戦国10大合戦と城|小和田哲男 第1回 小田原合戦

戦国時代を代表する数々の合戦において城がどのように関わったか、小和田哲男先生が解説する新連載講座「戦国10大合戦と城」がスタート! 第1回のテーマは、天下統一を目指す豊臣秀吉が関東制圧のため後北条氏と戦った「小田原合戦」です。戦いに至るまでの背景と合戦の行方、そして豊臣軍を迎え撃つ後北条氏が防戦のために築いた城について見ていきましょう。

「関八州国家」を目指した後北条氏

戦国大名北条氏は、鎌倉時代の執権北条氏と区別するため、後北条氏とよばれている。初代伊勢宗瑞(通称北条早雲)からはじまり、2代氏綱から苗字を北条とし、3代氏康、4代氏政、5代氏直と、相模小田原城(神奈川県小田原市)を拠点にみごとな領国経営を展開していた。それは、後北条氏自ら「関八州国家」という地方独立政権の樹立につながるものだったのである。

ところが、4代氏政・5代氏直がまさに「関八州国家」を成立させようとしたその時、中央で、豊臣秀吉が全国政権を打ちたてる動きを加速させていた。天正13年(1585)の四国平定、同15年(1587)の九州平定である。秀吉は後北条氏にも戦わずに軍門に降ることを求めてきた。それが翌天正16年(1588)4月に行われた諸大名への、聚楽第(京都府京都市)行幸への参列要求であった。秀吉は関白としての政庁である聚楽第へ後陽成天皇をお迎えし、そこに全国の諸大名を参列させ、諸大名から誓紙をとって、関白秀吉への絶対的服従を求めたのである。つまり、聚楽第行幸に参列するかどうかが、関白豊臣政権に服従するか否かの“踏み絵”となったのである。

この時点での後北条氏の当主は5代氏直であったが、実権は4代氏政が握っていて、氏政は聚楽第行幸への参列をボイコットしている。つまり、豊臣政権への服従を拒否したのである。ということは、四国攻めで長宗我部元親が秀吉の大軍に攻められ、九州攻めで島津義弘がやはり秀吉の大軍に攻められたように、関東も攻められることを意味したわけで、氏政・氏直父子、特に父の氏政の方は受けてたつ姿勢だったことがうかがわれる。

では、氏政が受けてたつという判断をした理由は何だったのだろうか。これには、氏政自身の過去の体験が関係しているのではないかと思われる。氏政は、かつて、上杉謙信に小田原城を攻められたとき、籠城して撃退した経験をもっていた。また、武田信玄に攻められたときも、小田原城に籠城して撃退することに成功していたのである。

戦国を代表するといってもよい上杉謙信・武田信玄という二人の名将を小田原城に籠城して勝ったこの体験が、「秀吉軍も撃退できる」と考えたのではないかと思われる。

後北条氏側の防戦準備としての築城

小田原城、総構
大規模な堀と土塁によって囲まれた小田原城の総構

もっとも、氏政も、秀吉軍の軍勢は謙信・信玄の比ではないと情報をキャッチしていて、防戦準備にとりかかっている。一つが、小田原城と城下町をスッポリ包み込んだ総構、すなわち大外郭土塁の築造である。総延長9キロメートルにおよぶ大工事がはじめられている。もう一つが山中城(静岡県三島市)の築城である。氏政・氏直は箱根を防衛線と考えていた。

山中城
山中城の障子堀

東海道が通る箱根路は後北条氏にとって防衛の要であった。ただ、足柄路も使われていたので、足柄峠にも足柄城(静岡県駿東郡小山町)を築き、もう一つ、従来からあった韮山城(静岡県伊豆の国市)を整備し、足柄城―山中城―韮山城のラインで秀吉軍をくいとめる作戦を考えた。

中でも、秀吉軍主力が通るであろう箱根路を押さえるため、山中城の築城には力を入れており、後北条流築城法といわれる障子堀の技法が工夫されている。

また、15万ないし20万の大軍が襲来することが予想されたため、後北条氏側としても、ただ城を築くだけではなく、城を守る兵員の確保も課題だった。そこでとられたのが「百姓大量動員体制」である。つまり、後北条氏は農民に対し、徴兵令を出していたのである。

中でも、天正15年(1587)7月晦日付の「定」は有名で、その第2条目にみえる「腰さし類之ひらひら武者めくやうニ支度致すべき事」という文言は、後北条軍の実態をいかんなくあらわしているといってよい。また、その他の農民に対する徴兵令には、「郷村の男子十五歳から七十歳まですべて出頭せよ」といった趣旨の項目もある。「人間五十年」などといわれたこの時代、70歳の老人がどれほど戦力になりえたかは疑問であるが、後北条氏は後北条氏なりに、兵員確保に力を入れていたことがわかる。

豊臣秀吉方の支城各個撃破戦略

秀吉として、小田原攻めの口実がつかめないでいたところ、天正17年(1589)10月、鉢形城主北条氏邦の家臣で沼田城代を務めていた猪俣邦憲が、真田昌幸の城である名胡桃城(群馬県利根郡)を奪うという事件が勃発した。秀吉は、これを後北条氏討伐の絶好の口実ととらえ、後北条氏に宣戦布告をし、ついに、翌18年(1590)3月1日、秀吉自身、3万2000の直属軍を率いて京都の聚楽第を出陣した。総勢は21万とも22万ともいわれている。

実際の戦いがはじまったのは3月29日で、秀吉は甥の秀次を総大将として山中城攻めに向かわせている。『毛利家文書』の「山中城取巻人数書」によれば、総勢は6万7800という。数に多少の誇張はあるかもしれないが、守る山中城側は4000ないし5000で、激戦の末、城は半日で落とされている。

山中城を落とした勢いで秀吉の軍勢は早くも小田原まで進み、小田原城包囲の態勢をとりはじめた。しかし、秀吉も総構をみて、簡単には落とせないと判断し、対の城を築くことになった。これが“一夜城”として有名な石垣山城(神奈川県小田原市)である。

石垣山城
石垣山城の井戸曲輪

『当代記』さらには『北条五代記』などによると、秀吉が石垣山城の築城に着手したのは4月6日で、徳川家康の家臣松平家忠の『家忠日記』によると、工事の一応の完成は6月26日だったという。“一夜城”ならぬ80日城であった。

小田原合戦図
小田原合戦図(小和田哲男著『戦国10大合戦の謎』)

こうして、秀吉軍が小田原城を包囲するとともに、関東に散らばる小田原城の支城の各個撃破作戦を展開した。小さな支城の場合、包囲されて1日ももたず無血開城というケースが多かったが、松井田城(群馬県安中市)・韮山城(静岡県伊豆の国市)・鉢形城(埼玉県大里郡)・岩付(いわつき)城(埼玉県さいたま市)・忍(おし)城(埼玉県行田市)の5つは比較的長期にわたって秀吉軍の攻撃をはねのけていた。

最終的には黒田官兵衛が単身、小田原城に乗り込み、氏直に降伏を勧告し、7月5日、氏直が投降して戦いは終わった。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
   ▶YouTube「戦国・小和田チャンネル」も配信中

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