2021/07/08
光秀の人生と戦いの舞台を歩く 第5回|丹波攻略のため築かれた城たち【亀山城・福知山城・周山城】
摂津晴門や足利義昭など室町幕府内の複雑な人間ドラマが描かれ、話題となった大河ドラマ『麒麟がくる』。「光秀の人生と戦いの舞台を歩く」では、ドラマの主人公である明智光秀の生涯や参戦した合戦の軌跡をたどり、出来事の背景や舞台となった城を紹介します。第5回は、丹波攻略や支配の拠点として光秀が築いた、亀山城や福知山城が登場。(※2020年12月22日初回公開)
丹波平定後に光秀が築いた福知山城
光秀が丹波攻めで拠点にした城とは
2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。作品終盤では、織田信長と将軍・足利義昭の対立が決定的になるなか、片岡鶴太郎さんの怪演が話題を呼んだ幕臣・摂津晴門(せっつはるかど)が退場し、代わって石橋凌さん演じる甲斐の戦国大名・武田信玄が信長に迫ってきました。
史実では、信長と信玄の直接対決は実現していません。それより前に信玄が病没したためです。信長は信玄の後継者・勝頼を長篠・設楽原の戦いで破り、武田家を追い詰めていきます。こうして東の憂いを除いたのちに、京と隣り合う丹波の平定に着手したのです。
この頃織田家では、羽柴秀吉に中国の毛利攻め、柴田勝家(しばたかついえ)に北越の上杉攻めをさせるというように、重臣に大軍を預けて各地方の敵対勢力を平定させる、「方面軍体制」と呼ばれる軍編成を取っていました。この丹波方面平定の指揮官に任じられたのが光秀です。
本連載では前回、丹波攻めでの光秀の戦いを、光秀に敵対した丹波勢力側の城に注目して追いました。それでは、丹波攻めに向かった光秀のほうはどんな城を築き、拠点としたのでしょうか。国人領主(土着勢力)が割拠する丹波は、簡単に平定できる地域ではありません。そこで光秀は足掛かりとなる拠点の城を築き、さらに丹波平定後も視野に入れて複数の城を築いたのです。
光秀に刃向かった国人の一人・赤井直正(あかいなおまさ)。勇猛な武将で光秀を幾度も苦しめた。上の『絵本太閤記』では討死する描写があるが、史実では病死である
京からの足掛かりに築かれた亀山城
光秀の丹波攻めは2回にわたって行われました。一度目は赤井家が城主を務める黒井城(兵庫県)を攻めたときに、味方についていた八上城主の波多野家に裏切られて形勢不利になり、撤退を余儀なくされています。それから2年後、光秀は二度目の丹波攻めに挑みました。
絶対に負けられないと気を引き締めた光秀は、丹波攻略の拠点として亀山城(京都府)を築きます。京の丹波口から山陰道を西へ向かった地点に位置する荒塚山には以前から砦があり、丹波国人の内藤家が守っていました。光秀はここを攻め取り、砦跡に亀山城を築いたのです。このとき光秀は降伏した内藤家の人々を家臣に迎えるなど、敵に対しても寛容な一面を見せています。
現在、亀山城址は宗教法人「大本」が聖地として所有・管理している。受付を行えば見学は可能だが、かつて天守が建っていた天守台最上部は禁足地であるため立入は厳禁だ
光秀は亀山城で戦略を練りながら、籾井城や笹山城(ともに兵庫県)を攻略して丹波南部をほぼ平定すると、この地域の最終目的である因縁深い八上城(兵庫県)を包囲しました。包囲は1年以上におよび、最終的に八上城は降伏開城。こうして光秀はやっと溜飲を下げたのです。
亀山城の普請は丹波平定後も続いており、光秀は合戦だけでなく丹波支配の拠点としても亀山城を重視したようです。亀山城は江戸時代に入って大きく改修されたため、光秀時代の遺構はほとんど残っていませんが、当時の史料には「惣堀普請」という記述があり、惣構のように大規模な堀に囲まれた城下町があったと考えられます。
丹波平定後も考慮してさらなる築城を行う
京都に近い立地である亀山城は、光秀にとって丹波の“玄関”のような存在です。丹波は現在の京都府から兵庫県にまたがる広範囲の地域なので、“奥の間”のような場所にも拠点があると安心ですよね。そこで光秀は、丹波の北西に位置する横山城(別名・龍ヶ城)を攻め落として改修し、福知山城(京都府)を築きました。横山城は横山家が守っていましたが、城主・横山信房(よこやまのぶふさ)は光秀に攻められたときに切腹したといわれます。
福知山城は江戸時代の城主によって改修の手が加わっているが、天守台など光秀時代とされる遺構も残る
福知山城は、八上城同様に因縁深い黒井城の北30kmほどの近隣に位置する城。黒井城を守る赤井家に大きなプレッシャーを与えたでしょう。ただし横山城と黒井城が落城した時期はとても近いので、光秀にとっての福知山城は黒井城攻城よりも、丹波平定後の領国経営に役立てることを想定して築かれたと考えられます。福知山城も江戸時代に大改修されたため、光秀時代の遺構はほとんど見られませんが、明智藪と呼ばれる洪水を防ぐための堤防跡が残っており、光秀が治水工事に力を入れていたことがわかっています。こうした功績から、今も光秀は福知山の人々から“名君”として慕われています。
城下の由良川に残る明智藪
そして、八上城と黒井城を落として丹波を平定した光秀が、丹波の領国経営を見据えて築城したと考えられているもうひとつの城が周山城(京都府)です。いつごろ築城を開始したのかはっきりわかっていませんが、丹波平定と同年頃と考えられています。丹波の東側を南北に通って京と若狭(現在の福井県)を結ぶ周山街道にアクセスできる要地に築かれており、丹波を経済的にも発展させようという光秀の意気込みが伝わってきます。
周山城は光秀死後に廃城となったため、光秀時代の石垣や曲輪がよく残っている
平定戦完了後、丹波は光秀に与えられます。さらに信長は、細川藤孝(ほそかわふじたか)・筒井順慶(つついじゅんけい)・高山右近(たかやまうこん)などの近畿を本拠とする武将たちを与力として光秀の下につけました。これにより、事実上畿内は光秀の支配下となります。正式な職制ではありませんが、近年の研究では畿内の支配者となった光秀を関東管領(東国統治のため派遣された鎌倉公方の補佐役)になぞらえて「近畿管領」と呼ぶこともあります。
『絵本太閤記』に描かれた、信長から丹波を賜った光秀と彼に従う丹波国人の場面
この頃に光秀は「明智光秀家中軍法」という自軍のルールを決めており、この文中で自分を取り立ててくれた信長への感謝を書き綴っています。実は、この軍法が書かれたまさに1年後が本能寺の変当日。順調に手柄を重ねていく光秀に、どんな心境の変化があったのでしょうか。
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。城郭の専門家が山城の見どころを紹介する『隠れた名城 日本の城を歩く』(山川出版社)が好評発売中。また、2020年12月には、“エライ人”を中心とする相関図で日本史が分かる『イラスト図解で速攻理解 時代別 本当にエライ人でわかる日本史』が発売予定。