超入門! お城セミナー 超入門!お城セミナーまとめ【歴史編 Vol.3】

初心者向けにゼロからわかりやすく解説する「超入門!お城セミナー」。私たちが現在当たり前のように見ているお城は、果たして何のために造られ、どのように使われていたのか? そうした改めて問われると答えに困ってしまう「お城の歴史」を紐解く記事をまとめましたので、ぜひ参考にしてください。

京都に「二条城」は4つもあった!

古都・京都を代表する城といえば、世界遺産にも登録されている二条城。実は現在見ることのできる二条城は4城目で、その以前にも場所を移して3度も建て替えられていたのです!

織田信長が築いた将軍御所(旧二条城)と新御所(二条御所)、豊臣秀吉が聚楽第完成前に築いたお屋敷(妙顕寺城)、そして徳川家康が将軍家の威光を示すために築いた現在の二条城。天下人が替わるごとに築き直された各城の背景に迫ると、歴史の面白さがより見えてきます。

二条城、二の丸御殿
世界遺産でもある二条城二の丸御殿。外国人や修学旅行生らも必ず立ち寄る観光地だ

▼続きはこちらから


織田信長が最大のピンチに陥った戦とは?

天下統一まであと一歩と迫った戦国時代の風雲児・織田信長。そんな彼が命からがら逃げなくてはならなかった戦といえば、朝倉義景と浅井長政を敵に迎えた「金ヶ崎の退き口」です。

この攻防の舞台となった金ヶ崎城(福井県)は、敦賀湾に突き出た比高約86mの丘上に築かれ、三方を海に囲まれた要害。見るからに険しい山城を実際に散策し、木下秀吉(後の豊臣秀吉)と明智光秀が殿(しんがり)を務めた激しい撤退戦を偲んでみてはいかがでしょうか。

金ヶ崎城
金ヶ崎城の遠景

▼続きはこちらから


あの有名な合戦は、戦国大名同士の攻城戦から生まれた

戦国時代の合戦といえば、野原や河原に集まった大勢の兵が衝突する「野戦」が思い浮かびますが、実は長篠の戦いや川中島の戦いなど多くの合戦は、城をめぐる「攻城戦」から生まれたのです。

なぜかというと、戦国時代の大名は本拠地以外にも多数の支城を築いて領地を守り、まず最初はその支城で攻防が繰り広げられたから。長篠の戦いもその一つですが、では実際にどの城での攻城戦が発端となったのでしょう?

長篠の戦い
組織的な鉄炮運用で敵を撃ち破った革新的な合戦として知られる長篠の戦い。平地での戦いという印象が強いが、実はこの戦いは城と深い関わりがあるのだ

▼続きはこちらから


戦がほとんどなかった江戸時代に築かれたお城の防御力は?

戦が絶えなかった時代の城は、基本的には“戦うため”の施設で、枡形虎口や高石垣などで守りの工夫がしっかり凝らされていました。戦がほとんどなかった江戸時代に築かれた近世城郭にも石垣などの防御施設が見られますが、果たしてその実力はどれほどのものだったのか?

江戸時代以降に実際に合戦の舞台となった城は、大坂の陣の大坂城(大阪府)などごくわずか。しかしその数少ない実例を見ていくと、近世城郭の防御力のスゴさが如実に伝わってきます!

大坂冬の陣図屏風
大坂冬の陣を描いた『大坂冬の陣図屏風(模本・部分)』(東京国立博物館蔵/国立博物館所蔵品統合検索システム所収データを編集部で改変)。真田丸で奮戦する真田隊や城へ攻め込もうとする幕府軍などが生き生きと描かれている

▼続きはこちらから


お城に籠もって敵の攻撃を防ぐ「籠城戦」で勝つことはできる?

城をめぐる攻防でとられる戦法の一つに、自らの城に籠もって敵の攻撃を防ぐ「籠城戦」があります。でも、逃げ場のない城に籠もっているだけで勝ち目はあるのか? それにどうやって戦ったのか?

その答えは、真田昌幸が上田城(長野県)で徳川軍を迎え撃った第一次上田合戦や、毛利元就が尼子軍を退けた吉田郡山城(広島県)の戦いなど、籠城側が勝利した数少ない戦いにあります。キーワードは“後詰め(援軍)”です!

吉田郡山城
毛利元就の居城・吉田郡山城。民間人を含む8千人で籠城戦に及び、3万もの尼子軍を撃退した

▼続きはこちらから


▼今回紹介した記事はこちら
その他の「超入門!お城セミナー」の記事はこちらから

執筆/城びと編集部

関連書籍・商品など