2019/10/28
超入門! お城セミナー 第79回【鑑賞】天守に載っている「しゃちほこ」って何か意味があるの?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、天守の屋根に飾られている鯱鉾(しゃちほこ)について。鯱とはどのような生き物なのか、なぜ城に飾られるようになったのかを解説。日本一有名な鯱鉾、名古屋城金鯱の波乱の生涯もご紹介します!(「鯱」という漢字は、「しゃち」とも「しゃちほこ」とも読みますが、今回の記事では「しゃち」を「鯱」、「しゃちほこ」を「鯱鉾」と表記します)※2019年10月初回公開
金鯱が輝く名古屋城天守。青空に輝く金の鯱鉾と緑青屋根の天守は、名古屋を象徴する風景だ
城を火災から守る“鯱”
名古屋城(愛知県)天守の上に輝き、名古屋のシンボルとして親しまれている金の鯱鉾(しゃちほこ)。名古屋発祥の印鑑メーカー「シャチハタ」の社名の由来になるなど、名古屋市民に愛されている鯱鉾ですが、何のために天守に置かれているか知っていますか? 今回は天守の象徴・鯱鉾の、意外と知られていない歴史や由来について紹介していきましょう。
鯱鉾(鱐・鯱とも)は、想像上の生き物「鯱(しゃち)」の姿をかたどった飾りのこと。シャチというと「海のギャング」ともいわれる、白黒の生き物が思い浮かびますが、全くの別物です(ただし、シャチという名前は鯱が由来といわれています)。空想生物である鯱は、龍(虎とも)の頭を持ち、胴体は魚、体には鋭いトゲが生えているそう。江戸時代に書かれた『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』にその生態が解説されており、鯨すら殺すどう猛な生き物として紹介されています。また、鯱は口から水を吐き、火を消す力があるのだとか。日本は木造建築が多いため、火事は大敵。そのため、寺院や城郭では本堂や天守など重要な建物に火除けの守り神として鯱を飾るようになったのです。
『和漢三才図会』では、小魚しか食べてはいけない鯨が大きな魚を食べないよう監視する役目も持つとされる
鯱を初めて城郭建築に取り入れたのは、近世城郭のはじまりを開いた革命児・織田信長。『信長公記』によると、安土城(滋賀県)の壁には龍や虎に混じって鯱が描かれていたとか。また、城跡からは鯱瓦の破片も見つかっています。その後、信長の跡を継いだ豊臣秀吉が大坂城(大阪府)の天守に金の鯱鉾を飾り、その権威を全国に示すと、彼に従う大名たちも城に鯱鉾を用いるようになるのです。
安土城の鯱瓦(復元)。天守近くの伝米蔵から出土したが、天守に使われていたかは不明だ(滋賀県教育委員会提供)
織豊期(安土桃山時代)の鯱鉾は、すべて瓦製。軽量化のため中は空洞になっていて、そこに木製の芯を組み入れて屋根に取り付けていました。前述の大坂城のように、天下人や有力大名の居城では、瓦に金箔を貼る“金鯱”が用いられていたそう。豊臣政権下で五大老を務めていた、宇喜多家の岡山城(岡山県)や毛利家の広島城(広島県)などからは金箔痕のある鯱瓦が発見されています。しかし、薄い瓦製の鯱鉾はかなり脆かったようで、創建当初から残っている鯱瓦はほとんどありません。
数奇な運命をたどった名古屋城の金鯱
時代が進み、徳川家康が天下普請を行った慶長期になると、金属製の鯱鉾が登場。これは木製の芯に銅や青銅、金などの金属板を大量に貼り付けた高級品で、築城者の財力や権力を誇示する効果があります。また、耐久性の高い素材を使用した金属製の鯱鉾は、長期間使用することができるという利点もありました。
松江城(島根県)の鯱鉾。銅板張木造で、1950年代の修理で現在の鯱鉾に取り替えられるまで現役だった。現在は天守地階で公開されている
そんな、金属製鯱鉾の中でも飛び抜けた輝きを放っていたのが、名古屋城の金鯱です。雌雄一対の鯱鉾に使われたのは、1940枚もの慶長大判。金の総重量は215.3kgで、現在の金の価値(1g=約5600円)に換算すると、約12億560万円にもなります。これほどの金を雨ざらしの天守に飾ってしまうとは…、天下人の権力には恐れ入るばかりです。
現代のように高いビルのない江戸時代、金鯱のきらめきは東海道や美濃路にまで届いていたようで、尾張藩の領民たちは「天下様でもかなわぬものは、金のシャチホコ雨ざらし」ともてはやしたという(2代目歌川広重作『諸国名所百景』より)
しかしこの金鯱、幕末の頃にはすっかり輝きを失ってしまいます。その理由は、尾張藩の財政危機。天災や幕府から課された普請などで財政が傾いていた尾張藩は、赤字補填のために金鯱から金を剥いでいったのです。金鯱改鋳という名の金はぎ取りは江戸時代を通じて3回行われました。その結果、金色に輝いていた鯱鉾の鱗は薄くなり、金の輝きも鈍ってしまったのです。
かつての威光を失いながらも幕末維新を生き抜いた金鯱ですが、その後も受難が続きます。明治初期には尾張藩最後の藩主・徳川慶勝(よしかつ)が城を取り壊し、金鯱を天皇に献上することを提案。陸軍卿・山縣有朋によって城の破却はまぬがれたものの、金鯱は天守から下ろされてしまいます。その後、明治12年(1879)に返還されるまで、名古屋市民は約9年間金鯱不在の城を見上げ続けることになるのです。さらに、明治時代から昭和時代にかけて何度も鱗が盗まれるなど、名古屋城に戻った後も金鯱に安息の日は訪れないのでした。
天守から下ろされた金鯱は、国内外の博覧会に出品されている。雌の鯱鉾は、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会に展示され、世界の注目をあびた(『澳国博覧会参同記要』より)
かつての光が見る影もなくなった金鯱にとどめを刺したのが、太平洋戦争です。空襲が激化した戦争末期、名古屋も他の都市例に漏れず激しい空襲にさらされていました。昭和17年(1942)4月から昭和20年(1945)7月にかけて2500機以上の爆撃機が名古屋に飛来し、死者約7800人、負傷者1万人超えの大きな被害を受けたのです。この空襲で、名古屋城は天守や本丸御殿を焼失。天守に飾られていた鯱鉾も城と運命をともにしたのでした。
天守を炎上させた焼夷弾は、鯱鉾を避難させる作業のために組まれていた足場に引っかかったという(岩田一郎撮影/名古屋空襲を記録する会蔵/名古屋城総合事務所提供)
街のシンボルである名古屋城を失った市民の悲しみは深く、戦後すぐに天守再建の動きが起こります。その声を受けて、名古屋市は天守の再建を開始。焼失から14年後の昭和34年(1959)に、鉄筋コンクリートによる再建天守が完成します。もちろん、天守のシンボルたる金鯱も復元されました。焼失前の鯱鉾と同じ黄金板張木造で、約88kgの金(純金は66kgほど)を使用しています。
大阪造幣局の協力のもと復元された名古屋城の金鯱(名古屋城総合事務所提供)
現在、模擬天守まで含めれば、大坂城、岡山城、清洲城(愛知県)、墨俣城(岐阜県)などで多くの城で金鯱を見ることができます。ちなみに、信長が居城とした城のうち、清洲城、岐阜城(岐阜県)、小牧山城(愛知県)は、鯱鉾が金色。史実に基づかない復元ではありますが、現代人の信長イメージが反映されているようで面白いですね。
破風や屋根の華麗さに隠れ、ついつい見逃しがちな鯱鉾。しかし天守同様、鯱鉾も築城者の思いが詰まったオンリーワンの存在です。城を訪れた際は、ぜひ鯱鉾が載る天守や櫓の一番上まで見上げてみてください。
岡山城の復元天守(2022年3月現在工事中。工事前の写真)。最上階のみならず破風上にも金鯱が載る、豪華な造りである
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。
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