超入門! お城セミナー 第68回【歴史】京都の二条城はいくつもあったってどういうこと?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。古都・京都を代表する城であり、世界遺産にも登録されている二条城ですが、じつは「二条城」はいくつもあったってご存知ですか? 今回は信長・秀吉・家康と天下人が替わるごとに築かれた、「二条城」の歴史とその秘密を紹介します。




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世界遺産でもある二条城二の丸御殿。外国人や修学旅行生らも必ず立ち寄る観光地だ

京都を代表する観光地である二条城。修学旅行で訪れたことがあるという人も多いのでは? 千年王城である京都は古刹や旧跡に事欠きませんが、そんな中で二条城には二の丸御殿や唐門など江戸時代前期を代表する遺構が残り、存在感を発揮しています。

そんな二条城ですが、京都を散歩中に「二条城とはまったく違う場所で二条城跡の石碑を見つけた」という方はいらっしゃいませんか。または、歴史好きの方のなかには「本能寺の変で織田信長の嫡男・信忠が自刃したお城は二条城ではなかったっけ?」と記憶されている方もいらっしゃるかもしれません。じつは、当時の名称はそれぞれ異なるのですが、「二条城」とされる城(屋敷)は戦国時代から江戸時代初期までに4城もありました。戦国時代に二条城は場所をかえて3度も建て替えられていて、4城目が現在に残る二条城なのです。この4つの二条城はそれぞれ、

1)足利義昭の二条城=旧二条城
2)織田信長の二条城=二条御所
3)豊臣秀吉の二条城=妙顕寺城
4)徳川家康の二条城=現在の二条城

と位置づけることができます。それでは、二条城の変遷について振り返っていきましょう。

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4つの二条城が建っていた場所。ただし、1〜3については推定地であり、場所や広さは正確ではない(図版制作:かみゆ歴史編集部)

[最初の二条城]信長が義昭のために築いた将軍御所(旧二条城)

最初の二条城は、織田信長が室町15代将軍となった足利義昭のために築きました。今に残る二条城と区別するため、「旧二条城」と呼ばれています。旧二条城が建てられた場所は、現在の平安女学院中・高校の位置を中心に、東側は現在の京都御苑の一部に重なる位置だったようです。

もともとこの土地は室町幕府の有力大名であった斯波氏(しばし)の館跡で、館は13代将軍・義輝に譲られていました。二条大路(現在の二条通り)よりだいぶ北側に位置しているのですが、当時の史料には「二条武衛陣の御構(武衛とは斯波家のこと)」という記述がのこされています。“剣豪将軍”義輝は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らに襲われ、抵抗及ばず戦死しますが、その舞台がこの屋敷でした。

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平安女学院中・高校の裏手、室町通り沿いに立つ「斯波氏武衛陣 足利義輝邸遺址」の碑(左)と、「旧二条城跡」の碑

義昭は義輝の実弟であり、信長は親族ゆかりの地に、義昭の新たな御所をつくったのです。旧二条城には当時まだ珍しかった石垣が用いられており、発掘された石垣の一部は、場所をかえて京都御所内や現在の二条城内に復元されています。

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京都御所内には、発掘された旧二条城の石垣とされる遺構が移築復元されている

調査からは、2重(3重とも)の石垣と横堀がめぐっており、さらに天守らしい高層建造物が建っていたことも判明しました。信長は貧乏将軍だった義昭のために、防御もしっかりした立派な城を贈呈したわけです。ところが義昭はこのときの感謝を忘れてしまったのか、信長に対して反抗的な態度をとったあげく、合戦にまで発展し、結局は京から追放されてしまいました。怒り心頭の信長により、旧二条城は徹底的に破却され、建物の一部は安土城に転用されたと伝えられます。

[2番目の二条城]信長が親王にプレゼントした新御所(二条御所)

義昭の御所となった旧二条城が破却されたのち、信長はもうひとつの二条城を建造しました。二条大路の南側に二条家の邸宅があったのですが、信長はその庭園を気に入って宿所にしようと思いつき、邸宅を譲り受けた上で大改修を命じたのです。

ただし、この屋敷はすぐに正親町天皇の皇子である誠仁親王に譲られました。信長はこの頃、格式ある官職であった権大納言と右近衛大将に任命されており、その御礼という意味合いもあったのかもしれません。親王の御所となったため、この二条城は「二条御所」「下御所」と呼ばれています。発掘調査では、方形の縄張で幅5m程度の堀が確認されていますが、防御性に優れた城ではなかったようです。

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京都国際マンガミュージアムの裏手にひっそりとたたずむ「二條殿(二条御所)」の碑。足利義昭の旧二条城と誠仁親王が住んだ二条御所は、解説書などでも混同されていることがよくあるので要注意

本能寺の変が起きた際、信長の嫡男である織田信忠が籠もったのが、この二条御所でした。寡兵のため本能寺に打って出ることができなかった信忠は、二条御所に籠もり、親王一家を無事に城外へと送り届けた上で、明智軍を迎え撃ちます。しかし多勢に無勢、防戦むなしく信忠は自刃を遂げました。信忠が京都を脱出していれば、その後の歴史はガラッと変わったでしょうが(秀吉が天下人になることはなかった?)、謀反人を迎え撃った点、そして事前に親王一家を救出した点に、信忠の律儀で生真面目な性格を見ることができます。

[3番目の二条城]聚楽第完成までのつなぎとなったお屋敷(妙顕寺城)

本能寺の変後、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いに勝利して、信長後継者の地位を獲得した豊臣秀吉。秀吉もまた、二条に城を新築します。場所は信長が築いた二条御所と現在の二条城のちょうど中間ぐらいの位置。当時この地にあった日蓮宗の大本山・妙顕寺を移転して築いたため、「妙顕寺城」とも呼ばれています。

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押小路通りに立つ「豊臣秀吉妙顕寺城跡」の碑。通りの先に現二条城の東南隅櫓が見える

妙顕寺城は京都における秀吉の本拠とされましたが、その後天下の政庁として聚楽第が築かれたため、わずか3〜4年でその役割を終えたようです。天守が建ちそびえていたとも伝えられていますが、城の範囲や施設などは確定しておらず、謎の多い城でもあります。

[4番目の二条城]天守もそびえた将軍家の威光を示す名城(現在の二条城)

そして4城目に築かれたのが、現在に残る二条城です。築城者は徳川家康。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、その翌年から築城を開始し、慶長7年(1602)には天守や御殿が完成しました。諸大名に命じて築かれ、大型の破風を備えた五重天守が建つこの二条城は、天下人が秀吉から家康へと代わったことを高らかに宣言した城といえるでしょう。

世界遺産にも登録されている二条城には、家康時代に築かれた二の丸御殿をはじめ、貴重な遺構が多く残されています。色鮮やかで細やかな彫刻に彩られた唐門は、当時日本でナンバー1の最高級な門だったといえるでしょう。二条城の魅力を本項で紹介し尽くすことはできないのでまたの機会に譲りますが、徳川将軍家の威光を示すため、技術の粋が尽くされた城であったことは間違いありません。

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絢爛たる桃山文化を代表する建造物である唐門。国の重要文化財

家康はこの二条城で征夷大将軍就任の祝宴を行い、15代将軍・慶喜はここで大政奉還の宣言(将軍職の返上)を行いました。二条にあった4つの城は変遷する権力の所在の映し鏡となっており、武家政権の栄華と終焉を見つめる存在であったのです。


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。