2018/09/14
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第6回 縄張りとは何でしょう
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回からは、実際にお城に行った際に何を見たら良いのか、お城を見るための基礎的知識を学んでいきます。まずはお城がどうのようにして造られていくのかを見ていきましょう。
■理文先生のお城がっこう
前回「第5回 山城へ行ってみよう〈初級編〉-山中城を歩こう2-」はこちら
第5回まで、城(しろ)に行く時の服装(ふくそう)や持ち物、注意事項(ちゅういじこう)について学んできました。そして、実際(じっさい)に山中城(やまなかじょう)を歩いてみました。もう、お城の歩き方や注意事項はかなり解(わか)ってきましたか?
今回からは、実際にお城に行った時に「見るべき遺構(いこう)(城の建築物(けんちくぶつ)や土木構造物(どぼくこうぞうぶつ)などが現在(げんざい)に残された状態(じょうたい))」について、勉強しましょう。城に行って、何を見たら良いのか、どこを他の城と比較(ひかく)したら良いのかなど、城を見るための基礎的知識(きそてきちしき)を学んで行きたいと思います。
城地の決定
さあ、今から城を造(つく)らなくてはいけなくなりました。今まで、城が造られていない場所にゼロから城を造るということです。自分が治めることになった領地(りょうち)に城をつくります。その場合、一番大切なのは「どこに城を築(きず)くか」という、城を造るのにふさわしい土地を選ぶことです。これを「地選(ちせん)」といいます。
地選は、時代によって大きく違(ちが)っていました。土塁(どるい)や石垣(いしがき)という人工的な防御(ぼうぎょ)ラインを築くことが出来なかった南北朝時代や室町時代は、守り易(やす)くて攻(せ)めにくい山上が選ばれました。自然に出来た崖(がけ)や谷、あるいは急な斜面(しゃめん)を利用して、そこに城を築こうとしたのです。
なぜ山上が選ばれることが多かったか解りますか?それは、最低限(さいていげん)の土木工事で城を造ることが出来たからです。もともとあった谷や崖を城の防御施設(ぼうぎょしせつ)に利用できたからに他なりません。切岸(きりぎし)や空堀(からぼり)が無くとも自然地形が敵(てき)の攻撃(こうげき)を阻(はば)んでくれるというわけです。
城を造る技術(ぎじゅつ)が発達してくると、斜面を加工したり、峰(みね)が続く尾根筋(おねすじ)を遮断(しゃだん)したりするなどして、人工的な防御施設を設(もう)けることが可能になりました。ずっと戦争状態が続いた戦国時代になると、急激(きゅうげき)に築城技術(ちくじょうぎじゅつ)が進展(しんてん)し、様々な形の城が造られるようになります。それでも、城のベースとなる場所選びは、極めて重要なポイントだったのです。いくら人工的に防御施設がつくれるようになったとしても、土木工事は少なければ少ないほど、築城時の負担(ふたん)が軽減(けいげん)できるからです。
佐和山城から彦根城へ
当初、井伊直政(いいなおまさ)が入った佐和山城(さわやまじょう)は、東山道(とうさんどう)(京都から近江(おうみ)を通り、本州内陸部を抜(ぬ)けて陸奥(むつ)へと続く幹線道路(かんせんどうろ))を押(お)さえる重要な場所に位置し、琵琶湖(びわこ)の内湖から松原へ抜ける水路も確保(かくほ)できる利便性(りべんせい)に恵(めぐ)まれた所だったのです。ところが、城は急峻(きゅうしゅん)な山城で、鉄砲(てっぽう)や大砲(たいほう)を多く用いる戦術(せんじゅつ)に対して、防御が十分ではなかったのです。
そこで、徳川家康(とくがわいえやす)が琵琶湖に突き出した磯山(いそやま)の地に新しい城をつくるように命じたのです。直政の死後、家老の木俣土佐(きまたとさ)が、佐和山・磯山・彦根山の3つの候補地(こうほち)の絵図を作成し、どこに築くかを家康に相談したのです。当初の有力候補地であった磯山は、湖に面しているため水運の利便性は1番でしたが、湖に突出(とっしゅつ)しているため、仮(かり)に西国から敵が攻めて来た時、遮断線(しゃだんせん)を設けることが困難(こんなん)な状況(じょうきょう)だったのです。
また、城下町を築くためには大規模(だいきぼ)な埋(う)め立て工事が必要となります。彦根山は、松原に隣接(りんせつ)し、背後(はいご)にも内湖がひかえ、水運利用も可能(かのう)でした。さらに、善利川(芹川(せりがわ))を付け替(か)え堀とすれば、強力な遮断線として利用が可能でした。城下町も、埋め立てすることなく確保(かくほ)できる土地も広がっていたのです。3つの絵図を見た家康は、彦根山築城を決定したのです。
彦根山周辺地形概略図(ひこねさんしゅうへんちけいがいりゃくず)
このように、城を移(うつ)すとか、新たに造るには、いくつかの候補地を選定し、それぞれの場所の利点や不便な点、防御面などを検討(けんとう)し、最もふさわしい地を選んで城が築かれたのです。「地選」の善(よ)し悪しが、効果的(こうかてき)ですばらしい城を築くための、第一歩だったのです。
地取と縄張
地選で決定した場所のどの範囲(はんい)に、どのくらいの大きさの城を建てるかを決めることを「地取(じどり)」といいます。地選と地取で、おおまかな城を築く場所が決定したら、次はどのような城を築くかという設計(せっけい)に移ります。
「縄張(なわばり)」とは、城の設計、いわゆるどんな形の城を造るのかという設計計画のことです。まずは、中心曲輪(主郭(しゅかく)・本丸)をどこに置いて、それに付随(ふずい)する曲輪(くるわ)(城内に設けられた区画)を、いくつ設け、どのように配置するかを考えます。例えば、二の丸をどこに、三の丸をどこに置くかということです。曲輪の配置や、その形状(広さや形)が決定したら、堀や石垣、土塁の位置を決めていきます。当然、堀は水堀にするか空堀にするか、また幅(はば)や深さも決められました。石垣・土塁も高さ、幅など、こと細かに設計されていくことになります。こうして、城の大まかな形が整うことになります。
最後の仕上げが、建築工事になります。天守や櫓(やぐら)、御殿(ごてん)、城門、土塀(どべい)・柵(さく)などという構築物を完成させていくわけです。
駿府城縄張図(すんぷじょうなわばりず)
「縄張」と呼ばれるのは、杭(くい)を立て、縄を張(は)って曲輪の形や大きさの予定ラインを決める作業が現地(げんち)での最初の作業だったからです。現地工事の前に、今で言うなら方眼紙(ほうがんし)を利用した詳しい設計図が作成され、それを元に縮小(しゅくしょう)された土や木の模型(もけい)(木図)を作成するなどして、城の姿(すがた)かたちや曲輪配置などの検討(けんとう)が重ねられたのです。こうした多くの作業を経(へ)て、実際に城造りが開始されることになります。
今日ならったお城(しろ)の用語
地選(ちせん)
崖(がけ)や谷、高い山などの自然地形などを良く考えて、より守りやすく攻(せ)めにくいような城(しろ)を築(きず)くための土地(場所)を選ぶことです。
切岸(きりぎし)
曲輪の斜面(しゃめん)のもともとの自然の傾斜(けいしゃ)を、人工的に加工して登れないようにした斜面のことです。
地取(ちどり)
地選で選んだ場所のどの範囲(はんい)に、どのくらいの大きさの城(しろ)を築(きず)くかを、具体的に決めることを言います。
縄張(なわばり)
城(しろ)を築(きず)く時の設計(せっけい)プランのことです。曲輪や堀(ほり)、門や虎口(こぐち)などの配置をいいます。
曲輪(くるわ)
城(しろ)の中で、機能(きのう)や役割(やくわり)に応(おう)じて区画された場所のことです。曲輪と呼(よ)ぶのは、おもに中世段階(ちゅうせいかいだん)の城で、近世城郭(きんせいじょうかく)では「郭」や「丸」が使用されます。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。