理文先生のお城がっこう 歴史編 第17回 戦乱による山城の発展

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。17回目の今回は、戦乱による山城の発展について理文先生が解説します。

14世紀の半ばから末にかけて50余年間続いた全国的な内乱の南北朝の争乱が収まると、地方の有力な守護(しゅご)(一国の政治と軍事権をまとめ率いた武士です)たちや国人領主(こくじんりょうしゅ)(直接農民たちを支配していた有力者のことです)土豪(どごうそう)(その土地に勢力を持つ豪族のことです)は、平地の居館(きょかん)を築き落ち着くことになります。

武田(たけだ)氏の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(山梨県甲府市)、今川(いまがわ)氏の駿府館(すんぷやかた)(静岡県静岡市)などがその代表例です。いっぽう、有力な守護層(そう)の中には、万が一の事態(じたい)を考えて詰城(つめじろ)を築(きず)くようにもなりました。

近江守護六角氏(ろっかくし)は、それまでの平地の居館であった金剛寺城(こんごうじじょう)(滋賀県近江八幡市)から観音寺城(かんのんじじょう)(滋賀県近江八幡市)へと本拠(ほんきょ)を移しています。かといって山の中に住んだわけではありません。普段は、麓(ふもと)にある居館に住んでいました。

毛利本家を相続(そうぞく)した元就(もとなり)が入城(にゅうじょう)した当事の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)(広島県安芸高田市)も、郡山の東南の一つの低い峰(みね)の上に築かれた小さな山城でした。やはり、普段は山麓(さんろく)の居館に住んでいたのです。このように、普段の生活する居館と、突然(とつぜん)の戦争に備えた詰城を持つようになったのは、有力な守護たちだったのです。

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観音寺城復元イラスト
左下に普段の居館があり、山上に有事に備えた詰城が築かれました。臨時(りんじ)的な城ではなく、石垣を用いた本格的な城だったのです

山城を築く時代の到来(とうらい)

平地の居館に居住していた国人、土豪層がそろって山城(やまじろ)を築くようになったのは、応仁(おうにん)元年(1467)に都を中心に起こった応仁の乱(おうにんのらん)が、全国に影響(えいきょう)を及(およ)ぼして、あちこちで内乱(ないらん)が起こるようになったからです。他の国との戦いになった場合、平地に築いた居館では、守りが薄(うす)くあまり役に立たないのです。そこで、普段生活している居館に対して詰の城(つめのしろ)という守るのに優(すぐ)れて便利な山城が登場してくるわけです。

楠木正成(くすのきまさしげ)が築いた千早城(ちはやじょう)(大阪府千早赤阪村)や赤坂城(あかさかじょう)(大阪府千早赤阪村)という南北朝(なんぼくちょう)時代の山城と大きく違っていたのは、戦いのための臨時的な築城(ちくじょう)ではなく、普段そこで生活をするわけではありませんが、詰城として長く使用するために本格的な城を築き上げたのです。谷や崖(がけ)という自然の地形を生かすだけでなく、山を削(けず)り、土を盛り、戦争になったとしても持ちこたえることができる軍事的な防御施設(ぼうぎょしせつ)を備える城としたのです。

尾根の上や山腹(さんぷく)を削って平らな削平地(さくへいち)(曲輪(くるわ))を設け、斜面(しゃめん)を急斜面に整形(せいけい)して切岸(きりぎし)とし、尾根が続(つづ)く場所や斜面には堀切(ほりきり)竪堀(たてぼり)横堀(よこぼり)で行く手を阻(はば)み、掘った土を積み上げ土塁(どるい)を設けたのです。また、敵が簡単に城内(じょうない)にはいれないように、虎口(こぐち)に工夫が凝らされ、馬出(うまだし)横矢(よこや)が発達しました。こうして、守りを固めた戦国時代の山城が完成していくことになります。

戦国山城の城主(じょうしゅ)は、室町政権(むろまちせいけん)の支配(しはい)を受けることなく、自分の領国をまとめ上げ、家臣(かしん)たちをしっかりと束(たば)ねて、支配(しはい)をまかせた土地から取れる年貢(ねんぐ)の量をお金に換算(かんさん)して、軍事上の役目を命(めい)じました。他から影響を受けない地方独自のやり方によって、国をまとめ支配するようなった実力者は、戦国大名(せんごくだいみょう)と呼ばれました。

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長良川(ながらがわ)越しに見た岐阜城(ぎふじょう)(稲葉山城(いなばやましろ)
標高329mの稲葉山(金華山)山頂を中心に築かれました、齋藤道三(さいとうどうざん)、織田信長(おだのぶなが)の居城で、普段(ふだん)の居館は山麓に築かれていました

様々な形をした山城

山城は、いったいどのようにして築かれたのでしょうか。曲輪が100以上もある大きな城もあれば、たった1つか2つしかない城もあります。そうした多くの山城で共通しているのが、少ない工事で、より効果的な防御(ぼうぎょ)を持った城造(づく)りをめざしたということです。基本は、掘ったり崩したりして出た土は、すべて城内で処理(しょり)することです。邪魔(じゃま)になったからと、斜面に捨(す)てたり、城の外へと運び出したりはしていません。出て来た土は、曲輪を造成(ぞうせい)したり、土塁として積み上げたりして処理したのです。

山城を造る場合は、山のなだらかな部分は掘削(くっさく)して曲輪に、尾根の窪(くぼ)んだ所に堀切を作って尾根筋は遮断(しゃだん)するのが基本です。後は、緩(ゆる)やかな斜面から攻撃(こうげき)されないようにどう工夫を凝(こ)らすかです。横堀(よこぼり)を回す城も有れば、畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)を設ける城もあります。虎口を工夫した城もあります。崖(がけ)や谷、急斜面の場所が、山ごとに異なっているので、その地形に合わせて城も形を変えたのです。

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復元された高根城(たかねじょう)(静岡県浜松市)全景(ぜんけい)
わずか3曲輪で構成された、極めて小規模な山城です。自然の崖地形に堀切や竪堀を設けることで防御を固めています

それでは、山城とはどのくらいの高い山にある城を言うのでしょうか。実は、山城と平山城のしっかりとした区別はありません。標高が400mを越える白旗城(しらはたじょう)(兵庫県上郡町)もあれば、比高(ひこう)50m程度しかない独立丘陵上に広がる箕輪城(みのわじょう)(群馬県高崎市)も山城と呼ばれています。また、諏訪原城(すわはらじょう)(静岡県島田市)のように、東の大井川から見れば比高200mの山城となり、西の牧の原台地(まきのはらだいち)上からは、ほとんど標高(ひょうこう)差が無く平城としか見えない山城すら存在しています。

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諏訪原城復元イラスト
大井川から見れば(画面上)、比高200mの山城ですが、牧之原台地上から見れば(画面下)平地に築かれた平城のように見えます

※イラストはすべて香川元太郎(かがわげんたろう)氏です。


今日ならったお城(しろ)の用語


横堀(よこぼり)
曲輪の防備を固めるために曲輪を廻るように設けられた堀のことです。等高線と平行になるように掘られます。広大な規模を持つ場合が、多く見られます。

畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)
連続空堀群、連続竪堀群とも言います。竪堀を、1条だけでなく連続していくつも並べたもののことです。

切岸きりぎし)
曲輪の斜面のもともとの自然の傾斜を、人工的に加工して登れないようにした斜面のことです。

堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘が続いている場合、それを遮って止めるために設けられた空堀のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士の区切りや、城の境をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。

竪堀(たてぼり)
城に攻め寄せた敵兵の斜面の移動を防ぐために設けられた堀のことです。等高線に対して直角に掘られます。

土塁(どるい)
土を盛って造った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀を掘った残土を盛って造られました。

虎口(こぐち)
城の出入口の総称(そうしょう)です。攻城戦の最前線となるため、簡単に進入できないよう様々な工夫が凝らされていました。一度に多くの人数が侵入できないようにしたのです。

馬出(うまだし)
虎口の外側に、守りを固めるためと出撃(しゅつげき)の拠点(きょてん)とするために置かれた曲輪です。半円形の丸馬出と方形の角馬出とに大きく分けられます。

※は再掲(さいけい)


次回は、「巨大化した戦国山城」です。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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