2021/07/08
光秀の人生と戦いの舞台を歩く 第6回|本能寺の変と光秀の最期【安土城・山崎城・勝龍寺城】
登場人物たちの思惑が複雑に絡み合い、本能寺の変で終盤を迎えた大河ドラマ『麒麟がくる』。「光秀の人生と戦いの舞台を歩く」では、ドラマの主人公である明智光秀の生涯や参戦した合戦の軌跡をたどり、出来事の背景や舞台となった城を紹介します。最終回は、光秀の人生におけるクライマックスとなった、本能寺の変と山崎の戦いにまつわる城が登場。(※2021年2月3日初回公開)
天正10年(1582)6月2日未明、明智軍が本能寺を襲う。信長は自ら槍を振るって奮戦するが、ついに追い詰められ自害したという(「本能寺焼討之図」都立中央図書館蔵特別文庫室蔵)
謎に包まれている謀反の動機
2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。本作では、主君の織田信長を裏切った謀反人とされる明智光秀を、誠実で心優しい人物に描いて注目を浴びてきました。しかし、光秀が信長を本能寺の変で討ち果たしたことは事実。最終回直近では、周囲の言葉や秀吉の暗躍によって、光秀と信長の溝が広がっていきました。
実際の本能寺の変は、当時のさまざまな記録に残っているため、どのような展開だったのかは大体わかっています。ところが、光秀がどのような動機で変を起こしたのかはよくわかっていません。このため、信長に虐げられた復讐とか、幕府を復活させるためだったなど多くの説があり、黒幕に朝廷がいたとか、同僚の豊臣秀吉がいたなどともいわれています。
変後、炎上した本能寺は別の地に再建されたため、信長最期の地には本能寺の歴史を伝える碑のみが建っている
いずれにしても、丹波攻めを成功させて信長から丹波を与えられ、近畿圏に大きな影響力を持った光秀が決意したのですから、大きな理由があったことは想像に難くありません。光秀はその理由を胸に抱き、中国地方を攻略中の秀吉の援軍として与えられた1万3千ともいわれる兵を京都の本能寺に向かわせました。そしてわずか100人ほどの手勢しかいない信長を急襲し、滅ぼしたのです。
光秀が占拠するも焼失した安土城
信長に続いて信長嫡男の信忠も討ち果たした光秀は、自分こそが新たな“天下人”であることを知らしめるために、信長の居城である安土城(滋賀県)へ向かいました。このとき安土城は信長家臣の蒲生賢秀(がもうかたひで)が留守を預かっていましたが、信長の妻子を守るために自らの本拠地である日野城(滋賀県)へ帰還したため、光秀は大きな戦闘もなく安土城を占拠します。
安土城天主台。かつてここに建っていた天主に登った光秀は、天主からの光景に天下が自分のものとなったことを実感したことだろう
しかし、一大事件に天下が混乱しているなかで、安土城にゆっくりはしていられません。入城から3日後、光秀は腹心の明智秀満を安土城の守りに残して、自身は京から摂津(現在の大阪府と兵庫県の一部)方面の平定に向かいました。この進軍先で拠点としたのが、淀川河口にほど近い勝龍寺(しょうりゅうじ)城(京都府)です。勝龍寺城は信長側の城でしたが、光秀の軍勢に脅威を感じて降伏したのでした。
この時点で光秀が最も警戒していたのは、北陸方面を攻略中の柴田勝家だったといわれます。だからこそ、信頼できる秀満を北陸に近い安土城の守護役にしたのですが、これが裏目に出ました。中国地方を攻略中の秀吉のほうが、勝家よりも早く畿内に到着したのです。秀吉は変の一報を聞くと、すぐさま交戦中の毛利軍と和睦をまとめ、「中国大返し」と呼ばれる不眠不休の進軍で光秀に迫ってきたのでした。こうして光秀は秀吉と山崎の戦いに臨み、残念ながら敗れてしまいます。
一方、光秀の敗戦を知った秀満は、光秀の居城である坂本城(滋賀県)を守るために安土城を出ました。その後、安土城は謎の出火で天主や本丸御殿が焼失してしまいます。この出火の原因や真犯人はいまだにわかっていませんが、秀満も犯人の説に上げられることがよくあります。しかし、彼は出火の前に安土城を去っているので、犯人ではありえません。
安土城を脱出した秀満は、討伐軍がせまる中、琵琶湖を渡り坂本城へ入城したという(『国史画帖大和櫻』より「明智左馬助湖水渡之図」)。そして城が包囲されると、光秀の妻子が敵の手に掛からないよう殺害した後、自分も自害した(ドラマでは光秀の妻・煕子は病死した説を取っているが、坂本城落城まで生きていたという説もある)
山崎の戦いに敗れ無念の最期
光秀最後の戦いとなった山崎の戦いは、どんな合戦だったのでしょうか。詳しく追ってみましょう。
山崎の戦いが開戦したのは、天正10年(1582)6月13日。本能寺の変勃発からわずか11日後です。光秀は勝龍寺城に入るまでに、縁戚関係にある細川藤孝や筒井順慶などに協力を求めましたが援軍を得られず、約1万6千の兵で淀川支流の小泉川の左岸に布陣したといわれます。これに対し秀吉は大返しをしながら諸将に援軍を求め、信長三男の織田信孝などを味方につけて約4万ともいわれる兵を獲得。天王山の麓を通る西国街道から小泉川右岸に軍を展開しました。
明智・羽柴両軍は小泉川を挟んで対峙していたが、6月13日午後、戦端が開かれる。光秀は大軍が展開しにくい地形を生かして羽柴軍を押しとどめて長期戦に持ち込み、自分に味方する勢力を増やすことを狙ったという(PIXTA提供)
このとき、秀吉が拠点とした城が山崎城(京都府)です。山崎城は別名を天王山城というとおり、天王山に築かれた山城。京と摂津を結ぶ要地にあることから、秀吉は山崎の戦い後も大坂城(大阪府)に移るまで拠点として利用したようです。ものごとの重要な局面を「天王山」と呼ぶのはこの天王山に由来しており、山崎の戦いは天王山の攻防で光秀軍が競り負けたことから敗北につながったといわれます。
しかし、天王山の攻防戦は後世の脚色も大きいと考えられています。実際の光秀軍の主な敗因は、秀吉軍が二手に分かれて小泉川を渡り、左右から同時に攻めてきたことにあるようです。こうなると兵力で劣る光秀軍は総崩れとなり、13日の夕方ごろに光秀は勝龍寺城へと退却しました。そして追い詰められた光秀は、夜になってから勝龍寺城を脱出。しかし坂本城に向かって小栗栖海道を進むさなかに、落ち武者狩りに遭って命を落としたと伝わります。
勝龍寺城は、かつて光秀の娘・たまと細川忠興が婚礼をあげた城。戦場を離脱して逃げ込んだ光秀は、この城で何を想ったのだろうか
坂本城は秀吉に味方した堀秀政に攻められて落城し、秀満は天守で自刃。光秀の“天下”は一瞬にして終わってしまいました。こうして天下の大罪人といわれるようになった光秀ですが、近年では家臣への心遣いや領民への善政などが評価されてきています。思いやりの心を持つ光秀がなぜ謀反を決意したのか、解明される日がくるといいですね。
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。城郭の専門家が山城の見どころを紹介する『隠れた名城 日本の城を歩く』(山川出版社)や、全国の都市に残る城郭の遺構を紹介する“再発見”街中の名城 −−廃城をゆく7−−』が好評発売中!