2021/07/08
光秀の人生と戦いの舞台を歩く 第1回|謎多き光秀の人生とかかわりの深い城たち【光秀の生涯】
2020年・2021年に放送された大河ドラマ『麒麟がくる』。主人公・明智光秀の生涯や参戦した合戦の軌跡をたどり、出来事の背景や舞台となった城を紹介する「光秀の人生と戦いの舞台を歩く」。第1回では、光秀の生涯をおさらいしながら、彼のターニングポイントとなった城を紹介していきます。大河ドラマの復習に、光秀の人生を詳しく知りたい方にピッタリです!(※2020年2月4日初回公開)
本能寺の変で織田信長を討った人物として有名な明智光秀。しかし、彼の出自や生涯には未だ謎が多い(『国史画帖 大和桜』より)
明智光秀ってどんな人物?
「明智光秀」といえば、どんな人物を思い浮かべるでしょうか。一般的には、美濃の斎藤氏や足利将軍家に仕えた後、織田信長の元で頭角を現した人物として知られています。そして、本能寺の変で主君の織田信長を討った「天下の謀反人」というイメージが強いですよね。確かに、光秀が謀反を起こしたことは当時の記録に残されている事実です。しかし光秀は信長に厚く信頼されており、その期待に応える活躍をしている点から、本来は優れた忠臣だったことがうかがえます。
明智光秀像(本徳寺蔵)。美濃出身で齋藤家に仕えていたとされるが、織田家に仕えるまでの前半生には謎が多い
それではなぜ、光秀は謀反を起こしたのか――それは現在も謎のままです。実は光秀は、日本史上の重大事件を起こした人物のわりに謎が多く、信長に仕えるまでの前半生はなにをしていたのか詳しくわかっていません。まず、出身地についても現在の岐阜県可児(かに)市、大垣市、さらに滋賀県多賀市など諸説あります。生年も確定しておらず、一般的に知られる享禄元年(1528)説の他、永正13年(1516)や天文3年(1534)説などが唱えられているのです。
現在最有力視されている出身地は可児市で、この地の明智城で誕生し、成長して城主に就任したといわれます。ところが、かつての岐阜県に位置する美濃を支配していた斎藤家が父子で対立し、光秀が味方した父・道三が敗れてしまったため、光秀は息子・義龍に攻め込まれて明智城を追われ、放浪の旅に出たと伝わります。そして現在の福井県である越前に流れ着き、この地を支配する朝倉義景に仕えたとされますが、それがいつ頃のことかもよくわかっていません。
信長配下で最初の城持ち大名
光秀の越前滞在時代に、京では室町幕府将軍・足利義輝が戦国の梟雄(きょうゆう)・松永久秀らに弑殺されるという大事件が起きました。そして義輝の弟・足利義昭が、久秀の手を逃れて越前へと亡命してきます。このとき光秀は義景に対し、義昭を奉じて京入りして天下に名を上げるべきと進言したようです。しかし義景が消極的だったため光秀は失望し、当時破竹の勢いで成長を遂げていた信長に主君替えしたと考えられています。
一乗谷城の復元武家屋敷。光秀もこのどこかに住んでいたのだろうか?
信長とともに義昭を奉じて京入りした光秀は、はじめ信長と義昭の仲介役を務めました。しかし将軍に就任した義昭とその権威を利用する信長が仲違いすると、義昭を見限って信長一筋の家臣になります。享禄元年説が正しいとすれば、光秀はこの頃すでに40代。当時の感覚では高齢の部類に入る歳ですが、ここから光秀はめきめきと頭角を現すのです。義景とその盟友・浅井長政が組んだ朝倉・浅井連合軍との戦いや、比叡山焼き討ちなどで武功を挙げ、信長から恩賞として与えられた近江滋賀の地に居城となる坂本城を築きました。光秀は信長家臣団で最初の城持ち大名になるという快挙を成し遂げたのです。
壮大な天守と石垣を備え、安土城に次ぐ規模を誇ったとされる坂本城だが、大津城の築城により廃城となった
また光秀は行政官としても信長に信頼されており、重臣の村井貞勝(むらいさだかつ)とふたりで京都の行政を担当する「両代官」に任命されて寺社の領地の管理などを行いました。一方で、領地の滋賀でも村の境界の裁判を行うなど、精力的に活動したようです。
戦略的に城を活用した光秀
信長と義昭の仲違いは、敗れた義昭が京を追放されることで決着しました。すると現在の京都府と兵庫県の一部である丹波は、将軍の領地が多いことから義昭を支持する領主も多かったため、信長派と義昭派に分かれてもめるようになります。この平定戦となる丹波攻めの総指揮官を信長から任されたのが光秀でした。
一度は八上城主・波多野秀治(はたのひではる)の裏切りによって退却した光秀ですが、戦略の拠点として八上城(兵庫県)の東に亀山城(京都府)を築き、再戦で勝利します。さらに福知山城(京都府)などを築城、攻め落とした黒井城(兵庫県)などを改修して丹波攻めを続け、約4年をかけて平定に成功しました。信長はこの功績を絶賛し、丹波の領有を認めます。政治の中心地である京の防御壁となる丹波を任せたのですから、信長がどれだけ光秀を信頼していたかがわかりますよね。
八上城は波多野氏滅亡後も使用されたが、篠山城が完成すると廃城となる。本丸には波多野秀治の顕彰碑が立つ
こののち、光秀は信長の軍事力を天下に誇示する軍事パレード・京都御馬揃えを総責任者として成功させ、また信長の高評価を得ました。光秀も一族への教訓をまとめた『明智家法』で「明智のものは信長様への恩を忘れないように」という内容を書き残しており、光秀と信長は強い絆で結ばれていたはずなのですが…。この京都御馬揃えの翌年に、本能寺の変が起きるのです。
本連載ではこのミステリアスな光秀の人生を、城とのかかわりとともに追っていきます。光秀の城は遺構がほとんど残っていないものも多いですが、信長の城郭政策に連動していたと考えられる点もあり、光秀と信長の思惑を考察する切り口のひとつとなるでしょう。
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、『図解でわかる 日本の名城』(ぴあ株式会社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。
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