超入門! お城セミナー 第87回【歴史】石垣などの防御施設は近世以降の戦いでどう役に立ったの?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、近世城郭と合戦について。合戦に備えて枡形虎口や高石垣、惣構などの防御施設が設けられた近世城郭。果たして、それらは実戦で役に立つのでしょうか? 実際に起こった合戦の例から、近世城郭の実力を検証します!



大阪城、原城、会津若松城、熊本城
近世・近代の戦を経験した、大坂城(左上)、原城(右上)、会津若松城(左下)、熊本城(右下/震災前)。他にも戊辰戦争の舞台となった、長岡城や二本松城なども近代戦を経験している

意外と少ない!? 合戦を経験した近世城郭

これまでこの連載では、城というものが戦うための施設であり、いかに守りの工夫が凝らされているかということを説明してきました。でも、乱世に築かれた山城はともかく、戦がほとんどなかった江戸時代に築かれ、住居や役所としての機能が充実していった近世城郭って「いざ戦じゃ!」となった時、本当に役に立つようなシロモノだったのでしょうか? 実は、江戸時代以降に実際に合戦の舞台となった城はごくわずか。今回はその実例のいくつかから、近世城郭の実力を検証してみましょう。

【大坂の陣】慶長19〜20年(1614〜1615)

大坂冬の陣図屏風
大坂冬の陣を描いた『大坂冬の陣図屏風(模本・部分)』(東京国立博物館蔵/国立博物館所蔵品統合検索システム所収データを編集部で改変)。真田丸で奮戦する真田隊や城へ攻め込もうとする幕府軍などが生き生きと描かれている

徳川家康が豊臣家を滅亡させた戦国最後の戦いとも呼ばれる大坂の陣。舞台となった豊臣秀吉築城の大坂城(大阪府)は、城下町ごとぐるりと囲んだ広大な惣構に守られた、当時最大の難攻不落の城でした。唯一の弱点だった南側には「真田丸」が築かれ、徳川軍は20万の大軍をもってしてもこの惣構を崩すことができませんでした。

そこで家康は、大坂方に心理的打撃を与えるべく大砲を昼夜分かたず打ち続けます。さらに頃合い良しとみて和議を結び、二の丸と三の丸の堀を埋め立てる条件を飲ませたのです。堀を埋められた大坂城には、もはや籠城できるほどの防御力はありません。豊臣軍は徳川軍に各地で野戦を挑みますが、兵力差に抗えず敗北。大坂城も落城してしまうのでした。

【島原の乱】寛永14〜15年(1637〜1638)

原城
乱後、原城は反乱の拠点とならないよう徹底的に破壊された

16歳の少年・天草四郎をリーダーに、島原・天草地方のキリスト教信者の農民たちが中心となって領主の圧政に対して立ち上がった、日本史上最大規模の一揆。天草四郎時貞を中心に約3万7000人の百姓が蜂起し、幕府に大きな衝撃を与えました。一揆勢が籠城したのは、キリシタン大名だった旧領主・有馬氏の居城で、廃城となっていた原城(長崎県)。現在は世界遺産の構成遺産となっています。

士気が高い上に三方を有明海に囲まれた要害の城だったため守りが固く、幕府軍は仕方なく兵糧攻めに切り替えました。幕府軍が手配したオランダ船からの砲撃でも城は落ちませんでしたが、2カ月以上の籠城に疲弊した一揆勢にはこれが心理的な打撃に。士気が下がったところを総攻撃され、陥落。

【会津戦争】慶応4年(1868)

会津若松城
砲撃によりボロボロになった天守は、戦後新政府の命令で解体された(『会津戊辰戦史』より)

徳川の世が終わりを迎えた戊辰戦争では、京都守護職を務めた会津藩主松平容保の居城・会津若松城(福島県)が新政府軍の攻撃目標となり、この戦いが最大の激戦となりました。

会津若松城は、蒲生氏郷(がもううじさと)と加藤嘉明という築城巧者が城主の時代に改修を重ねた堅城で、広大な惣構の防衛ラインは、新政府軍も容易に突破できませんでした。しかし、国境守備のため会津城下が手薄になった隙を突いて、新政府軍は惣構を突破。士気の高い城内への突入はあきらめてすぐ近くの山中から命中精度の高いアームストロング砲を打ち続け、人的・心理的に大きな被害を与えました。やがて同盟諸藩も次々と降伏して城は孤立。総攻撃を仕掛け、開戦から約1カ月後に力尽きました。

【西南戦争】明治10年(1877)

熊本城の戦い、錦絵
熊本城の戦いを描いた錦絵。西郷軍は髙石垣に阻まれて堀を越えることができず、城に決定的な打撃を与えることができなかった(『西南戦争錦絵』より「鹿児島の賊軍熊本城激戦図」)

明治政府への不満を持った士族たちが西郷隆盛を大将にかつぎ、陸軍の拠点である「鎮台」となっていた熊本城(熊本県)を攻めました。城内の政府軍は4000、攻める西郷軍は1万3000。数的に圧倒的有利な西郷軍は猛攻を仕掛けますが、大砲の数が足りません。軍の拠点である城内からの反撃も激しい上に、清正流石垣の武者返しが効力を発揮して、西郷軍は城に取り付くこともできずに撤退します。西郷が「官軍に負けたのではない。清正公に負けた」と言ったというエピソードが有名ですが、加藤清正が築いた当初から鉄壁の名城と讃えられていた熊本城は、実戦によってそれを証明したことになりますね。

それでは、検証結果をまとめてみましょう!

落城してしまった大坂の陣・島原の乱・会津戦争では、敗戦の大きな原因の1つに大砲があげられます。時代とともに命中精度も上がっていて、当初は心理的打撃だけだった効力が、幕末維新頃には甚大な人的被害も与えるようになっています。逆に城が落ちなかった西南戦争では、攻める側にその大砲が充分になかったことが致命的だったといえそうです。

そしてもう一つ大事なことは、城を守るために充分な兵力を準備すること。大坂の陣でも、冬の陣は兵力が約9万あり、城下を守る惣構が機能。家康も政治的駆け引きで惣構を排除するしかありませんでした。一方、会津戦争の守備兵は女子隊まで含めてもわずか5000人ほど。国境への派兵で手薄になっていたこともあり、早々に惣構を突破され、城内のみでの籠城を余儀なくされています。

長岡城跡
戊辰戦争の激戦地となった長岡城跡。旧幕府軍が国境守備に向かった隙を突かれ、半日で落城するが、約2カ月後に旧幕府軍に奪還された

ということで…

近世城郭は近代戦でも、充分な兵力があり、歩兵のみの白兵戦なら、惣構や石垣などが機能してしっかり守りが通用する。しかし、惣構を守れるだけの兵力がない、あるいは惣構そのものを喪失してしまった場合は、直接敵の攻撃にさらされ落城してしまいます。また、守備兵に心理的・物理的被害を与える大砲の砲撃も苦手と言ってよさそうです。

皆さんもぜひ、江戸時代以降に合戦の舞台となった城を、攻守両方の気持ちになって歩いてみてくださいね!


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、『図解でわかる 日本の名城』(ぴあ株式会社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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