理文先生のお城がっこう 城歩き編 第41回 天守台と穴蔵構造

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回のテーマは、天守の土台になる「天守台」について。高い天守を安定して建てられるように工夫された天守台の進化と、その地下に造られた穴蔵の構造について、全国各地の城を例に見ていきましょう。

天守には、織田信長(おだのぶなが)の築(きず)いた安土城(滋賀県近江八幡市)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)が築いた大坂城(大阪府大阪市)と同じ構造(こうぞう)をした望楼(ぼうろう)型(望楼式)天守と、関ヶ原の戦い後に登場した新式の層塔(そうとう)型(層塔式)天守と呼(よ)ばれる二つの形をした天守があることとその違(ちが)いについて、前回はまとめてみました。今回は、その天守の土台になる石垣(いしがき)で出来た「天守台(てんしゅだい)」について、まとめていきたいと思います。この天守台こそが、望楼型と層塔型のどちらの天守を建てるかに、大きな影響(えいきょう)を与えていたのです。

安土城の穴蔵
安土城の穴蔵(あなぐら)。穴蔵の中には、柱を支えるための巨大な礎石(そせき)が隙間(すきま)なく置かれています。穴蔵の周囲(しゅうい)の石塁(せきるい)は崩(くず)れ落ちており、本来の高さではありません

天守台を造る

(わ)が国初の天主は、安土山の最高所に築かれた天主を築くための土台である天守台の上に建てられました。安土城の天守台は、不等辺七角形(天主初重は、不等辺八角形でした)で、南北約38m×東西34m、高さは約12mの規模(きぼ)でした。その上に5重6階の高さ約32.5mの天主がそびえ建っていたのです。この天主台は、山上の自然の地形を利用して造(つく)られたようで、石垣の接点(せってん)はどこも直角(90度)ではなく、鈍角(どんかく)に広がっていました。この安土城の天主の完成は、天正(てんしょう)7年(1579)頃(ごろ)と考えられています。

これ以後、織田政権(せいけん)そして豊臣政権下で、数多くの天守及(およ)び天守台が築かれるわけですが、隅角(ぐうかく・すみかど)が確実(かくじつ)に直角になる天守台は、なかなか造ることが出来ませんでした。それは、石垣の隅角を直角に積むための石垣構築(こうちく)技術(ぎじゅつ)が進歩していなかったからです。現存(げんそん)する犬山城(愛知県犬山市)天守台も台形で、四隅のどこも直角ではありません。慶長(けいちょう)2年(1597)に築かれた岡山城(岡山県岡山市)天守台は不等辺五角形で、本丸の二面を天守台として使用し、本丸内に極めて低い石垣を築き天守台を完成させました。どうにか、一隅が直角に近い角度で積めましたが、高さが約2mと低かったからだと思われます。この頃は、最初から地形に合わせて積むため、四角形にしようとすら思ってなかったのでしょう。

岡山城と犬山城の天守台
岡山城(左)と犬山城(右)の天守台。両者ともに不等辺で四角形となっていません。初期天守は、このようにほとんどの天守台がゆがんでいます

ゆがんだ天守台から方形の天守台へ

池田輝政(いけだてるまさ)が慶長(けいちょう)14年(1609)に完成させた、現存最大の天守(石垣を含(ふく)め高さ約46m)である姫路(ひめじ)(兵庫県姫路市)の天守台も、実はゆがんでいて、四隅は90度ではありません。この頃の石垣を積む技術では、石垣同士(どうしの接点を直角に出来なかったのです。特に、本丸の隅に造られた天守台は、本丸側と外側の高低差があって、ただでさえ難(むずか)しい隅角が、さらにゆがんでしまっています。彦根(ひこね)(滋賀県彦根市)天守を見るとよくわかります。地形に合わせて多角形にしても良かったのに、頑張(がんば)って方形にしようとした結果、異常(いじょう)に細長い一階になったのです。

前回の、天守の構造でわかったと思いますが、1階平面がどんなにゆがんでいても、そのゆがみは、1階建物を覆(おお)入母屋造(いりもやづくり)の屋根にまでしか伝わりません。その屋根の上に載(の)せる望楼部は、下の屋根の形に左右される必要はありませんでした。従(したが)って、石垣構築技術が未熟(みじゅく)な段階(だんかい)の天守が、望楼型天守になったわけです。

望楼型天守と層塔型天守
望楼型天守(左)と層塔型天守(右)。望楼型は天守(天守台に併(あわ)せて建つ)の1階がいくらゆがんでいても2階で調整できますが、天守台がゆがんでいたり、長方形だったりするとゆがみがそのまま上の階に引き継がれてしまうのが層塔型天守です

では、ゆがまない正確(せいかく)な四角形に、しかも正方形に近い天守台を築けるようになるのは、いつ頃からなのでしょう。ゆがまない天守台を築ければ、層塔型天守が建てられることになります。

実は、その境(さかい)が姫路城天守でした。姫路城天守の完成は、慶長14年(1609)だと考えられています。工事が開始されたのは、関ヶ原の戦いの直後ですが、天守台の完成は慶長10年(1605)前後のことだと思われます。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い前後から、元和元年(1615)の武家諸法度(ぶけしょはっと)が公布(こうふ)されるまでのおよそ20年間を「慶長の築城ラッシュ」と呼び、城を築く技術が急激(きゅうげき)に進展(しんてん)した時代になります。当然、石垣構築技術も、驚(おどろ)くほど進歩しました。直角に積む技術、高い天守台さえ正確に積むことが可能(かのう)になったわけですが、その年代は慶長15年(1610)頃のことでした。姫路城の天守が完成した翌年(よくねん)あたりから、正確で強固な天守台が登場し、それと共に層塔型天守が主流になっていったのです。

小倉城
細川忠興(ただおき)によって慶長15年(1610)に建てられた小倉城(福岡県北九州市)の天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守でした。天守台は四隅共に、ほぼ90度で積まれています

穴蔵を築く

最初に築かれた安土城天守には、穴蔵(あなぐら)と呼ばれる地階(ちかい)が設(もう)けられていました。天守は天守台の上に建てられたため、高すぎて直接入ることが難しいと考え、まず地階へと入り、地階から内部の木造(もくぞう)階段(石段の場合もありました)を登って1階へ出る構造としたのです。この地階を穴蔵と呼んで、四方を石垣で囲(かこ)んで築かれました。従って、多くの天守は、穴蔵を持つ構造となっています。

犬山城の穴蔵
犬山城の穴蔵。左は、穴蔵への入口で、上に上がる階段ホールです。右が、中2階で、ここで右に90度折れて、1階へと続きます。通路だけが穴蔵になっているのがよくわかります

安土城のように巨大(きょだい)な穴蔵を持つ城もあれば、上階へと上がる通路を設けただけの小さな穴蔵構造を取る犬山城や彦根城のようなケースもありました。時代が下ると、木造階段ではなく、当初から上へ上がるための石段を設置した甲府(こうふ)(山梨県甲府市)や(よど)(京都府京都市)のような天守台が築かれるようになります。

穴蔵を築かない場合は、天守台外部に付櫓(つけやぐら)を建てて、付櫓の内部の階段から天守1階へと登る工夫がなされました。松江(まつえ)(島根県松江市)などがそれにあたります。

甲府城の天守台
甲府城の天守台。穴蔵の中に礎石は残っていませんが、穴蔵から1階へ上がるための石段が設けられています。石段がなければ、木製階段があったと思われます

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)
入母屋造(いりもやづくり)(四方に屋根がある建物です)の建物(1階または2階建て)の屋根の上に、上階(望楼(ぼうろう)部)(1階から3階建て)を載せた形式の天守です。下の階が不整形でも、望楼部(物見)を載せることができる古い形式の天守です。

※層塔型天守(そうとうがたてんしゅ)
1階から最上階まで、上の階を下の階より規則(きそく)的に小さくし、1階から順番に積み上げて造った天守のことです。関ヶ原合戦後に登場する新式の天守形式です。

※隅角(ぐうかく・すみかど)
石垣が他の石垣と接して形成される角部(壁面(へきめん)が折れ曲がっている部分)のことです。曲輪側に対して外側に折れている隅角を「出隅」(ですみ)と言い、内側に折れている隅角を「入隅」(いりすみ)と言います。

※入母屋造(いりもやづく
屋根の形式の一つです。寄棟造(よせむねづくり)の上に切妻造(きりづまづくり)を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついて出来たものです。天守や櫓の最上階に見られる屋根のことです。

※穴蔵(あなぐら)
天守の地下に造られた地下室で、当初は出入口を兼(か)ねていました。天守相当の大型(おおがた)の櫓にも見られます。漆喰(しっくい)を塗(ぬ)り固めた土間あるいは石畳(いしだたみ)を用いることもありました。塩とか米とかの備蓄(びちく)倉庫として用いられたりもしました。

※付櫓(つけやぐら)
本来は天守に続く櫓のことです。天守と接続する例が多く見られますが、渡櫓(わたりやぐら)によって接続する例もあります。

次回は「天守の重と階」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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