光秀の人生と戦いの舞台を歩く 第4回|光秀に抗った丹波国人たちの城【黒井城・八上城など】

2020 年・2021年放送の大河ドラマ『麒麟がくる』。「光秀の人生と戦いの舞台を歩く」では、ドラマの主人公である明智光秀の生涯や参戦した合戦の軌跡をたどり、出来事の背景や舞台となった城を紹介します。第4回は、織田家で順調に出世を重ねる光秀に命じられた丹波攻めの舞台となった、黒井城や八上城などが登場。(※2020年10月1日初回公開)




明智光秀、黒井城
赤井忠家・荻野直正が籠もり、長年にわたって光秀を苦しめた黒井城

光秀、丹波攻めの指揮官となる

前回解説した通り、信長の家臣となった光秀は、陣営内で着実に信頼を得て出世。天正3年(1575)、丹波攻めの総指揮官に任じられます。

丹波攻めとは信長の天下統一事業のひとつで、現在の京都府から兵庫県の一部にあたる丹波の地の攻略を狙った作戦です。京の都に近い丹波は、もともと将軍家に友好的な国人領主(土着勢力)がほとんどでした。しかし、信長が義昭と対立して義昭を京から追放したため、信長派と義昭派に分かれて争うようになってしまいます。光秀はこれをすべて信長派に塗り替えて平定する使命を与えられたのです。丹波の西には中国地方随一の大勢力・毛利家が控えているため、この作戦は極めて重要なもの。信長の光秀に対する信頼の厚さがよく現れています。

丹波攻略のため黒井城を攻めるが…

重責を帯びた光秀は、意気揚々と丹波に出撃。「吉川家文書」によれば、国人領主の過半数を味方につけたといいます。そして信長に抵抗を続ける赤井家の赤井忠家(あかいただいえ)とその叔父の荻野(赤井)直正(おぎのなおまさ)を倒すため、本拠地の黒井城(兵庫県)を包囲し、周囲に10以上の付城を築きました。このため、黒井城はすぐに落ちるだろうと噂されましたが、戦況は意外な方向に転がるのです。

明智光秀、堡月城
黒井城の本丸には、別称である「堡月城」の碑が立つ

忠家と直政は毛利家の実力者のひとり・吉川元春(きっかわもとはる)に救援要請をして、黒井城に籠城します。光秀がこれを攻撃中、突如味方についたはずの八上城主・波多野秀治(はたのひではる)が光秀を裏切り、赤井家側についてしまったのです。波多野家は丹波を統治する丹波守護・細川家の補佐役である、丹波守護代という名家。このため、表向きは信長を支持するふりをしながら水面下では反信長派を助けて、信長という新勢力に丹波を乱されないように動いていたのでした。

この裏切りを機に光秀の軍は形勢不利となり、退却せざるを得なくなりました。第一次黒井城の戦いは、光秀の完敗となったのです。

同時期に信長は反対勢力である石山本願寺とも交戦中だったため、丹波攻めは一時中断となり、光秀も本願寺攻めに加わりました。しかし連戦の疲労がたたったのか、病の床に伏せったといいます。また、一説によるとこの頃に正室の熙子が病で亡くなったともいわれます。ただし熙子の没年ははっきりしておらず、本能寺の変後に坂本城(滋賀県)が落城する際、命を絶ったとも伝わります。

戦略を駆使し八上城・黒井城を落とす

黒井城の敗戦から2年後、光秀は再び信長の命を受けて丹波攻めに向かいました。しばらくは本願寺攻めとの同時進行が続いて本腰を入れられませんでしたが、再開の翌年には本格的な攻略に取り組めるようになり、まずは黒井城より先に裏切り者である秀治の本拠地・八上城(兵庫県)を攻めます。

明智光秀、八上城
八上城では、本丸や三の丸などに石垣が残されている

八上城攻略に際して光秀は厳重に付城を築き、外部との連絡手段を寸断しました。孤立した八上城では兵糧が枯渇し、城内の人々は雑草や牛馬の死体を食べ、それも尽きると餓死者が続出したといいます。この兵糧攻めによって八上城は降伏開城。秀治は捕えられ、安土城(滋賀県)に連行ののち処刑されたのでした。

明智光秀、波多野秀治、秀尚
明智軍に捕えられる波多野秀治と弟・秀尚(『絵本太閤記』より)。波多野兄弟の裏切りに激怒していた織田信長は、二人に対して切腹すら許さず磔を命じた

勢いを得た光秀は、ついに黒井城への攻撃を再開します。このときには宇津城鬼ヶ城(ともに京都府)なども落として後顧の憂いを断っており、『信長公記』によれば黒井城から打って出た軍勢を倒して降伏させ、第二次黒井城の戦いは勝利を収めました。こうして約4年がかりで、光秀は丹波攻略の任務を完遂したのです。信長はこの功績を高く評価し、光秀に丹波の統治を任せました。

光秀は戦火で荒廃した丹波の復興に乗り出します。その政策のひとつとして城郭の整備にも力を注ぎました。黒井城には重臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)を配し、最大で5mにも達する高石垣を築きました。ただし、この石垣は南西の城下町側のみに見られます。これは家臣や民衆に、もはや時代は赤井家から織田家に移ったのだと見せつける効果を狙ったものと考えられます。光秀は信長同様に、城が権威の象徴となることをよくわかっていたのですね。

明智光秀、黒井城、石垣
黒井城では、現在も利三やその後に入城した堀尾氏によって築かれた石垣を見ることができる




執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『「山城歩き」徹底ガイド』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『図解でわかる 日本の名城』(ぴあ株式会社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、『隠れた名城 日本の山城を歩く』(山川出版社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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