理文先生のお城がっこう 城歩き編 第9回 小田原城を歩こう(近世編)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、小田原城へ行ってみます。小田原城はどんなお城なのでしょうか?



■理文先生のお城がっこう
前回「第8回 様々な場所に造られた城2(平山城・平城)」はこちら

山城(やまじろ)平山城(ひらやまじろ)平城(ひらじろ)の違い(ちがい)はわかりましたか? 時代や目的によって、様々な場所に城は造られてきたのです。今回は、江戸時代に築(きず)かれた、江戸の入口を守る平山城の小田原城を歩いてみましょう。

小田原城は、北条早雲(ほうじょうそううん)(伊勢宗瑞(いせそうずい))を初代とする小田原北条氏の居城として5代に渡り、範囲・規模などをひろげて大きくなりました。武田信玄(たけだしんげん)や上杉謙信(うえすぎけんしん)に攻め(せめ)られましたが、籠城戦(ろうじょうせん)城に籠って、敵の攻撃を防ぎつつ相手の食べ物や武器が無くなるのを待つ戦法)で耐(た)え抜(ぬ)難攻不落(なんこうふらく)攻撃するのがむずかしく、簡単に落城しないこと)の名をほしいままにしたのです。

江戸時代は、箱根の関と関東の入口を押(お)さえる幕府の大切な城として、譜代(ふだい)関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に仕えていた大名)の大名が城主(じょうしゅ)となりました。

現在の城跡と近世小田原城の歴史

JR東海道線を挟んで、南側に広がる城跡(じょうせき)の中で、本丸と二の丸一帯にあたる場所が、小田原城址(じょうし)公園です。城址公園は、国指定史跡(しせき)・都市公園に指定されており、昔の城の姿に戻すための、史跡整備が進められています。

北側に広がる曲輪群(くるわぐん)は、近代の開発によって壊(こわ)された場所が多いのですが、南側についてはかなり昔の面影(おもかげ)を留とどめています。三の丸は、人家や商店・ビルなどが立ち並(なら)ぶ場所になってしまいましたが、大手門箱根口門の石垣は一部江戸時代のまま残っています。

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現在の小田原城址公園案内図

それでは、簡単(かんたん)に近世(きんせい)の小田原城の歴史についてまとめておきましょう。

北条氏が滅亡(めつぼう)した後、徳川家譜代(ふだい)の大久保忠世(おおくぼただよ)が城主となりますが、慶長(けいちょう)19年(1614)二代忠隣(ただちか)が家康の機嫌(きげん)を損(そこ)ねて突然(とつぜん)、城と領地(りょうち)を取り上げられ、近江(おうみ)の井伊直孝(いいなおたか)に預(あず)けられてしまいます。小田原城も、本丸を除(のぞ)き壊されてしまいました。その後、藩主の代わりに城を警護(けいご)する人が入っていましたが、寛永(かんえい)9年(1632)稲葉正勝(いなばまさかつ)が城主になりました。

翌年(よくとし)、大地震(だいじしん)が発生して、城はあちこちが壊れる大きな被害(ひがい)を受けてしまうのです。この被害を機会に大掛かり(おおがかり)な整備と改修の工事が行われ、延宝3年(1675)現在見られるような近世城郭の姿に生まれ変わったのです。明治時代に入った、明治3年(1870)城は廃城(はいじょう)城として使われなくなること)となり、建物は解体されて売り払われてしまいました。

城跡は、陸軍省の管理から、御用邸(ごようてい)天皇家の別邸)として利用されることになりますが、大正12年(1923)の関東大震災後に、不要となったため、神奈川県・小田原町(現在の小田原市)に売り渡されることになりました。

「三の丸」を歩いて見よう

平成5年(1993)、小田原市は「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想(せいびきほんこうそう)」を決定して、江戸時代の末期の姿へ戻すことを計画しました。それにあわせ、発掘調査、整備復元(せいびふくげん)が行われ、少しずつかつての近世城郭(きんせいじょうかく)の姿を取り戻してきています。

人家や商店・ビルなどが立ち並ぶ場所になってしまった「三の丸」の跡地ですが、城の面影も少しは残されています。小田原駅からお堀端(ほりばた)通りをお城方面に向かって行く途中に、三の丸北口にあたる「幸田口門(こうだぐちもん)」の土塁や外堀の石垣の一部が残っています。

「大手門」跡の渡櫓門(わたりやぐらもん)石垣の上に櫓を渡して下に門を開けたもの)の石垣も残っています。三の丸東堀に架かる土橋(どばし)を渡(わた)った所にあった門で、前面の冠木門(かぶきもん)名称は冠木門ですが、門の形式は高麗門(こうらいもん)でした)と後方の渡櫓門の二つの門と、周囲を石垣と土塀で四角形に囲んだ「桝形形式(ますがたけいしき)」の門でした。

現在、残された石垣の上に鐘楼(しょうろう)鐘をつるし、時を告げる施設)が建てられています。鐘はもともと150m南の浜手御門(はまてごもん)にあったのですが、明治29年(1896)年に裁判所(さいばんしょ)の東北隅(すみ)に移され、大正年間にその裁判所向かいにある大手門石垣上に移(うつ)されました。昔の鐘(かね)は太平洋戦争中に国に提供(ていきょう)されてしまったため、昭和28年(1953)に新しくされました。現在も、朝夕6時に突(つ)かれ市民に時を告(つ)げています。

「箱根口門(はこねぐちもん)」は、今も国道1号線の信号機に名称(めいしょう)が残っています。初めて城が造られた時の大手門と言われています。昔は、門の西側から南側にL字に曲がる水堀(みずぼり)があり、その角に桝形(ますがた)を設(もう)けた「桝形形式」の門でした。入口は西側の冠木門で、直角に折れた後方に渡櫓門がありました。この場所は、発掘調査が行われ、渡櫓門の東櫓台跡(あと)とそれに続く土塁の一部が整備され、開放(かいほう)されています。道路を渡った西側にも一部土塁が見られます。

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大手門跡の石垣                 箱根口門跡の石垣

二の丸周辺を歩こう

三の丸から二の丸へ入る南側に、L字型をした四方を水堀に囲まれた区画があります。西側が馬出曲輪(うまだしくるわ)、東側が馬屋曲輪(うまやくるわ)と呼(よ)ばれ、二つの曲輪で馬出(うまだし)の役割(やくわり)を受け持っていたのです。

三の丸から二の丸へと続く大手筋の中で、馬屋曲輪の北側端(はし)に位置していたのが馬出門で、二の丸の正面を守る重要な門でした。江戸時代の初期からこの場所にあり、寛文(かんぶん)12年(1672)に改修(かいしゅう)され、江戸時代の終わりまでずっとこの場所を守ってきたのです。この門は、「桝形形式」の門で、馬出門と内冠木門(うちかぶきもん)の二つの門で守りを固めていました。二つの門共に、控柱(ひかえばしら)にそれぞれ屋根が付く「高麗門」でした。絵図には、正面の門が「馬出門」・「冠木門」などと書かれ、桝形から出る南側の門が「内冠木門」と書かれています。現在の門は、平成21年(2009)に木造により再建(さいけん)されたものになります。

小田原城、馬出門
二つの門で守りを固めた「馬出門」を見る

二の丸跡最大の見所は、平成9年(1997)に復元が完成した銅門(あかがねもん)と二の丸中堀(なかぼり)の景観でしょう。中堀は、大正12年(1923)の関東大震災によって石垣が崩(くず)れたため埋(う)められていましたが、昭和58年(1983)から平成4年(1992)まで発掘調査が行われ、石垣の位置、橋脚(きょうきゃく)橋を支える構築物のこと)などが確認され、銅門を復元するための重要な資料(しりょう)となりました。

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銅門と二の丸中堀の景観

二の丸の正面口になる銅門は、大手門や箱根口門、馬出門と同じ「桝形形式」の門でした。馬屋曲輪から住吉橋(すみよしばし)を渡って入る構造(こうぞう)で、内仕切門(うちしきりもん)と渡櫓門で構成されています。

桝形空間が土塀によって囲まれているため、内仕切門は、左右の石垣を開けた場所に設けるという埋門(うずみもん)形式となっています。渡櫓門は、内仕切門から直角に折れた場所に、中堀石垣へ続く櫓台を築(きず)き、そこに建てられました。渡櫓門階下の木部に、筋状(すじじょう)に銅(どう)板が打ち付けられていたため銅門と呼ばれたのです。

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住吉橋と内仕切り門              銅門渡櫓門

また、二の丸平櫓(ひらやぐら)一階建ての櫓)が昭和9年(1934)に再建された姿で残っていますので、こちらも見ておきましょう。外観は、絵図等とは異なっています。

本丸・天守閣をめざそう

二の丸から、常盤木橋(ときわぎばし)(別名は九輪橋)を渡り坂道を登ると、行く手を塞(ふせ)ぐように巨大な常盤木門(ときわぎもん)が見えてきます。この門は、昭和46年(1971)鉄筋(てっきん)コンクリート造(一部木造)で再建(さいけん)されました。本丸正面の門であるため、容易(ようい)に破(やぶ)れない頑丈(がんじょう)な構造(こうぞう)に造られたのです。周囲を多門櫓(たもんやぐら)と渡櫓門(7間×4間(1間は、約1.82m)と城内最大級)でコの字状に囲んだ「桝形形式」の門でしたが、前面の門は絵図によれば、矢来門(やらいもん)竹や丸太を粗く組んで作った簡易(かんい)的な門)となっています。

現在(げんざい)は、石垣のみが残されています。渡櫓門の木部には、銅板ではなく、より丈夫(じょうぶ)な鉄板が打ち付けられました。「常盤木」とは、落葉する時期が無い常緑広葉樹林(じょうりょくこうようじゅりん)のことで、門の側に植えられていた松が何十年も成長していることから、城がずっと未来まで繁栄(はんえい)してほしいという願いを込めて名付けられたそうです。

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本丸大手口の守りの要「常盤木門」

門を潜ると、正面に昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造で再建された天守閣の雄姿が見えてきます。江戸時代に造られた模型や図面を参考にして、藤岡通夫博士が設計しました。最上階の廻縁(まわりえん)周囲を廻ることが出来る縁側の一種)は、時の市長の要望を入れて、再建にあわせて新しく付けられたものです。

廻縁を除けば、宝永(ほうえい)3年(1706)に再建され、明治3年(1870)に取り壊された天守の姿になっています。高さは天守台を含め約40m(建物は、鯱(しゃち)を含(ふく)めて約29m)です。江戸時代の天守は、床面積が五重天守の大きさであったため、各階の階高(かいだか)(階の床面からすぐ上の階の床面までの高さ)が高く、軒(のき)外側に出っ張っている屋根部分)も大きく外に出ています。

一階部分をよく見てください。上と下に二階分の窓(まど)があることが解り(わかり)ます。中央部の庇(ひさし)が省かられたため一階に見えますが、内部は二階になっています。従って、天守は外観三重、内部四階だったのです。一階部分に入母屋出窓(いりもやでまど)入母屋破風(二等辺三角形をした屋根飾り)の屋根が付いた出窓)、各階の窓の上下に長押(なげし)柱の表面に打ち付ける横木)が廻(まわ)るのは、江戸幕府の櫓の特徴(とくちょう)と同じです。

天守は、南側に付櫓(つけやぐら)天守に付属する櫓)を築(きず)いて、渡櫓(わたりやぐら)接続することを目的に造られた櫓)で天守本体と接続(せつぞく)していました。

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昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建された天守閣(修理後)

平成28年(2016)、天守閣の耐震補強工事(たいしんほきょうこうじ)にあわせて、内部の展示(てんじ)が大きくリニューアルされました。最上階に、江戸時代の天守にまつられていた摩利支天(まりしてん)仏教の守護神の陽炎を神格化したもの。陽炎は実態が無いため、捉えられず、焼けず、傷つかないことから、武士の間で信仰されました)像(ぞう)を丁重に据(す)え置く空間が再建されました。

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天守最上階に復元された摩利支天像を安置した場所

天守見学後、天守の西側から小峯曲輪(こみねくるわ)へ降りる道(往時は存在していません)を通って、南曲輪をめざしましょう。本丸南側の石垣が大きく地滑り状(じすべりじょう)に崩れていることに気付くはずです。この崩れは、関東大震災による崩れで、地震(じしん)の規模(きぼ)の大きさが実感されます。この他、本丸の北下に幕府の米蔵(くら)が建ち並んでいた「御用米曲輪(ごようまいくるわ)」があります。この曲輪は、発掘調査によって戦国時代の池・庭園の跡などが見つかり、戦国時代の城の中心の1つであったことが解りました。現在、整備中です。

これで、近世の小田原城の残された遺構(いこう)をほぼ見て回ったことになります。ゆっくり見て回れば、半日ほどかかります。水堀に囲まれ、いくつもの桝形門で行く手を阻んでいたことが解りましたか。江戸時代の城は、堀や土塁だけではなく、建物を上手く配置して、敵(てき)の侵(しん)入を防ごうとしていたのです。


今日ならったお城(しろ)の用語


籠城戦(ろうじょうせん)
城に籠(こも)って、敵の攻撃(こうげき)を防ぎ(ふせぎ)ながら、攻(せ)め手が食べ物や武器(ぶき)がなくなるのを待つ戦法。あるいは、味方が来るまで、敵の攻撃を防ぎながら城に立てこもって戦うことです。

埋門(うずみもん)
石垣や土塁を開いてつくられたトンネル式の門。門の上は、土塀となる場合が多く見られます。単純な構造(こうぞう)ですが、守りを固めやすいのが特徴です。

廻縁(まわりえん)
建物の周囲に廻らされた縁(えん)側のことです。建物の本体の周りに短い柱を立て並べ、それで縁側の板を支えた物です。転落を防止するために手すりを付けますが、高級な造りの手すりであったため、高欄(こうらん)とか欄干(らんかん)と呼びました。天守の最上階に用いられることが多い施設(しせつ)です。

入母屋出窓(いりもやでまど)
出窓の上に、入母屋造りの破風(はふ)屋根の隅棟(斜め方向に降りている隅の棟)に繋がる二等辺三角形をした破風(屋根の端部の飾り))を載(の)せたものを言います。出窓の一番下は、「石落し」として利用されることが多かったようです。

長押(なげし)
書院造(しょいんづくり)や神社やお寺に使う部材で、柱の表面に打ち付けられた横材(よこざい)のことです。窓の上と下に打ち付けて、見栄えを良くしました。

付櫓(つけやぐら)
本来は天守に続く櫓のこと。天守と接続(せつぞく)する例が多く見られますが、渡櫓によって接続する例もあります。

渡櫓(わたりやぐら)
左右の石垣の上に渡して建てられた櫓のことです。または、石垣上に長く続く櫓や、櫓と天守あるいは櫓と櫓の間に建てられた接続目的の櫓のことです。


次回は「縄張の形」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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