戦国10大合戦と城|小和田哲男 第3回 桶狭間の戦い

戦国時代を代表する数々の合戦において城がどのように関わったか、小和田哲男先生が解説する連載講座「戦国10大合戦と城」。第3回のテーマは、織田信長が今川義元を討ち、戦国時代の状況を一変させた「桶狭間の戦い」です。桶狭間の戦いというと、信長が義元の油断を突いて一気に勝利した奇襲戦というイメージがありますが、この一戦で城がどのように関係したのか見ていきましょう。

今川義元出陣のねらいは何か

永禄3年(1560)5月19日桶狭間の戦いは、わずか2000ないし3000の織田信長が2万5000の大軍を擁する今川義元を破った戦いとして知られている。奇襲戦の典型ともいえる戦いで、城が直接関係したようにはみえない。しかし、戦いそのものの発端は城にあった。

江戸時代以来、このときの義元の出陣は上洛のためというのが定説とされてきた。ところが、その後の研究で上洛説は否定され、別な考え方が提起されている。

たとえば、三河まで確保するためだったとする説、この際、尾張を奪取してしまおうと考えていたとする説のほか、「織田方砦封鎖解除」説といったものもある。これは具体的にいうと、今川方となった鳴海城(愛知県名古屋市緑区鳴海町)に対し、信長が丹下砦善照寺砦中島砦(ともに愛知県名古屋市緑区)といった3つの砦で封鎖にかかり、また、大高城(愛知県名古屋市緑区大高町)に対しても、鷲津砦丸根砦(ともに愛知県名古屋市緑区)を築いて封鎖にかかったのをみて、それを解除するために出陣したとする考え方である。

私自身は、単にそれら砦を落とすのがねらいではなく、尾張奪取がねらいだったとみているが、実際の戦いでは、大高城のまわりの鷲津砦・丸根砦の2つに今川軍が攻撃をかけているので、鳴海城・大高城に対して信長側が築いた砦を攻撃目標としていたことはたしかであろう。

鷲津砦
織田信長が今川氏を牽制するために築いたとされる鷲津砦

丸根砦・鷲津砦の攻防

三河・尾張国境を越えて三河に足を踏み入れた今川軍は沓掛城(愛知県豊明市)に入った。5月18日、そこで義元は松平元康(のちの徳川家康)に大高城への兵糧入れを命じている。兵糧入れが成功したとみると、次に丸根砦への攻撃を命じているが、実際に元康が攻撃をはじめたのはすでに日が変わった翌19日未明であった。

丸根砦を守っていたのは信長の家臣およそ400で、佐久間大学盛重が大将だった。それを元康の兵約1000が攻める形となった。戦いの陣形は、『武徳編年集成』によると、元康の命令で兵を三手に分け、一手は形原(かたのはら)松平家広を大将とし、一手は能見松平重吉を大将とし、もう一手は酒井忠次・石川数正らに守られた元康本隊だったという。なお、このあと家康家臣団として大活躍をすることになる本多忠勝や鳥居元忠はこの戦いが初陣だった。

正確な時間まではわからないが、午前9時ごろには丸根砦は落ちている。城将佐久間盛重ら城兵のほとんどが討ち死にしたといわれているが、『三岡記(さんこうき)』という史料では、「大学アツカヒヲ入レ、城ヲ立退ヌ」とあり、噯(あつかい)、すなわち和議を申し出て、城を出ていったという解釈をしている。

今川方の大高城に対する織田方のもう一つの付城である鷲津砦の方は信長の家臣飯尾(いのお)定宗・織田信平らがおよそ500で守っていた。それを朝比奈泰朝・井伊直盛ら約2000の今川軍が攻めている。戦いがはじまったのは丸根砦への攻撃と同じ、19日未明のことである。この鷲津砦も丸根砦と同じころ落とされている。

一方、「今川方による丸根砦・鷲津砦の攻撃がはじまった」との第一報を受けた信長は、わずかの兵で清須城(愛知県清須市)を飛び出し、途中、熱田神宮で戦勝祈願をしている。戦勝祈願をしているうちに兵は1000ほどになり、午前10時ごろ、善照寺砦に入った。そのころには兵も3000ほどになっていたと思われる。

沓掛城から大高城に向かう義元

沓掛城
桶狭間の戦いの前日、今川義元が入城した沓掛城

沓掛城にいた義元も、作戦通り、丸根砦・鷲津砦への攻撃がはじまり、陥落しそうだという情報を得て、大高城に向けて沓掛城を出ている。途中、桶狭間で休憩をする予定で行軍していたところ、「松平元康が丸根砦を落とした」という報告が入り、義元は、元康に「鵜殿長照に代わって大高城の守備につけ」と命じている。このとき、義元がなぜ元康を指名したかはわからないが、前夜、大高城への兵糧入れを成功させたその力量を高く評価したためかもしれない。結果論になるが、このとき、義元から大高城に入るよう命じられたことで、元康は命拾いをしたことになる。鷲津砦攻めにあたった井伊直盛はこのあと義元とともに信長に討たれているからである。

そして、いよいよ桶狭間である。「狭間」というのは窪地、低湿地のことで、人によっては、「何でわざわざ総大将がそのような低湿地で休憩しようとしたのか」と疑問をもたれるかもしれない。しかし、実際は地名が桶狭間というだけで、義元本人は窪地で休憩したわけではないのである。『信長公記』にも「おけはざま山」とあり、山上ないし山の中腹に陣所を置いていたことがわかる。

これまでの通説だと、ちょうどお昼だし、出発地点の沓掛城と到着目標の大高城の中間地点なので、桶狭間で休憩をしたというようにとらえられてきたが、『伊束(いそく)法師物語』という史料によると、すでに先鋒部隊がそこに陣所を築いていたというのである。

陣城のような形でしっかり築いてくれていれば、何らかの遺構があって、その場所を特定できると思われるが、残念ながら、現在、「おけはざま山」と考えられる一帯にそのような遺構はないので、義元がどこで休憩したかは明らかではない。

おけはざま山
大高城に向けて行軍した今川義元が休憩したとされる「おけはざま山」

信長は、「昼頃、おけはざま山で義元が休憩するはず」という情報を簗田(やなだ)政綱から得ていて、善照寺砦を出て、おけはざま山に向かって出陣した。注目されるのは、そのとき、兵3000のうち、1000ほどを善照寺砦に残し、しかも、旗・指物のすべてをそこに立てておいたというのである。これは、今川方に、「信長本隊はまだ善照寺砦にいる」と思わせる作戦であった。

しかも、信長にとって幸いだったのは、そのとき、桶狭間周辺を豪雨が襲ったことである。今川方の警戒網が崩れる間隙を衝いて「おけはざま山」の麓に達し、一気に攻め上って義元を討つことに成功したのである。

桶狭間の戦いも、城を中心にみていくと、これまでとはちがった戦いの模様がみえてきたのではないかと思われる。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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