逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第17回【真田昌幸】“表裏比興の者”と呼ばれ、家康が最も恐れた男

「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」、第17回は、真田幸村(信繁)の父、真田昌幸に迫ります。子どもの頃から武田信玄に仕え、武田氏滅亡後はめまぐるしく主を変え、知謀を尽くし信濃国小県郡と上野国沼田領の小大名になった昌幸。その波瀾万丈の人生をご紹介します。

真田昌幸像
真田昌幸像(真田宝物館蔵)。武田二十四将のひとりに数えられることもあり、信玄から“我が眼”と呼ばれた

真田昌幸

武田家の人質になり、才覚を認められ信玄の近習に

真田昌幸は“日本一の兵”と讃えられた真田信繁(幸村)の父ですが、息子の爽やかなイメージとは一転、“表裏比興(ひょうりひきょう)の者”(老獪なくわせ者)と恐れられた軍略家。大河ドラマ『真田丸』では草刈正雄氏が演じ、好評を博したのも記憶に新しいところです。

昌幸は天文16年(1547)、信州上田近くの真田郷で、甲斐の武田家に仕える国衆・真田幸隆の三男として生まれました。真田家は清和天皇を祖とする名族・海野一族の一流でしたが、天文10年(1541)に武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍に攻撃され没落。真田幸隆も一時上州に逃れましたが、武田家に出仕し、数々の武功を挙げて武田の将としての地位を確立。そんな時期に昌幸は生まれました。

他国出身だったため、昌幸は7歳で人質として武田家に送られました。しかしその才覚から異例の奥近習衆に抜擢され、信玄に愛されます。元服前から名将・信玄から受けた影響は、計り知れないものがあったことでしょう。

永禄4年(1561)、昌幸は15歳で第4次川中島の戦いで初陣を飾ります。川中島の戦いといえば、武田信玄の永遠のライバル、越後の上杉謙信との因縁の対決。中でも第4次合戦は、山本勘助によるキツツキ戦法が行われたことでも有名ですが、双方に多くの死傷者を出し、壮絶な戦いとなりました。

川中島の戦い、広瀬の渡し
川中島の戦いの舞台となった広瀬の渡し。近くに山本勘助の墓がある

武田家では、特に評価の高い臣下が後世「武田二十四将」と称賛されました。特に真田家は、父の幸隆、兄の信綱・昌輝とともに、昌幸も武田二十四将に数えられることがあります。これほどまでに評価されたのは真田家だけ。特に昌幸は“我が眼”と呼ばれる程、信玄から重用されました。

昌幸は永禄9年(1566)に長男の信幸、永禄10年(1567)に次男の信繁(幸村)をもうけます。そして信玄の母方の大井氏の一族、武藤家の養子に迎えられ、武藤喜兵衛尉昌幸(むとうきへえのじょうまさゆき)と名乗りました。


武田家滅亡と、小大名への躍進

元亀3年(1572)、武田信玄は徳川家康の三河・遠江方面への侵攻を始めます。昌幸は旗本組として信玄本陣を守り、三方ヶ原の戦いでは徳川家康に、生涯忘れられない武田軍の強さと恐怖を見せつけます。しかし元亀4年(1573)に、武田信玄が突然病死。昌幸は跡を継いだ勝頼の側近になり、信玄の死を3年間隠し通します。

天正3年(1575)に長篠の戦いが起き、武田軍は織田・徳川連合軍に大敗。この時、真田家も当主の信綱とその弟の昌輝を失います。お家存続の危機を迎えた真田家は、昌幸が真田家に戻って跡を継ぐことに。そして天正8年(1580)に沼田城(群馬県沼田市)を攻略すると、勝頼から吾妻・利根両郡を任され、安房守(あわのかみ)の名を許されます。

沼田城
戦国時代後期から江戸時代初期にかけて真田氏の沼田領支配の拠点となった沼田城

武田勝頼は、信濃・西上野・駿河へと拡大した領国の支配を強化するため、新たな本拠地として新府城(山梨県韮崎市)の築城を開始します。その際、昌幸に普請奉行を命じたともいわれています。勝頼は天正9 年(1581)の年末頃に躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(山梨県甲府市)から新府城に移りました。

しかし天正10年(1582)3月、武田家は織田・徳川連合軍に攻められ滅亡。この時昌幸は、勝頼に自分が守る岩櫃(いわびつ)城(群馬県吾妻郡)に落ち延びるよう進言しました。しかし勝頼は小山田信茂がいる岩殿城(山梨県大月市)に向かい、離反されて天目山で自害して果てたのです。

最後まで守り抜こうとした主君を失った昌幸は、織田信長に臣従し本領を安堵されます。しかし同年6月2日、その信長も本能寺の変で明智光秀に討たれます。

無主となった旧武田領は、徳川家康・上杉景勝・北条氏直の激しい争奪戦の舞台となりました。「天正壬午の乱」と呼ばれるこの大嵐の中、昌幸は上杉、北条、徳川と転身を繰り返しながら、真田家生き残りのため、知略の限りを尽くします。そして最終的に家康に臣従し、沼田城・岩櫃城・砥石(といし)城(長野県上田市)、真田郷を所領とし、一躍小大名へと躍進したのでした。

家康との因縁の対決

紆余曲折を経て徳川家康に臣従した真田昌幸は、家康に「上杉勢に備えるため、海士淵(上田城の直下を流れる千曲川の河畔)に大兵を集められる城を築くことこそが肝要」と進言します。これを受け入れた家康は天正11年(1583)頃、昌幸に上田城築城を命じ、多大な支援を行います。

上田城、真田石
上田城にある直径3mの真田石。昌幸の長男・信之が松代に移封する際、父の形見として持ち去ろうとしたが微動だにしなかったという(仙石久秀の時代に整備された石垣という説もある)

ところが家康が北条氏直と同盟を結び、沼田城と岩櫃城を北条方に引き渡すよう命じると、昌幸はこれを拒否。家康はいまいましい思いで真田討伐を決意し、天正13年(1585)、自らの支援によって築城した上田城を攻撃することになります。この戦いを第1次上田合戦と呼びます。

昌幸は上田城に籠もり、徳川軍の攻撃に備えます。この時の兵力は、真田軍約2,000人に対し、徳川軍はその4倍の約8,000人だったといわれています(諸説あり)。しかし上田城を攻めた徳川軍は、側面から真田軍の攻撃を受け、混乱しながら退却するところを、支城の砥石城から出撃した真田信幸率いる伏兵にさらに攻められます。そしてとどめに神川の堰が破られ、多くの兵が溺死。真田軍の犠牲者が40人程だったのに対し、徳川軍は約1,300人もの犠牲者を出し、第1次上田合戦は真田方の大勝利となります。

上田城
上田城は7つの櫓や堀、土蔵に囲まれ、虎口(出入り口)に石垣を使った堅牢な城だった

昌幸はさらなる徳川軍の攻撃をかわすため、豊臣秀吉に従属します。そして秀吉の評定により、沼田領問題は一応の解決をみます。しかし北条方は秀吉の評定を無視し、真田方の名胡桃(なぐるみ)城(群馬県利根郡みなかみ町)を奪取(昌幸が奪わせたという説もあり)。激怒した秀吉は、天正18年(1590)に北条攻めを決行し、21万ともいわれる大軍で小田原城(神奈川県小田原市)を包囲。北条氏は滅亡し、秀吉は天下統一を果たしました。

しかしその秀吉も慶長3年(1598)に死去。その後、秀吉の側近だった石田三成と徳川家康が対立し、慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いとなります。この時、真田昌幸は、徳川家康の重臣・本多忠勝の娘の小松姫を娶(めと)っていた長男の信幸を徳川方に付け、三成の盟友・大谷吉継の娘を娶っていた次男の信繁(幸村)と自身は石田方に付きました。親兄弟が敵味方になるのは、戦国の世の悲劇ともいえます。しかし昌信は、どちらが勝っても負けても真田家が存続する方法を選んだのです。

徳川軍の主力部隊を率いた家康の後継、後の2代将軍・徳川秀忠は、東山道を西に向かって進軍する途中、昌幸と信繁(幸村)が籠もる上田城を攻めました。これを第2次上田合戦と呼びます。この時の兵力は徳川軍3万8,000に対し、真田軍わずか2,500というものでした(諸説あり)。

徳川軍は第1次上田合戦の時の教訓を生かし、まず支城の砥石城を奪います。この時、砥石城を守ったのは真田信繁(幸村)、攻めたのは徳川方に付いた兄の信之(信幸から改名)でした。しかしこれも徳川方にいて肩身が狭い信之のため、昌幸は最初から砥石城を徳川方に明け渡すつもりだったという説もあります。

さらに昌幸得意の戦術は「要地を明け渡し、油断した敵を誘い込む」というもの。砥石城を奪った徳川軍は、上田城本丸近くまで簡単にたどり着きますが、油断したところを昌幸が至近距離から鉄砲や弓矢で射撃。そして信繁率いる遊撃部隊が徳川軍の側背を突き、またしても大混乱に陥ります。その後も徳川軍は信繁の夜討ちに悩まされ、ついに敗走したところを、またもや神川の堰が破られ溺死者多数。前回と同じような負け方をしてしまいます。

しかも秀忠率いる徳川軍は、この戦いによって何日も進軍を阻まれたため、9月15日に決着した関ヶ原本戦に2日も遅れるという大失態を犯し、徳川家の面目は大いに潰されます。一方、第1次、第2次と、2度に渡って徳川の大軍を撃退した昌幸の名は全国に轟きました。

しかし関ヶ原本戦では、数々の裏切りにあった石田方が敗北し、徳川方が勝利。何度も家康に刃向かい、激怒させた昌幸と信繁(幸村)は、真田信之と岳父の本多忠勝の嘆願もあって死罪は逃れましたが、高野山(後に九度山に移転)への蟄居(ちっきょ)を命じられました。ですが真田家の領地は信之が継ぎ、昌幸が願った真田家の存続は叶ったのです。

善名称院、真田庵
真田昌幸・信繁父子が14年隠棲した九度山に建つ善名称院。真田庵と呼ばれている

昌幸は配流先の九度山で慶長16年(1611)、65歳でその生涯を終えました。しかし昌幸の知略は、真田信之と真田信繁(幸村)、2人の息子達に受け継がれていったのです。

真田昌幸ゆかりの城と攻めた城

真田昌幸ゆかりの城と攻めた城

【居城】上田城(長野県上田市)
天正11年(1583)に真田昌幸によって築城され、天正13年(1585)の第1次上田合戦、慶長5年(1600)の第2次上田合戦と、2度に渡って徳川軍の猛攻を退けた。関ヶ原合戦の後は、昌幸の長男の真田信之が上田城主になるが、元和8年(1622)に松代に移り、以降、仙石氏、松平氏が城主になった。

上田城、東虎口魯門
上田城の東虎口魯門。2度に渡って徳川の大軍を跳ね返した要害堅固な城だが、実は徳川家康の支援によって築かれた城だった

【支城】沼田城(群馬県沼田市)
天文元年(1532)に上野沼田氏が築いた。戦国時代初期は、上杉・北条・武田が争奪戦を繰り広げ、天正8年(1580)に武田勝頼配下の真田昌幸が入城し、規模を広げた。天正18年(1590)に真田信幸が沼田領2万7000石の領主になり五層の天主を建造。しかし天和元年(1681)に徳川幕府に領地を没収され、城も破却。その後、本多氏、黒田氏、土岐氏の居館となった。

沼田城
本丸西魯台の石垣と石段。全長約27.5m。出土瓦などから真田氏時代の遺構と考えられている

【支城】岩櫃城(群馬県吾妻郡)
城郭の規模は1.4㎢と上州最大。甲斐の岩殿城、駿河の久能城(静岡県静岡市)と共に、武田領内の三名城と呼ばれた。武田信玄が真田幸隆に攻略を命じ、攻略後、幸隆は吾妻郡の守護になり、その後も真田信綱・昌幸・信幸が支配。信幸が沼田城城主となると岩櫃城はその支城になった。

岩櫃城
吾妻八景を代表する岩櫃山。標高802mの険しい岩肌に守られた天然の要害。真田信繁(幸村)も幼少期を過ごしたといわれている

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部(重久直子)
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