2018/12/28
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第7回 様々な場所に造られた城1(山城)
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、山城がどのような場所に造られ、どんな特徴を持つのか、学んでいきましょう。
■理文先生のお城がっこう
前回「第6回 縄張りとは何でしょう」はこちら
前回は、城(しろ)を造(つく)るための場所選びが、とても大切だということと、選んだ場所のどの範囲(はんい)に、どのくらいの大きさの城を建てるかの設計作業(せっけいさぎょう)を行うことを勉強しました。第7回は、そうした過程(かてい)を経て完成した城が、どのような場所に造られ、どんな特徴(とくちょう)を持つ城なのかを学んでいきたいと思います。
我(わ)が国に築(きず)かれた城は、どこに造られているかで山城(やまじろ)・平山城(ひらやまじろ)・平城(ひらじろ)と大きく3種類に分類されます。同じ城にも関わらず、山城と表記されたり、平山城と表記されたりすることもあります。これは、両者を区分する、はっきりとした基準(きじゅん)があるわけではないためです。城の特徴を表すための、大まかな分け方だと考えましょう。今回は、山城の特徴を覚えましょう。
なぜ、山の上が選択されたのでしょう
山城は通常(つうじょう)100~200m程度(ていど)の高さを持つ独立(どくりつ)した山頂部(さんちょうぶ)や、高い山から広がって伸(の)びる尾根筋(おねすじ)の一番先の部分や一番高い場所を選んで築かれました。この山城の最大の特徴は、「守りやすく攻(せ)め難(がた)い」という立地にありました。崖(がけ)や谷地形という自然が創(つく)り出した、近づくことも難(むずか)しい場所を上手に取り込(こ)んで、城を守るための施設(しせつ)に利用しています。
かといって、崖や谷という攻めにくい場所だけが優先(ゆうせん)されたわけではありません。重要視(じゅうようし)されたのは、城が築かれた高い場所からどこまでが見渡(みわた)せるかという視界(しかい)の広がりでした。領地(りょうち)となる平坦部全域(へいたんぶぜんいき)は言うに及(およ)ばす、押(お)さえるべき街道、河川(かせん)や入り江(え)(港)が監視(かんし)できることが、山城には必要だったのです。
岐阜城山頂部(ぎふじょうさんちょうぶ)からの景観
山城の発展過程
山城は、国人とか国衆(くにしゅう)と呼(よ)ばれ農村に住みついて、実際(じっさい)に農民を支配(しはい)した在地(ざいち)の領主たちが、万が一敵方(てきがた)に攻められた時の備(そな)えとして築いた詰城(つめじろ)(最終的な防御の拠点)が最初の姿(すがた)でした。そのため、攻め難く、篭(こも)って戦いやすい、険(けわ)しい地形の山が選ばれたのです。こうした城が登場するのは、鎌倉時代(かまくらじだい)の終わり頃(ごろ)のことになります。
京都の北朝と吉野(よしの)の南朝が相争う時代になると、南朝勢力(なんちょうせいりょく)が山を生活の本拠(ほんきょ)とする悪党(あくとう)(幕府(ばくふ)や荘園(しょうえん)領主に「反抗(はんこう)した」武士集団(ぶししゅうだん))勢力や密教(みっきょう)(大日如来(だいにちにょらい)を本尊(ほんそん)とする天台(てんだい)宗・真言(しんごん)宗の教え)系(けい)の寺院勢力と結びつきます。
そのため、彼(かれ)らの生活の本拠である、急峻(きゅうしゅん)な地形を持つ高い山が城地になったのです。城といっても臨時的(りんじてき)な築城に過(す)ぎず、急峻な山の地形そのものが防御施設(ぼうぎょしせつ)でした。南北朝の争乱(そうらん)が収(おさ)まると、再(ふたた)び平野部の居館(きょかん)が主流となりますが、万が一に備えた詰城を持つ有力守護層(ゆうりょくしゅごそう)も登場してきます。
やがて、応仁・文明(おうにん・ぶんめい)の乱をきっかけとした全国的な争乱の広がりと共に、臨時的ではなく長い間の使用に耐(た)えられる恒久的(こうきゅうてき)な詰城が整備(せいび)されました。また、自然地形を生かすだけでなく、山を削(けず)り、土を盛(も)って軍事的な防御施設を備える城が登場してきます。
虚空蔵山城(こくうぞうさんじょう)(長野県松本市)を臨(のぞ)む
完成した山城の姿
尾根の上を削って曲輪(くるわ)(平らな広い場所)を設け、斜面を加工して登りにくい切岸(きりぎし)に加工し、尾根筋は堀切(ほりきり)(尾根続きを遮(さえぎ)るために設けられた堀)や竪堀(たてぼり)(斜面(しゃめん)の移動(いどう)を防(ふせ)ぐために設けられた堀)・横堀(よこぼり)(曲輪の防備(ぼうび)を固めるために曲輪を廻(まわ)るように設けられた堀)で遮って止め、土塁(どるい)(土を盛って造った土手)を設けました。
また、敵(てき)が簡単(かんたん)に侵入(しんにゅう)出来ないように、虎口(こぐち)(出入口)を工夫し、馬出(うまだし)(虎口の外側に、門の守りをより固めるためと攻撃(こうげき)の拠点とするために置かれた曲輪)や横矢(よこや)(側面から攻撃するために、城を囲むラインを曲げたり凹凸(おうとつ)を設けたりすること)が発達しました。こうして、戦国山城が完成したのです。
吉田郡山城(広島県安芸高田市)の二の丸と本丸を見る
山城の全体構造、いわゆる縄張(なわばり)は、城が造られた地形がそれぞれ違(ちが)うため、同じ形をした城は存在(そんざい)しません。山のなだらかな部分は、切り盛りして曲輪に、山と山に挟(はさ)まれた低い部分は堀切に利用して、尾根が続く場所は遮断(しゃだん)するという大まかな共通点は見られます。山城は、工事量をより少なくして、最大の防御効果(ぼうぎょこうか)が得られるように工夫を凝(こ)らしたのです。
明瞭(めいりょう)に山城と平山城の区別が出来ないため、標高が400mを越(こ)える白旗城(しらはたじょう)(兵庫県上郡町)もあれば、比高(ひこう)50m程度しかない独立丘陵上(どくりつきゅうりょうじょう)に広がる箕輪城(みのわじょう)(群馬県高崎市(ぐんまけんたかさきし))も山城と呼ばれています。また、諏訪原城(すわはらじょう)(静岡県島田市(しずおかけんしまだし))のように、東の大井川(おおいがわ)から見れば比高200mの山城となり、西の牧の原台地上からは、ほとんど標高差が無く平城としか見えない城すら存在しているのです。
戦国山城の模式図(もしきず)(イラスト:香川元太郎(かがわげんたろう))
今日ならったお城(しろ)の用語
詰城(つめじろ)
戦闘(せんとう)が起こった時の対応(たいおう)のために、館(居館(きょかん))の背後(はいご)や近くの山上などに築(きず)かれた臨時的(りんじてき)な城のことです。戦闘が起こった時は、最後の防衛拠点(ぼうえいきょてん)になる城です。
虎口(こぐち)
城(しろ)の出入口の総称(そうしょう)です。攻城戦(こうぼうせん)の最前線となるため、簡単(かんたん)に進入できないよう様々な工夫が凝(こ)らされていました。一度に多くの人数が侵入(しんにゅう)できないように、小さい出入口としたので小口(こぐち)と呼(よ)ばれたのが、変化して虎口になったと言われます。
馬出(うまだし)
虎口(こぐち)の外側に守りを固めるためと、兵が出撃(しゅつげき)するときの拠点(きょてん)とするために築(きず)かれた曲輪のことです。外側のラインが半円形の曲線になる丸馬出(まるうまだし)と、四角形になる角馬出(かくうまだし)に大きく分けられています。角馬出の場合、石垣(いしがき)が築かれたものもあります。
横矢(よこや)
側面から攻撃(こうげき)するために、城(しろ)を囲むラインを折れ曲げたり、凹凸(おうとつ)を設(もう)けたりした場所を呼(よ)びます。横矢掛(よこやがかり)とも言います。
堀切(ほりきり)
山城(やまじろ)で尾根筋(おねすじ)や小高い丘(おか)が続いている場合、それを遮(さえぎ)って止めるために設(もう)けられた空堀(からぼり)のことです。等高線に直角になるように掘(ほ)られました。山城の場合、曲輪同士の区切りや、城の境(さかい)をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。
竪堀(たてぼり)
斜面(しゃめん)の移動(いどう)を防(ふせ)ぐために設(もう)けられた堀のことです。等高線に対して直角に掘(ほ)られます。連続して配置された場合「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」と呼(よ)びます。
横堀(よこぼり)
曲輪の防備(ぼうび)を固めるために曲輪を廻(まわ)るように設(もう)けられた堀のことです。等高線と平行になるように掘(ほ)られます。広大な規模(きぼ)を持つ場合が、多く見られます。
土塁(どるい)
土を盛(も)って造(つく)った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀(ほり)を掘(ほ)った残土を盛って造られました。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。