理文先生のお城がっこう 城歩き編 第8回 様々な場所に造られた城2(平山城・平城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、丘の上に造られた「平山城」と平野の中に築かれた「平城」がどんなお城だったのか学んでいきましょう



■理文先生のお城がっこう
前回「第7回 様々な場所に造られた城1(山城)」はこちら

前回は、高い山の上に造(つく)られることの多い山城の特徴を勉強しました。山城の最大の特徴(とくちょう)は、「守りやすく攻(せ)め難(がた)い」という立地にあることがわかりましたか?今回は、我(わ)が国で、最も多く見られる平山城(ひらやまじろ)と、平野の中に築(きず)かれた平城(ひらじろ)がどんな城だったのかを勉強しましょう。

丘の上に造られた城 平山城

戦国時代が終わりに近づくと、戦うことを優先(ゆうせん)して造られた山城にかわり、領地(りょうち)を治めることや住むのに便利な、なだらかな丘(おか)の上に城が造られるようになります。こうした場所に造られた城を「平山城(ひらやまじろ)」と言います。

丘の上に築かれた城郭(じょうかく)部分(お城の中心的な施設(しせつ)がある場所)を水堀(みずぼり)で囲んで、丘の下に広がる平坦部(へいたんぶ)には、家臣や町人たちが住む城下町(じょうかまち)を設(もう)け、城のほか城下町一帯も含(ふく)めてその外周を堀や石垣(いしがき)、土塁(どるい)で囲い込んだ惣構(そうがまえ)も発達しました。

戦国時代に築かれた平山城は、集落の後方にある平野に細長く突(つ)き出た台地の上や小山の上に造られることが多かったため、丘城(おかじろ)とも呼(よ)ばれました。関ヶ原の戦いが終わると、平野の中に独立(どくりつ)する小高い丘の上に築かれることが増(ふ)えてきます。姫路城(兵庫県姫路市)、高知城(高知県高知市)、丸亀城(香川県丸亀市)、松江城(島根県松江市)など、江戸時代の天守が残るほとんどの城がこのケースにあてはまります。

丸亀城
山ろくから見た丸亀城
標高66mの亀山を利用し、山麓(さんろく)から山頂(さんちょう)まで4段(だん)の石垣を積み上げて築いた平山城です。4段の石垣を合計すると約60mになり、積み上げられた石垣を足した高さは、日本一を誇(ほこ)っています。

天然の崖(がけ)や谷地形を利用して造られた山城に比べれば、城を造るための土木工事は考えられない程大規模(だいきぼ)になりました。城を造る場所の丘の地形をしっかり調べ、どこを崩(くず)して、その崩した土をどこに盛(も)り土するのかを決めておきます。工事は、一番高い頂上(ちょうじょう)付近から、順番に斜面(しゃめん)を崩したり、盛り土したりしながら平らな場所(曲輪)を造っていったのです。

敵が登って来るのを防ぐため、斜面を登れない角度にする作業が最も大変でした。板を貼(は)って角度を決め、内部に土を入れて、上から突(つ)き固める作業を繰(く)り返すという「版築(はんちく)」工法が広く行き渡(わた)っていました。土で固めるのではなく、石垣にすれば、より強い防御(ぼうぎょ)を持つ城になりますが、石垣を積む専門(せんもん)の技術を持つ人々を集めなければならず、誰(だれ)でも出来ることではありませんでした。

石垣の城は、その上に(やぐら)や城門(じょうもん)といった、建物を建てることが出来たため、土の城より堅固(けんご)な城になります。また、天守(てんしゅ)や豪華(ごうか)な御殿(ごてん)も造られるようになりました。城内には、戦争をするための櫓や土塀(どべい)だけでなく、生活するために必要な倉庫や台所のような施設も造られました。戦争の時だけでなく、普段(ふだん)の生活の場としても使えるような城になると、土木工事と言われる普請(ふしん)よりも建物を造る作事(さくじ)という作業がより重要なポイントになったのです。

平山城の大きな特徴の一つは、シンボルとしての天守が築かれたことです。それまで見たことも無いきわめてぜいたくで華(はな)やかな美しい建物を造ることで、領主の力を示そうとしたのです。天守は、主要な街道や城の正面から最も見やすい場所に建てられました。城を訪(たず)ねて来る人や、道行く人たちに、自分がどれほど力を持っているかを知らせようとしたためです。

米子城
米子城復元イラスト(考証:加藤理文/イラスト:香川元太郎 初出:『歴史群像』2018年8月号(学研プラス))
関ヶ原合戦の後、中村一忠(なかむらかずただ)が、吉川広家(きっかわひろいえ)の城を利用して、中海に面した標高90mの湊山の山頂部を中心に、北側の丸山、東側の飯山までを使い築きました。麓には内堀が廻り、その外側に城下町が広がる平山城の特徴を良く表す城です。

平野の中に築かれた城 平城

河川によって運ばれた土砂(どしゃ)が河口付近に積み重なって出来た三角州(デルタ地帯)や湖・沼(ぬま)、時々水がつくような湿(しめ)った場所という平野の中の地形が険しい場所を選んで造られた城を「平城」と言います。最初から、戦争に備え、地域を治めることや生産活動をする場所まで押(お)さえることをめざした城です。そのため、城下町という家臣の住む場所や商人・職人の住む所まで計画的に配置されていました。平城は、石垣を造るための技術が進んだことによって、築くことが可能になった最も先進的な城だったのです。

織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)が治めた時代に造られた平城は、室町時代に各地の平地に造られた守護所(しゅごしょ)とは、まったく異(こと)なっていました。そこには、土木工事の技術や崩れることの無い石垣を高く積み上げる技術が使われたためです。こうしたすばらしい技術が広がったことにより、自然の山や丘を利用しなくても、自由にどこにでも城を築くことが出来るようになったのです。

土木工事の技術が進歩したことによって、大きな河口を埋め立てたり、海や湖を埋め立てたりして、広大な敷地(しきち)を造ることが出来るようになったのです。そのため、太田川の河口に広島城(広島市)が築かれたり、海に浮(う)かぶような高松城(香川県高松市)や今治城(愛媛県今治市)が完成したりしたのです

今治城
広い水堀に囲まれた今治城
瀬戸内海(せとないかい)に面して築かれた平城で、三重に囲まれた堀に海水を取り込(こ)んだ代表的な海城(うみじろ)(水を利用して輸送する交通を押さえることを目的に築かれた、海に面した城で、堀の一部に船着き場などを置いていました)です。

将軍(しょうぐん)の城である江戸城は、神田山(かんだやま)を切り崩し、日比谷入江(ひびやいりえ)を埋め立て、前島(まえじま)を掘(ほ)って水を通して道三堀(どうさんぼり)や平川へと繋(つな)げたのです。このように、山を切り崩して埋め立てることもあれば、広大な堀を掘って、そこから出て来た土を埋め立てて、土地を広げることもありました。平城こそが、最も計画的でこと細かな工事を進めるための準備や日数を必要とした城なのです。

平城は、平らな場所に造られたため、平山城と比べると遠くまで見渡すことが出来ないという弱点がありました。そこで、それをカバーするために三階建てや五階建ての大きさを持つ天守や、曲輪の角地に二階建て以上の櫓を多く建てたのです。平城とは、土木工事と建築技術と言う二つの技術が、大きく進歩したことによって造ることが出来るようになった城だったのです。

駿府城
駿府城復元イラスト(考証:加藤理文/イラスト:香川元太郎 初出:『歴史群像』2015年2月号(学研プラス))
駿府城は徳川家康(とくがわいえやす)が、隠居(いんきょ)生活を送ることと、大坂に残る豊臣秀頼(とよとみひでより)に備えて築いた平城で、三重の水堀に囲まれていました。完成直後に火事で焼けたため、すぐに建て直されました。天守は、周りを多門櫓が囲む他とは違う特徴を持っていました。

今日ならったお城(しろ)の用語

城下町(じょうかまち)
平山城や平城がたくさん築かれるようになると、城の中心施設の周りに家臣たちの住居(侍屋敷(さむらいやしき))を置き、商人や職人が住む場所をまとめたりお寺や神社をまとめたりした大きな町が造られました。こうした城の周りに造られた町のことです。碁盤(ごばん)の目のような計画的な町でした。現在の大きな都市のほとんどが城下町から発展した都市になります。

惣構(そうがまえ)
城だけでなく城下町まで含めた全体を守るために、堀や土塁などで囲い込んだ防御施設のことです。後北条氏の小田原城の「惣構」は約9km、京都市街を囲い込んだ豊臣秀吉の「御土居(おどい)」の総延長は22.5kmもありました。

櫓(やぐら)
もとは、武器や食べ物を保管しておく倉庫が主な役割(やくわり)でしたが、戦いの時の情報を集めたり、命令を出したりする場所にも使用されました。また、お酒を飲んだり遊んだり、月見をしたりする場所にも利用されています。方位や使用の目的、保管されている物の名前が付けられました。

守護所(しゅごしょ)
守護(一国の支配をまかされた武士)が生活の本拠とした館(やかた)の所在地のことです。守護の力が強くなると、国の役人が住んでいた国衙(こくが)から、さまざまな役割が移されました。守護の館の周りには、市場や神社・お寺などが集まって、地方の中心都市になりました。

天守(てんしゅ)
江戸時代に地方を治めた大名の城に建てられた中心的な建物で、最も大きくて高い建物のことです。安土城の天主は、織田信長が「天主」と名付けたため「天主」と書きますが、他の城では「天守」と書きます。殿主・殿守とも書かれたりしますが、読みはどれも「てんしゅ」です。

土塀(どべい)
中心になる柱などを造って、その上に土を塗って固めた塀を呼びます。固めた土を積み上げて造ったものもあります。どちらの塀にも、小さな屋根が付けられていました。

普請(ふしん)
城を造るための工事の中で、堀や土塁・石垣などを築くすべての土木的な工事のことです。石垣の無い城では、城を造るための工事の中心でした。

作事(さくじ)
天守や櫓・塀・門などの建築物を建てる工事のことです。江戸時代からの城を造るための工事の中心でした。



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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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