光秀の人生と戦いの舞台を歩く 第2回|光秀の出生地と若き日の活躍【明智城・田中城など】

2020年・2021年の放送以降、登場人物の描き方や鮮やかな色彩などが話題となっている大河ドラマ『麒麟がくる』。「光秀の人生と戦いの舞台を歩く」では、主人公である明智光秀の生涯や参戦した合戦の軌跡をたどり、出来事の背景や舞台となった城を紹介します。第2回は、光秀の出身地の謎や若き日の活動に迫ります!(※2020年4月14日初回公開)



明智城、長山城
光秀出生地の候補地である岐阜県可児市の明智(長山)城からの眺望

光秀が誕生したのは何城なのか

2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。作品では主人公・明智光秀の幼少期は描かず、はじめから主演の長谷川博己さんが光秀を演じていました。また、初回の時点ですでに光秀の父は亡くなっており、光秀は西村まさ彦さん演じる叔父の光安とともに、本木雅弘さん演じる美濃(現在の岐阜県)の戦国大名・斎藤道三に仕えていました。

これらの設定は、現状での定説を取っているといえるでしょう。しかし織田信長に仕える以前の光秀が何をしていたのかについては不明点が多く、実は父が誰なのかもはっきりしていません。このため、幼少期は飛ばしたのかもしれませんね。

明智光秀、家系図
光秀の出自には諸説あるが、『麒麟がくる』では土岐氏支流の血を引く明智光綱の子としている

不明点が多いのは城も同様です。ドラマでの光秀は「美濃の明智城」を本拠地としていますが、この明智城にはいくつかの候補があります。現在最も有力視されているのが岐阜県可児(かに)市瀬田にある長山城とも呼ばれる明智城です。また、可児市御嵩(みたけ)町には顔戸(ごうど)城とも呼ばれる明智城がありました。さらに、恵那市明智町にも明知城という城があったのです。

明智城、本丸
明智(長山)城の本丸。城址碑や城の歴史を記した案内板が立っている

恵那市、明知城
岐阜県恵那市の明知城。明知遠山氏の居城で、城付近に建つ落合砦には光秀の出生伝承が残っている

瀬田の明智城は緩やかな尾根に建つ山城だったようで、その麓には「大屋敷」、「東屋敷」、「西屋敷」というような地名が残っています。これは麓に普段の居館があり、山に後詰めの城を持っていた痕跡と考えられます。しかもこの明智城は光秀の祖先が領地を構えたといわれる明智荘に位置していたため、光秀が誕生した城である可能性が高いのです。

明智城、天龍寺
明智(長山)城の麓にある天龍寺には、明智一族の供養塔や光秀の位牌が残っている

美濃を追われ越前に流れ着く

どこにあったのかは断定できない明智城ですが、弘治2年(1556)9月に落城したという記録が美濃の歴史をまとめた『美濃国諸旧記』などに見られます。そのいきさつは次のようなもの。

道三とその嫡男・義龍(別名・高政。ドラマで演じているのは伊藤英明さん)が対立して合戦へと発展し、長良川の戦いで道三が討死します。このとき光秀と光安は事態を静観したため、敵対の意思ありと判断した義龍が明智城に攻め込んできました。そこで、光安が指揮を執って防戦します。しかし奮戦むなしく敗れて落城、光安は自刃してしまいました。

明智城、斎藤義龍
明智城を落として反対勢力を一掃した後、義龍は内政の安定化に努めるが、永禄4年(1561)に35歳の若さで亡くなった(東京大学史料編纂所蔵・模写)

落城の際、光秀が戦いに参加していたかはわかっていませんが、光安は明智家嫡男の光秀を自分の子どもたちとともに逃がしたといわれます。こうして光秀は流浪の旅への出立を余儀なくされました。光秀がどのようなルートをたどったかには諸説ありますが、最終的には越前(現在の福井県)にたどり着き、この地を治める朝倉義景に仕えたといわれます。

朝倉家が本拠地とした一乗谷(いちじょうだに)は、応仁の乱によって京から避難してきた公家や文化人によって京風文化がもたらされ、「北の京」とも呼ばれる華やかな都市でした。その中心となる一乗谷城(福井県)は日本100名城に選ばれており、一乗谷城と城下町一帯は国の特別史跡に指定されています。

屋敷跡、明智神社
朝倉氏に仕えた光秀は、一乗谷の城下町から少し離れた「東大味」という場所に屋敷を構えていたという。現在、光秀の屋敷跡には明智神社と呼ばれる小さな祠が建っている

光秀が史書にはじめて登場する「田中城の戦い」とは?

さらに近年、光秀が1566年10月ごろに田中城という城に籠城していたという内容を記した「米田家文書」が発見されて注目を集めています。これが史書における光秀の初登場とされます。田中城とは近江(現在の滋賀県)の城で、足利将軍家を支持する勢力の要所でした。

明智光秀、田中城
光秀が籠城したとされる田中城。「米田家文書」によると、光秀はこの籠城戦の際に、自分が持つ医学知識を沼田勘解由左衛門尉という人物に伝授したという(びわ湖高島観光協会提供)

この時期の光秀は越前にいるはずなのに、なぜ近江の城に籠城したのでしょうか。正確なところは不明ですが、田中城が近江の戦国大名・浅井長政の攻撃を受け、落城すると困る将軍家の命を受けた可能性が指摘されています。実は、室町幕府の奉公衆という親衛隊のような部署には明智家の人物も採用されており、光秀も将軍家と関係のある家柄だった可能性があるのです。

まだ謎が多い田中城の戦いの経緯が解明されれば、光秀と将軍家のかかわりがより詳しくわかるでしょう。それは、光秀が室町幕府の復権をねらって本能寺の変を起こしたという説の是非にもつながるかもしれません。


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な編集制作物に『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『図解でわかる 日本の名城』『小江戸と城下町の歴史さんぽ旅』(ともにぴあ株式会社)、『世界史から読み解く日本史の深層』(辰巳出版)、『ゼロからわかる 英雄・伝説 ヨーロッパ中世〜近世編』(イースト・プレス)「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。