2022/04/25
秀吉VS.家康 小牧・長久手の戦いを知る 第4回 羽柴軍の城・砦①(楽田城と周辺の砦を中心に)
天正12年(1584)、尾張国(現在の愛知県西部)を中心に羽柴秀吉と徳川家康の間で勃発した戦い「小牧・長久手の戦い」を、岩崎城学芸員で歴史講座を数多く担当されている内貴健太さんに解説していただくシリーズ。第4~5回は羽柴軍の城・砦をご紹介! 第4回の今回は秀吉の陣城となった楽田城とその周辺の砦を中心に取り上げます。記事中、秀吉側は青色、家康側は赤色で表示します。
【シリーズ一覧】
▶第1回「第1回 戦いの概要」(https://shirobito.jp/article/1417)で、戦いの大まかな流れが分かります!
▶第2回「第2回 織田・徳川連合軍の城・砦①(小牧山城と周辺の砦を中心に)」(https://shirobito.jp/article/1457)で、家康側の本陣あたりをご紹介しています。
▶第3回「第3回 織田・徳川連合軍の城・砦②(長島城と伊勢の城を中心に)」(https://shirobito.jp/article/1504)で、長島城と織田信雄の領国・伊勢における戦いの舞台となった城をご紹介しています。
【全体の流れを年表でおさらい ※赤で囲ったところが今回の記事に関連する箇所】
年表作成:内貴健太
天正12年(1584)3月13日、池田恒興が犬山城(愛知県犬山市)を攻略した後、森長可(ながよし)は犬山城から南下した羽黒の地まで進出します。3月17日、この場所において森軍と徳川軍の酒井忠次らとの間で羽黒八幡林の戦いが起こりました。森長可が徳川軍に敗れたことを受け、秀吉は大軍を率いて大坂を発ちます。3月27日には尾張国内に入り、犬山城に着陣後、29日には楽田城へと本陣を移しました。
秀吉発大坂赴犬山、其兵十二万五千余也、既到犬山卒諸士到楽田羽黒辺対小牧山多搆子城『豊臣秀吉譜』
犬山城(愛知県犬山市北古券)
羽柴軍が尾張を侵攻するにあたり橋頭保(きょうとうほ。攻撃の足掛かりとして占拠した敵地の一角)となった城です。小牧・長久手の戦いの際、織田信雄(のぶかつ)の家臣・中川定成(犬山城主)は伊勢に出陣中で不在でした。留守居として定成の叔父・清蔵主(せいぞうす。龍泉院の住職)が城を任されていました。
伊木山城から犬山城と木曽川を望む。3月13日の夜、池田恒興・元助らが木曽川を渡り、犬山城背後の急峻な崖側から城に侵入、急襲した。手薄であった犬山城はわずか一日で落城してしまう
『武徳編年集成』によると、池田恒興らは木曽川を挟んで犬山城の対岸にある宇留馬(うるま。鵜沼)の川辺に待機し、戌の刻(19~21時頃)に10艘の船で川を渡り、城の水ノ手口から侵入したと記載されています。
十三日ノ夜、勝入父子宇留馬河辺二至リ、暫ク猶予ス、兼テ獵船廿艘用意シ、大豆戸ノ渡迄遣ハシ置ケレハ、戌刻ニ及テ、池田紀伊守之元助等是ニ乗テ河ヲ渡シ、朦朧タル夜ヲ幸トシテ、犬山城ノ坂下水ノ手口ヨリ忍入、鬨ヲ発シケレハ、城中大ニ周章ス『武徳編年集成』
犬山城の水ノ手櫓から天守方向を望む。このあたりから急峻な崖を登り本丸に通じる七曲道があった。かつて犬山城主であった池田恒興は少数でも城を落とす方法や本丸に最短で至るルートなどを把握していたと思われる。また、恒興と縁のあった者が内通者となり、門を開けるなどして動いた可能性もある(※特別な許可を得て撮影)
かなり誇張ぎみではありますが、清蔵主が池田軍を相手に奮戦する姿も描かれています。
勘右衛門尉か叔父清蔵主、竪横十文字に切て廻り、八字に追廻ししか共、多勢人替々々攻入、終に清蔵主をも打捕てけり『太閤記』
現在、犬山城の城前広場には、清蔵主が戦死したと伝わる場所に記念碑が建つ
池田恒興の犬山城攻略は、秀吉にとって尾張侵攻の足掛かりとなる手柄であったこともあり、秀吉が恒興の母(養徳院)に対して、恒興に尾張国を与えることを約束した書状が残っています。
せう左いぬ山の御てから、中■御礼申はかりなく候、おわりのき一ゑんせう三ゑ進之可申候(おゝちさま宛天正12年3月23日付羽柴秀吉書状)
(注:■=くの字点)
楽田城(愛知県犬山市城山)
羽柴軍の本陣が置かれた城です。小牧・長久手の戦いの際、古城が改修され、当初は堀秀政が陣を敷いたといわれます。
秀吉ヤカテ楽田二営ヲカマヘ要害ヲナシテ、諸手ノ陣トラシメ、秀吉モ犬山ヨリ楽田二出張也『武家事紀』
犬山市立楽田小学校一帯が城跡になります。『楽田村古城之図』や『楽田村史』にある図によると、四方は堀や土塁で囲まれていたことが分かります。城の遺構であった土壇や堀は昭和の小学校運動場拡張の際に削平(さくへい/そぎとること)されてしまいました。
楽田城址碑が建つ小高い場所は土塁の一部の可能性もある
小学校北側には堀の名残と思われるような道路がある
同じく小学校北側に位置する須賀神社の境内には「楽田城小城址」の石碑がある。楽田城の一部か出城のようなものと推定される
また、付近には北之門・裏之門という地名が残っています。おそらく2つの門の跡からできた地名だと思われます。実際に門の跡まで歩いてみると、楽田城がいかに大規模な城であったかがよく分かります。
楽田城北之門旧跡。現在は住宅地にある空き地の中に石碑が建っている。柵の中には古い石碑も
楽田城裏門旧跡。民間の駐車場の片隅、電柱のふもとにひっそりとある
楽田城と周辺に築かれた砦に秀吉の大軍勢が篝火を焚いて陣を構えている様子を「夜空にきらめく星のようだ」と表現した史料もあります。
惣軍十弐万余、山野二充満し、夜二入バ篝火の影夥しく、晴夜の星の如し『四戦紀聞尾州長久手戦記』
小瀬甫庵(おぜほあん)の『遺老物語』によると、楽田城は初期天守を有していたとされます。しかしながら、その根拠となる一次資料もなく、刊行年や櫓の描写から判断しても、これは想像だと思われますが、詳細は不明のままです。ですが、甫庵は恒興に仕えていたとされ、その恒興は岡崎進軍の際、楽田から出陣しています。もしかしたら、甫庵は楽田城の詳細について何か見聞していた可能性があるのでは、とも思ってしまいます。
羽黒城(愛知県犬山市羽黒摺墨)
源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人・梶原景時の孫(景親)から始まり、以後代々梶原家の居城でした。
羽黒城の南には、八幡林古戦場跡(犬山市立羽黒小学校の南にある羽黒八幡宮一帯)があります。また、古戦場の東側に森長可が敗走するときに敵を食い止めて討死した野呂助左衛門父子を供養する野呂塚もあります。
秀吉は山内一豊や堀尾吉晴らに城の構築を命じ、守備させました。
秀吉築羽黒旧塁使山内猪右衛門伊藤掃部助堀尾吉晴守之『豊臣秀吉譜』
秀吉が山内一豊らに宛てた書状でには、羽黒城での普請と番について、油断なく行うよう指示も出されています。
其許普請番等不可有油断候(伊藤掃部介・山内伊右衛門宛天正12年5月15日付羽柴秀吉書状写)
羽黒城石碑。羽黒城は古墳(前方後円墳)の墳丘を利用して築かれていた。現在、城跡は竹藪となっている
城主の居館(梶原屋敷)があったとされる場所付近に興善寺(梶原家菩提寺)が再興されました。
羽黒二旧塁アリ、森カ先手ハ八幡林二備ユ、羽黒ノ前方二梶原某ト云フ者居ル由、今二於テ其跡ヲ梶原屋舗ト云フ『小牧陣始末記』
羽黒城の土塁。現在、寺の境内には土塁やかつて屋敷内で祀られていたと伝わる五輪塔が残っている
小口城(愛知県丹羽郡大口町城屋敷)
永禄年間(1558~1569)に織田信長が小口城を攻めた時、犬山城家老の中島豊後守が城主であったとされます。小牧・長久手の戦いの際、羽柴軍によって改修され、四方には二重の堀や土塁がめぐらされていました。
現在、城跡は小口城址公園として整備され、展示棟や物見櫓、門や塀、橋などが再現されている
秀吉は長久手の戦いで大敗したのを受け、各地に主要な武将を配置、その中で稲葉一鉄(いってつ。良通)に小口周辺の采配(百姓に対する裁許など)を預けました。
従尾口西南儀者、成次第稲葉与州百姓被召出、可被仰付事(天正12年5月2日付羽柴秀吉條目)
6月28日、小牧衆と小口衆の間で小競り合いが起きました。小牧衆は小口衆を4、5人討ち取り、馬も15、6頭奪いましたが、逆に10人ほどが小口衆に討ち取られたとされます。
廿八日、癸酉、かくてん筋へ小牧衆物見二出候へハ、小口衆出候て、味方十人計うたれ候、敵も四五人討捕、敵馬十五六とり候『家忠日記 天正12年6月28日の条』
小口神社本殿背後にある土盛りは土塁の一部と思われる
秀吉は織田・徳川連合軍の陣城である小牧山城を包囲するように、二重堀砦・田中砦・小松寺山砦・岩崎山砦・外久保砦・青塚砦といった複数の砦を築き、諸軍を配置しました。
秀吉の書状にも岩崎山・久保山・青塚・田中・二重堀に陣取りをして要害として拵(こしら)え、前方に「芝手」(芝の付いた土手)を築き、柵を付けるように申し付けたとあります。
岩崎山・窪・青塚・田中郷・二重堀まて押詰陣捕候て、悉要害ニ拵、陣捕候前ニ芝手を築、柵を付、少も無越度様ニ申付候事(惟越州宛天正12年4月8日付羽柴秀吉書状)
岩崎山砦(愛知県小牧市岩崎)
石材の産地として有名な岩崎山に設けられた砦で、稲葉一鉄・貞道ら約4千の兵が守備しました。
対信雄陣処小牧山、多築夾城令諸将守之、一鉄・貞通・典通・右近方通・勘右衛門重通、其兵四千共守岩崎山城『稲葉家譜』
現在、砦跡は熊野神社になっている。山頂付近からは小牧山周辺を一望することができる
岩崎山砦の矢穴。石材を切り出す際に刻まれた刻紋石や矢穴のある石が至るところで確認できる。小牧山城や名古屋城の石垣には、岩崎山から切り出した石も使用されている
『小牧陣始末記』によれば、秀吉が岩崎(茶屋前)から二重堀の方へ馬防のための長大な土塁を築かせたと、そのような記述もありますが、現在その痕跡は何も残っていません。
同四日ノ夜二至リテ、夜モスガラ秀吉被申付テ、岩崎ヨリ二重堀ヘ向ケ、土居ヲ築カセラル、(略)岩崎ノ内今茶屋前ト云フ所有リ、岩崎西南ノ方五六町隔ツ、是ヨリ二重堀ノ方へ築ク、(略)横筋トハイへトモ南西ノ方へ築ク也、土居ノ直高二間半、根敷十五間、真踏八尺、所々馬出ノ体相見ユ、スレバ小牧山ヨリノ馬防キノ土居ト聞ユ、此土居一夜ノ間二出来ス『小牧陣始末記』
田中砦(愛知県小牧市東田中)
古墳を利用して築かれた砦です。かつては三基の古墳(三ツ山古墳群)が存在しましたが、三ツ山三号墳のみ現存しています。蒲生氏郷や加藤光泰ら約1万3千の兵が守備したとされます。
長久手の戦いの後、秀吉は龍泉寺城(愛知県名古屋市)から田中砦に移りました。『武徳編年集成』には、その際、小幡城(愛知県名古屋市)から小牧山城(愛知県小牧市)に早々に戻った家康の行動に対し、秀吉が称賛する様子も記されています。
徳川家并二信雄、小牧山二軍ヲ凱シ玉フノ告有リ、秀吉手ヲ拍テ、家康兵ヲ用ル事神ノ如シ、予ガ及ブ所二非ズト嘆美シ、竜泉寺ヲ去テ田中ノ郷二移サル『武徳編年集成』
三ツ山三号墳全景。現在、三ツ山会館前に石碑が建てられている
内久保砦(愛知県犬山市内久保)・外久保砦(愛知県小牧市久保一色)
内久保山の麓にある三明神社周辺が内久保砦跡とされますが、現地に遺構や石碑はなく、正確な位置は不明です。諸史料には、蜂屋頼隆・金森長近ら約3千の兵が守備したとされます。
内窪山城則蜂屋出羽守頼隆金森五郎八其兵三千『豊臣秀吉譜』
現在、名古屋経済大学がある場所が内久保山
外久保砦は久保山砦ともいわれます。久保山西端の丘の上に築かれた砦で、熊野神社社地一帯が砦跡になります。社殿付近に砦の案内板、北西へ伸びる道の先に石碑があります。守将や兵力などは不明です。
久保山ノ砦小牧ヨリ三十ニ町丑寅二当ル、是ハ誰ガ守リシカ不知、定メテ替リ合ヒノ番勢ナラン『小牧陣始末記』
外久保砦。長久手の戦い後、秀吉自らが楽田城からこの砦に出て全軍を指揮したと伝えられており、「太閤山」とも呼ばれている
小松寺山砦(愛知県小牧市小松寺)
小松寺一帯には東西2つの砦があり、西砦は小松寺(墓地)、東砦は小松寺団地のあたりにあったとされます。丹羽長重(長秀の説もある)らが約8千の兵で陣を敷きました。砦跡を示す石碑と案内板は、本堂の東にある八所社・熊野社合殿付近に建てられています。
西砦跡といわれる小松寺は奈良時代の創建。東砦跡は昭和の開発で整地され、現在は団地となっており、砦の痕跡は何も残っていない
小松寺八千 丹羽五郎左衛門長秀 ○本書、長秀ト為スハ、長重ノ誤ナリ『長久手戦話』
秀吉の書状からも丹羽長重が小松寺山砦に在陣しており、入念に普請を行っている様子が分かります。
五郎左衛門殿陣取、可然山を要害ニ申付居陣候、普請以下万端被入精(惟越州宛天正12年4月8日付羽柴秀吉書状)
小松寺墓地に面する道路からは隣に位置する外久保砦もよく見える
二重堀砦(愛知県小牧市二重堀)
羽柴軍が築いた砦の中では、小牧山に最も近い砦です。日根野弘就(ひねのひろなり)ら約2千の兵が守備しました。
二重堀砦則日根野備中守弘就舎弟弥次右衛門其兵二千『豊臣秀吉譜』
最前線に位置していたため小競り合いや夜襲が繰り返され、多数の死傷者がでたともいわれます。
3月28日の夜、徳川軍が二重堀砦に夜襲を仕掛け、羽柴軍が銃声に慌てふためく中、稲葉一鉄が騒動を鎮める場面なども記されています。
今夜小牧山ヨリ二重堀ヘ夜蒐シテ、聊火砲ヲ発セシニ、秀吉ノ猛卒大ニ騒動ス、時ニ秀吉、稲葉一鉄ヲシテ鎮メラル、一鉄二重堀ヲ乗マハシ、敵ナキニ奈何シテ周章スルヤト大音ニ詈リケレハ、諸陣漸ク静マリヌ『武徳編年集成』
現在、民家に接する道沿いに「日根野備中守弘就砦跡」の石碑がある。砦跡は石碑のある場所ではなく、二重堀集落の北端付近にあったとされるが、正確な位置は不明
青塚砦(愛知県犬山市青塚)
青塚古墳(前方後円墳)を利用して築かれた砦です。羽黒八幡林の戦いの後、森長可が約3千の兵で陣を敷いたといわれます。
青塚城則森武蔵守長一其兵三千『豊臣秀吉譜』
青塚古墳。墳丘を削って崖状にする、平坦面を幅広くするなど、改修の痕跡はみられるが、砦の構造などははっきりとしていない
現在は国指定史跡となり、史跡公園として整備されています。青塚古墳について学ぶことができるガイダンス施設があり、古墳の発掘調査で出土した遺物も展示されています。
ここまで小牧・長久手の戦いにおける羽柴軍の城や砦を紹介しました。秀吉は楽田城を起点に南へ砦を築き、小牧山に接近していきます。砦の構築合戦が終わると、両軍は対峙したまま動かず、小競り合いやにらみ合いが続きました。
秀吉は動員できる兵力も家康に比べて多く、城や砦の普請に関してもある程度の人数が確保できたからか、小牧や犬山周辺だけでも徳川軍の倍以上の砦を築いています。しかし、羽柴軍の城・砦に関しては何も残っておらず、詳細不明のものが多いのが現状です。
ですが、羽柴軍の砦のほうが名残や雰囲気を感じられる場所が多いように思います。秀吉は敵の陣城である小牧山城をどのように見ていたのか、各砦の距離感や位置関係など、今度は秀吉目線で戦いの跡を辿ってみるのも面白いのではないでしょうか。
第5回は、「羽柴軍の城・砦②(蟹江城と支城、尾張西部の城・砦を中心に)」です。羽柴秀吉は織田信雄(長島)と徳川家康(小牧)の連絡線の断つため、蟹江城(愛知県海部郡)に目をつけます。次回は、長久手の戦い後の秀吉の戦略や蟹江城の戦い、その舞台となった支城などを紹介します。
今回ご紹介した史料一覧
・『豊臣秀吉譜』
林羅山(1583~1657)、江戸初期の儒官。幕命によってまとめられた豊臣秀吉の年譜。明暦4年(1658)に荒川四郎左衛門により版行された。小瀬甫庵の『太閤記』に依拠している部分も多い。
・『太閤記』
小瀬甫庵(1564~1640)、戦国から江戸初期の儒学者。豊臣秀吉の伝記の代表作。著者の名をとって『甫庵太閤記』とも。寛永2年(1625)の自序がある。
・『武徳編年集成』
木村高敦(1680〜1742)、江戸幕府の幕臣。徳川家康の一代記を記す。天文11年(1542)~元和2年(1616)までを編年体で記述。8代将軍・徳川吉宗に献上された。
・『武家事紀』
山鹿素行(1622~1685)、江戸中期の儒学者・兵学者。延宝元年(1673)の成立。兵学者という立場から、合戦における戦略や戦術を論評し、城郭についても詳しく記述している。
・『四戦紀聞尾州長久手戦記』
根岸直利(1633~1714)、江戸幕府の大番・小普請奉行。その三男の木村高敦(『武徳編年集成』の著者)が増訂を加える。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、長久手の戦いについて記録。
・『小牧陣始末記』
神谷存心(1646~1729)、存心の口述を門人が筆記したもの。存心の祖父は水野忠重に仕えていたとされる。合戦の経過などを詳細に記す。明治22年(1889)に戦史研究の資料として刊行。
・『家忠日記』
松平家忠(1555〜1600)、徳川家康に仕えた家忠の日記。天正5年(1577)〜文禄3年(1594)まで、家忠が体験したことを基に記述。日常生活から合戦の様子まで幅広く記されている。
・『稲葉家譜』
著者・成立年代不明。稲葉良通(一鉄)の代から天保14年(1843)までを書き記す。
・『長久手戦話』
著者不明。宝暦6年(1756)の成立か。反心、義心など項目を立てて、人物評価を行っている。
【シリーズ一覧】
▶第1回 戦いの概要 (https://shirobito.jp/article/1417)
▶第2回 織田・徳川連合軍の城・砦①(小牧山城と周辺の砦を中心に)(https://shirobito.jp/article/1457)
▶第3回 織田・徳川連合軍の城・砦②(長島城と伊勢の城を中心に)(https://shirobito.jp/article/1504)
執筆・画像提供/内貴 健太(ないき けんた)
岩崎城 学芸員。専門・研究分野は岩崎城、小牧・長久手の戦いの城や砦、城郭全般。岩崎城歴史記念館にて多数の歴史講座や企画展、ワークショップなどを担当。日本城郭検定1級保持。中日文化センター講師。城址散策(主に東海圏)が趣味。YouTube「こまなが!ちゃんねる」(https://www.youtube.com/watch?v=xAGp3R8gDoo)でも小牧・長久手の戦いを解説。