で派手(はで)な道具などを使うのをやめて、質素(しっそ)で清らかな生活をするという気持ちや態度(たいど)を重要視(し)した考えです)に基(もと)づいて作られた山里の風情(ふぜい)を表す草庵(そうあん)(粗末(そまつ)で小さい家のことです)を中心にした庭園だったのです。
天正12年(1584)といえば、小牧長久手(こまきながくて)合戦直前で徳川家康(とくがわいえやす)や織田信雄(おだのぶかつ)との関係も良くありませんでした。そんな不安定な状況の中、天守や御殿以上に茶室を優先(ゆうせん)した理由は何だったのでしょうか。信長も重んじて用いた天下第一の呼び声高い千利休らによる茶の湯を開催することで、こうした文化人も認めた信長の役割や権限を引き継ぐ後継者であることを、様々な人々に示(しめ)そうとしたのです。
京都・高台寺(こうだいじ)の境内(けいだい)の高台に建つ傘亭(からかさてい)と呼ばれる茶屋で、伏見(ふしみ)城からの移築建物と伝わります。丸太造で茅葺(かやぶ)き屋根の素朴(そぼく)なたたずまいです。
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※野面積(のづらづみ)
自然石をそのまま積み上げた石垣のことです。加工せずに自然石を積み上げただけなので石の形や大きさに統一性(とういつせい)がなく、石同士(どうし)がかみ合わず、隙間(すきま)が空いてしまいます。そこで、その隙間に中型から小型の石材を詰めることもありました。
※雁木(がんぎ)
塁(るい)の上へ昇(のぼ)り降(お)りするための坂や石段のことです。
※出隅(ですみ)
2つの石垣の壁(かべ)が外向きに出あってできる角の部分(凸(とつ)になっている角)のことです。
※土橋(どばし)
堀を渡る出入りのための通路として、掘り残した土手(土の堤(てい))のことです。堀で囲まれた曲輪には、最低1つは土橋がありました。木橋では運べない重い物を運んだり、相手方に切り落とされたりして孤立(こりつ)しないようにするためです。
※馬出(うまだし)
虎口(こぐち)の外側に守りを固めるためと、兵が出撃(しゅつげき)するときの拠点(きょてん)とするために築かれた曲輪のことです。外側のラインが半円形の曲線になる丸馬出(まるうまだし)と、四角形になる角馬出(かくうまだし)に大きく分けられています。角馬出の場合、石垣が築かれたものもあります。
※空堀(からぼり)
水の無い堀のことです。山城で多く用いられました。近世城郭(きんせいじょうかく)においても、重要な場所は空堀が採用(さいよう)されています。堀底は、通路として利用されることが多く認められます。
※帯曲輪(おびぐるわ)
曲輪の外側に、帯のように細長く置かれた補助的(ほじょてき)な小曲輪です。
※御殿(ごてん)
城主が政治を行ったり、生活したりする建物です。政務や公式行事の場である「表向き」の表御殿と、藩主(はんしゅ)の住まいである「奥(おく)向き」の奥御殿とに大きく分けられていました。
※山里曲輪(やまざとくるわ)
数寄屋風(すきやふう)の建物や、庭・池・茶室などを設けた風雅(ふうが)を楽しむための曲輪のことです。自然の風景を取り入れた場所で、山里のように見えたため、この名があります。
次回は「豊臣秀吉の居城3(大坂城の姿)」です。
▼【連載】理文先生のお城がっこう そのほかの記事
加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。