超入門! お城セミナー 第84回【歴史】戦国時代の合戦はほとんどが城をめぐる戦いだったって本当?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、城と合戦。長篠の戦いや川中島の戦いなどドラマでもおなじみの合戦は、実はお城がなければ起こりませんでした。城での攻防から起こる合戦の仕組みを解説しましょう。キーワードは「後詰め」です!

長篠の戦い
組織的な鉄炮運用で敵を撃ち破った革新的な合戦として知られる長篠の戦い。平地での戦いという印象が強いが、実はこの戦いは城と深い関わりがあるのだ

城がなければ有名な合戦も起きなかった!?

戦国時代の合戦といえば、騎馬武者や歩兵たちが刀や槍を振り回す「野戦」を思い浮かべる人が多いでしょうか。ドラマや映画でも鎧武者たちがぶつかり合う合戦シーンは最大の山場。見ているだけでワクワクしますよね。しかし、この合戦にもお城が大きく関わっているって知っていましたか? 今回は、戦国時代の城と合戦の関係について解説します。

戦国時代の大名は、本拠地以外にも多数の城を築いて領地を守っていました。特に敵が侵入する可能性が高い国境は、厳重な支城網が敷かれています。これらの支城は、そのまま領地を支配する拠点にもなります。つまり、領土を広げる場合、まず敵の城を自分のものにする必要があるという訳です。

では、攻められた支城の城主はどうするのでしょう? 当然主君である大名に援軍を要請します。支城が落とされたら一大事なので、要請された大名は必ず援軍を送らなくてはなりません。この救援軍を歴史用語で「後詰め(ごづめ)」と呼びます。そして、支城に到着した後詰め軍は、城を救うため攻城軍に「後詰め決戦」と呼ばれる戦いを挑むのです。

後詰め
「後詰め決戦」の流れをイラストでおさらいしよう。まず、A国がB国の支城を攻める。攻められた支城は領主に援軍を要請する。B国領主は要請に応じて後詰め軍を派遣。A国軍が撤退しない場合は後詰め決戦となる。後詰め決戦に勝利すれば、後詰めは成功。支城を守ることができる(イラスト=WADE)

そのため、戦国時代の合戦は多くがこの後詰め決戦でした。武田信玄と上杉謙信の一騎討ち伝説で有名な川中島の戦いや織田信長が大逆転を成しとげた桶狭間の戦い、信長が武田の騎馬軍を鉄砲で撃ち破った長篠の戦いなど、戦国時代の有名な合戦もほとんどが攻城戦から起こった合戦です。

ですが、「ドラマで長篠の戦いに城なんて出てきたっけ?」と疑問に思う方もいるでしょう。確かに信長と武田勝頼の決戦は平地ですが、この決戦は武田軍の城攻めからはじまったものなのです。それでは、実際の後詰め決戦はどのように行われたのか。長篠の戦いの例を見ていきましょう。

攻城戦から発生した決戦・長篠の戦い

攻城戦はその名が示す通り、城が攻められることからはじまります。長篠の戦いの場合は、徳川領にある長篠城(愛知県)に武田勝頼が攻め込んだことが端緒となりました。この時、約1万5000人で攻めてきた武田軍に対して長篠城の兵はわずか500人と、絶望的な兵力差。このままでは落城してしまうため、城将・奥平貞昌(おくだいらさだまさ/合戦後に信昌と改名)は徳川家康、つまり自分が属する領主に助けを求めます。

長篠城
長篠城は武田領と徳川領の境に位置し、たびたび両軍から領有を争われていた

支城からのSOSを受けた家康は援軍を組織します。後詰め軍は領主が単独で送ることもありますが、長篠城の場合は相手が「戦国最強」と恐れられた武田軍だったこともあり、家康は同盟相手の織田信長にも援軍を要請。約3万の連合軍で長篠城へ向かいました。そして、援軍要請から3日後には、長篠城からほど近い設楽原(したらがはら)に布陣を完了します。

長篠の戦い、鳥居強右衛門の碑
後詰め軍を送る際は、いつ頃どれくらいの兵を送れるかを城に伝えると、籠城軍の士気が上がって救援が成功しやすくなる。長篠の戦いでも、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という足軽が命と引き替えに援軍の情報を城に伝え、城兵たちの士気をあげた(写真は鳥居強右衛門の碑)

織田・徳川軍の後詰め到来の情報は、武田軍にももたらされました。援軍を放置すれば、背後から攻撃され自軍が壊滅する可能性もあるので、早急に対応しなければなりません。この時、攻城軍がとれる行動は2つ。1つは、後詰め軍と戦わずに撤退すること。もう1つは、後詰め軍に戦いを挑むこと(後詰め決戦)です。長篠の戦いで、武田の大将・勝頼が下した決断は後詰め決戦。一部の兵を城の包囲に残し、自身は約1万2000の兵を率いて設楽原に向かったのでした。

こうして、織田・徳川軍と武田軍の決戦がはじまりました。織田・徳川軍が勝利すれば、長篠城の救援は成功。敗れれば長篠城は武田軍のものになってしまいますが、合戦の結果はみなさんもご存じの通り、織田・徳川軍の勝利。家康は長篠城と自分の領地を守ることができたという訳ですね。

後詰めの成否は大名家の行く末も左右した!?

領地を守る支城は領主にとって生命線でもあったため、後詰めの結果は領主の勢力にも大きな影響を与えました。長篠の戦いの場合も、武田軍を追い払い勢いに乗った家康が、武田領へと領土を拡大していきます。

では、後詰めに失敗、あるいは後詰め軍を送らなかった場合はどうなるのでしょうか? 実は、当時の領主と家臣の間には「支城に後詰めを送るのは領主の義務」という暗黙の了解があり、後詰めを送れず城が落ちた場合、支城を一つ失うだけでなく、他の城主からの信用も失うことになってしまうのです。この後詰め失敗により短期間で大大名が滅んでしまった例が、天正9年(1581)の高天神城の戦いです。

武田家の支城である高天神城(静岡県)が織田・徳川軍に攻められた際、城将の岡部元信(おかべもとのぶ)は領主・武田勝頼に救援依頼を送ります。しかし、多方面に敵を抱えていた勝頼には後詰め軍を送る余裕はなく、高天神城は落城。結果的に支城を見捨てた勝頼の信用はガタ落ちし、翌年の織田・徳川軍による武田攻めでは、家臣や国衆、親戚筋である一門衆にまで裏切られ、武田家は滅亡してしまいます。

高天神城
高天神城遠景。勝頼が後詰めを送らなかったことを周囲に印象づけるため、信長は城の降伏を許さず、皆殺しを命じたという

冒頭でも述べた通り、戦国時代の大きな合戦は城をめぐる攻防から発生したものがほとんど。つまり、合戦シーンが出てくるドラマや映画を見る際、事前に関連する城について調べておけば、物語をより楽しむことができるはず。ぜひ、試してみてください!


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、『図解でわかる 日本の名城』(ぴあ株式会社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。