2023/03/20
超入門! お城セミナー 第90回【歴史】籠城戦に勝利するための秘訣とは何か?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。籠城戦では、ただ城に籠もっているだけでは未来はありません。城を守る側が落城をまぬがれ、長くつらい籠城に打ち勝つためには、何が必要だったのでしょうか?
戦国時代の籠城戦では、籠城側が負けて落城した合戦が多く知られるが、籠城側が勝利した戦いも多かった(「備中高松水攻防戦之図」都立中央図書館蔵)
籠城戦は1城だけでは勝利できない
未曾有の事態となっているコロナ禍では、全世界で、外出制限やリモートワークなどの“籠城”が強いられていました。長期間にわたって屋内に閉じ込められる〝籠城〟は、心身ともにとてもつらいもの。それは昔も今も変わりません。
戦国時代には多くの籠城戦が行われました。豊臣秀吉による備中高松城(岡山県)の水攻めや小田原攻め、徳川家康が豊臣家を攻めた大坂の陣など、どうしても攻城側が勝利した合戦が取り上げられがちなので、「籠城=敗北」というイメージを持つ人もいるかもしれませんが、それは間違い。籠城側が勝利した(落城しなかった)戦いは少なくありません。武田信玄にしろ織田信長にしろ、どんな戦国武将でも城攻めに失敗して辛酸をなめた経験があるもの。籠城側が勝利した事例は少なくないどころか、正確な統計はありませんが、おそらく勝敗は半々ぐらいだったのだろうと思います。
籠城側が勝利した有名な戦い
とはいえ、城攻めでは通常、攻める側が守る側の数倍の兵を引き連れてくるものでしたから、真っ向勝負で籠城側が勝利するのは容易ではありません。籠城側の勝利には、どんな秘訣があったのでしょうか?
籠城側が勝利した有名な戦いに、第一次上田合戦があります。領地の一部(沼田地方)を割譲しろと傍若無人に迫る徳川家康に対して、戦国のトリックスター・真田昌幸が上田城(長野県)で一矢報いた攻城戦です。この合戦で、真田側は上田城だけに籠もったわけではありません。丸子城(長野県)や戸石城(長野県)、矢沢城(長野県)などの支城に家臣を配し、各城と密に連絡をとりながら徳川の大軍を迎え撃ちます。
第一次上田合戦を描いた錦絵。中央で指揮をとるのが真田昌幸。画面左側に立ち、戦場を見据えているのが真田幸村(上田市立博物館蔵)
いざ上田城下で戦端が開かれると、昌幸は得意のゲリラ戦で攻め手を撹乱。体勢を立て直すために後退した徳川軍に対して、戸石城から出撃した真田信之が横腹を突き、さらに撤退する徳川軍を矢沢城にいた矢沢頼康が追撃して痛打を与えます。こうして昌幸は、自軍の3倍以上の大軍を見事退けたのです。
毛利元就が尼子晴久に勝利した吉田郡山城(広島県)の戦いも、支城ネットワークを活かした籠城戦でした。元就は各支城に命じて、進軍してくる尼子軍に対して夜討ちや奇襲を展開。さらに吉田郡山城が囲まれたあとも城外の砦と連絡を取り合い、本城から出撃した部隊と別動隊で敵を挟み撃ちにするなどの陽動作戦がとられました。こうして籠城開始から約3カ月後、尼子軍の内部で厭戦ムードが広がっていたところに、かねてから要請していた大内氏の援軍が到着します。城を包囲していた尼子軍は毛利軍と大内軍に挟まれるかっこうとなり、あせって総攻撃をしかけて逆に打ち負かされ、撤退せざるを得なくなったのです。
毛利元就の居城・吉田郡山城。民間人を含む8千人で籠城戦に及び、3万もの尼子軍を撃退した
どちらの籠城戦も、支城ネットワークを活かした連携による勝利といえるでしょう。読者の中には、邪魔されるなら支城も攻めればいいじゃないかと思う人もいるかもしれません。しかし、1城を落とすだけでも数日から下手すれば十日もかかるもの。すべての支城を落として本城を孤立させるという戦略は、相当な兵力と兵糧の備蓄、そして時間的余裕がなければできなかったのです。
援軍が来なければ籠城なんて無理!
さて、吉田郡山城の戦いで、最終的に籠城側の勝利を決定づけたのは大内氏の援軍でした。籠城戦では、この援軍=後詰めが決定的な意味合いを持ちます。籠城側が勝利できるかどうかは、後詰め次第だったと言っても過言ではありません。(「第84回【歴史】戦国時代の合戦はほとんどが城をめぐる戦いだったって本当?」を参照)
後詰めにより籠城側が勝利した例に、「河越夜戦」として知られる河越城(埼玉県)の戦いがあります。北条氏の拠点だった河越城は、旧領を奪還したい関東管領の上杉氏や鎌倉公方の流れを汲む古河公方の足利氏に包囲され、半年近い籠城戦を戦っていました。北条方の当主・北条氏康は今川義元からの攻撃を受けており、すぐには援軍を出せなかったのです。それでも半年に及び籠城を続けられたのは、兵糧が充分にあったことに加え、主君氏康は必ず来てくれるという信頼関係が強かったからでしょう。
実際、今川義元と和睦を結んだ氏康は、自ら兵を率いて救援に向かいます。その後、氏康の後詰め軍と包囲軍は膠着状態が続くのですが、決戦に望みたい氏康は河越城と連携すべく、福島勝広という小姓に城内への伝令を頼みます。福島勝広は単騎で敵軍を通り抜け、見事作戦の伝達に成功。城内の士気は一気に高まったことでしょう。そして氏康率いる後詰め軍の夜襲に呼応して籠城兵も打って出て、包囲軍を撃退したのでした。
河越夜戦の激戦地とされる東明寺には「河越夜戦跡」の碑が立つ
籠城を強いられた兵にとってみれば、日々乏しくなる食糧事情の中で戦いを続けているわけで、気弱になり逃げ出したって仕方がないような状況です。籠城兵のメンタルがやられ、内輪もめなどが多発して内部崩壊し、開城に追い込まれた例も少なくもありません。
そうした中で、「後詰めが来る」と信じ続けることが、籠城を継続する唯一の希望でした。武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍に大敗した長篠の戦いは、織田・徳川の後詰めによって、長篠城の籠城側が勝利した例と見ることができます。
この戦いで、家康への伝令を買って出た鳥居強右衛門が武田軍に捕らわれ、城内の兵に「援軍は来ない」と伝えるよう強要されました。しかし強右衛門は自らの命と引き換えに、城内に向かって「あと2、3日で援軍が来る」と叫び、本当の情報を知らせたのです。籠城を続けるにあたり、「後詰めが来る」という希望がいかに重要かを教えてくれるエピソードだといえます。
岡崎城の徳川家康に後詰めの要請をして、その帰路、武田軍に捉えられた鳥居強右衛門。「援軍は来ない」という虚偽の伝令を拒んだために磔にされたという(東大史料編纂所蔵)
籠城側が勝利した事例から何か導き出せるとすれば、「籠城は1城だけでは続けられない」ということでしょう。1城だけでがんばっても、相手が勝手に撤退しない限り勝利の可能性はありませんし、何よりメンタルがもちません。籠城に打ち勝つためには周りとの連携が必要ですし、後詰めという援軍が不可欠となります。もし、長引く“籠城”で気疲れしてしまったら、周囲を頼り、相談し、ときに助けを求めることが大切なのかもしれません。籠城戦は支え合い、助け合い、励まし合わなければ、決して続けられないものなのです。
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。
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