2019/08/23
理文先生のお城がっこう 歴史編 第16回 城となった寺
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は、寺として建てられたのちに、城として活用された寺について解説します。寺はどのように城になったのでしょうか。時代的な背景(はいけい)などを見ていきましょう。
■理文先生のお城がっこう
前回「第15回 各地に建てられた「守護の館」」はこちら
戦国時代前後に、おもに浄土真宗(じょうどしんしゅう)の寺院を中心に「寺内町(じないまち)」と呼ばれる、他から攻め入れないように守りを固めた宗教(しゅうきょう)的集団の集落ができあがります。中心になる寺は、敵(てき)の攻撃(こうげき)を防ぐのに便利な地に造(つく)られ、土塁(どるい)や石塁(せきるい)などを寺の範囲(はんい)にめぐらしたものもあらわれます。また、南北朝(ちょう)時代と同じように山深い地形に造られていた寺が、再び城のように守りを固めるようにもなります。
寺内町の出現と本願寺
文明3年(1471)、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)などの迫害(はくがい)を受けて京都を追われた本願寺(ほんがんじ)系(けい)浄土真宗(じょうどしんしゅう)第8世の蓮如(れんにょ)は、北陸(ほくりく)での布教(ふきょう)活動の拠点(きょてん)とするため越前国吉崎(福井県あわら市)にある北潟湖(きたがたこ)畔(はん)の吉崎山(よしざきやま)に道場(どうじょう)(後の御坊(ごぼう)(仏教の寺))を構(かま)えました。吉崎道場(よしざきどうじょう)は、堀切(ほりきり)や土塁を持たず、海に突出(とっしゅつ)した丘陵(きゅうりょう)を利用した天然(てんねん)の要害(ようがい)でした。蓮如は、ここで仏の教えを一般(いっぱん)の人々にわかりやすく教えたため、北陸地方だけでなく遠くからも多くの門徒(もんと)(信者のこと)が集まり、坊舎(ぼうしゃ)(寺院内の僧侶の住む家)や、門徒の宿坊(しゅくぼう)(参拝者のための宿泊施設)などが立ち並び、寺内町が出来上がっていきました。
文明6年(1474)、加賀国守護の富樫(とがし)氏の内輪(うちわ)もめが発生し、蓮如も巻き込まれてしまいます。争いを広げないようにと、翌年蓮如は吉崎から立ち去ってしまいます。その後、様々な場所を転々としながら、文明10年(1478)に山科で坊舎の建設を開始します。5年後に山科本願寺(京都市山科区)が完成しました。この山科本願寺は、三重の土塁で囲まれた城のような寺でした。今も残る土塁の規模(きぼ)や門を守るための横矢懸り(かかり)などを見れば、蓮如の時代までさかのぼるとは思えません。天文元年(1532)の「経厚法印日記」(つねあつほういんにっき)(京都青蓮院(しょうれんいん)に所属(しょぞく)した出家(しゅっけ)していない僧侶(そうりょ)で、書家(しょか)として有名な鳥居小路経厚(とりいこうじつねあつ)の書いた日記)に「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」と書かれていることから、この頃には城と呼ばれていたか、城と思われていたのでしょう。
こうしたことから第11世の顕如(けんにょ)の頃に寺を守るために改修(かいしゅう)されたと考えられます。城のように守りを固めた山科本願寺でしたが、日記にあるように天文(てんぶん)元年に六角(ろっかく)氏と法華宗(ほっけしゅう)(天台宗の別名)徒により焼き討(う)ちされ、社坊(しゃぼう)(神社の世話をするために、神社の中、または近くにつくられた寺のこと)ひとつ残さず灰になってしまいました。
山科本願寺推定復元(ふくげん)イラスト(画:香川元太郎(かがわげんたろう))
巨大な土塁と複雑(ふくざつ)な外郭(がいかく)のラインによって守りを固めていました
山科を失った本願寺は、大坂へと移ることになります。天文2年(1533)に本願寺の本山(ほんざん)(中心となる特別な寺)となって、大きく発展していきます。寺を造るために加賀(かが)より「城作り」が呼び寄(よ)せられていますので、城のような構(かま)えをした寺を造ったことがわかります。石山本願寺は、堀や土塁によって囲まれていただけでなく、土塀や柵(さく)なども使われました。戦闘(せんとう)のための装備(そうび)を固めて、より守りやすく攻めにくくし、次第に大きな「寺内町」になっていったのです。やがて「摂州(せっしゅう)第一の名城(めいじょう)」と言われるようになり「石山本願寺城」と呼ばれるようになったのです。強固(きょうこ)な防備(ぼうび)を持つ寺であったため、織田信長(おだのぶなが)との間の争(あらそ)いを10年間にわたって繰り広げることが出来たと言ってもいいでしょう。
城郭化(じょうかくか)された近江(おうみ)の寺院
奈良(なら)時代創建(そうけん)と伝わる弥高寺(やたかでら)(滋賀県米原市)は、伊吹山(いぶきやま)系の標高(ひょうこう)約702mの山の上に造られた山岳寺院(さんがくじいん)(山の奥につくられた寺)で、階段状に100近い坊(ぼう)(ちいさな寺)が置(お)かれていました。地元では、弥高百坊(やたかひゃくぼう)と呼ばれています。上平寺城(じょうへいじじょう)と尾根(おね)を通じてほぼ直接的に繋(つな)がっているため、ここを陣所(じんしょ)(軍隊がしばらくの間とどまる場所)として守護(しゅご)の京極政高(きょうごくまさたか)が利用したことが『船田後記(ふなだこうき)』『今井軍記(いまいぐんき)』に記されています。最も高い場所にある「本坊(ほんぼう)」の周囲には、大規模な土塁が廻(めぐら)され、背後(はいご)には2~3条の尾根筋をさえぎるための堀切(ほりきり)、西側には斜面の移動をさせないための竪堀(たてぼり)が設けられていました。
また、大門(だいもん)と呼ばれる門跡(もんあと)は、門の前に横堀(よこぼり)が巡り、門の中は折れ曲がって枡形(ますがた)のような形をしています。その形だけ見るなら、まさに城と同じような構造をしています。京極氏が、寺を城のように変えたのです。
上平寺城(じょうへいじじょう)より見た弥高寺跡(やたかでらあと)
階段状に見える平坦(へいたん)地が坊の跡になります。広範囲にわたって平坦地が続く様子が見て取れます。上平寺城とは、尾根続きで往来(おうらい)が可能でした
本坊(ほんぼう)東側の土塁(左)/本坊背後の堀切(右)
本坊に設けられた土塁といい、背後の堀切といい、寺というより城の体裁(ていさい)です
寺院を城のようにしたのは、武士が寺を城として利用するということです。反対に戦国大名との争いから寺を守るために、城のように守りを固めた寺も多く見られます。
平安時代に初めて造られた天台(てんだい)密教(みっきょう)の寺院・敏満寺(びんまんじ)は、戦国期に佐々木氏や京極氏と対立し、応仁の乱(おうにんのらん)(1467)の頃から、僧兵(そうへい)(武装した僧侶や僧形の武者)をかかえて軍事施設(ぐんじしせつ)として整備(せいび)されたと言われています。永禄(えいろく)5年(1562)浅井長政(あさいながまさ)は、久徳城(きゅうとくじょう)(滋賀県多賀町)攻(せ)めを思い切って実行に移し、城方に味方した敏満寺も攻め、焼き払ってしまいました。寺の階段のような地形の最も先端(せんたん)にあたる場所の発掘(はっくつ)調査で、虎口(こぐち)を持つ土塁囲みの曲輪(くるわ)が検出(けんしゅつ)され、城のような防御(ぼうぎょ)施設を持った寺院であったことが解(わか)りました。
同じように、琵琶湖(びわこ)の東、鈴鹿(すずか)山脈(さんみゃく)の西側の中腹に位置する金剛輪寺(こんごうりんじ)(滋賀県愛荘町)や百済寺(ひゃくさいじ)(滋賀県東近江市)では、寺域に作られた数百の坊院(ぼういん)を守るための堀切や竪堀、土塁などが築かれていました。中には、石垣(いしがき)で積まれた個所(かしょ)もあり、安土城(あづちじょう)に先行(せんこう)する石垣だと考えられています。寺を守るために、こうした施設を取り入れたと思われますが、これでは寺というより城と呼んだほうが良いのかもしれません。こうした城のように守りを固めた寺は、元亀(げんき)年間(1570~74)の織田信長との間の争いまで使用されたと思われます。
百済寺喜見院南の参道(さんどう)(左)/古式を残す石垣(右)
近江は古くから石積み技術を抱えた寺院勢力(せいりょく)がありました。そのため、観音寺城(かんのんじじょう)のような城が出現したのです。
根来寺の城郭化
永禄4年(1561)頃から、戦乱(せんらん)に備えて根来寺(ねごろじ)(和歌山県岩出市)の周辺一帯は城のように守りが固められました。寺の中心部から西側に1㎞程離れた西坂本には5m程度の堀を、前山には土塁が築かれていました。行人方(ぎょうにんがた)(高野山僧衆の一集団で、日常の雑務に従事した下級の僧侶が中心)の院が集中する蓮華谷川(れんげたにかわ)の左岸(さがん)には 弓矢(ゆみや)・鉄砲(てっぽう)戦用の地下壕(ちかごう)(地下に作られた隠れ家)や物見櫓(ものみやぐら)が設(もう)けられ、本坊には高い石垣までが築(きず)かれていました。キリスト教の宣教師(せんきょうし)のフロイスの『日本史』には、「絢爛豪華(けんらんごうか)(きらびやかに輝き、華やかで美しいさま)な城のようであった」と記録されています。
室町(むろまち)時代末期の最も盛(さか)えた時には、坊舎450(一説には2,700とも)を数え非常に大きな宗教都市を造り上げていました。寺の領地(りょうち)は72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万人を超えるほどの強力な軍事集団までも持っていたのです。また、根来寺の僧によって種子島(たねがしま)から伝来(でんらい)したばかりの火縄銃(ひなわじゅう)一挺が持ち帰られ、これを参考に、鉄砲を自作し僧衆による鉄砲隊が作られました。
織田信長とは石山合戦(いしやまがっせん)に協力するなど友好関係を築いていましたが、信長が本能寺で死去(しきょ)すると、小牧長久手(こまきながくて)合戦(羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦い)において、徳川方に味方をして留守の岸和田城(きしわだじょう)(大阪府岸和田市)を襲(おそ)っただけでなく、南摂津(せっつ)へ攻め入りました。こうした動きに対して秀吉(ひでよし)が、大層怒って雑賀攻め(さいがぜめ)(紀州征伐(きしゅうせいばつ))を招(まね)くこととなったのです。
根来寺は、雑賀荘の鉄砲隊と一緒になって秀吉方に抵抗(ていこう)をしますが、各地で敗(やぶ)れ続けました。天正13年(1585年)、秀吉軍はついに根来寺に到達します。大師堂(だいしどう)(仏堂の呼称のひとつで、大師号をおくられた僧を礼拝(れいはい)の対象(たいしょう)として祀(まつ)るもの)、大塔(だいとう)など数棟(とう)を残して寺は焼け落ちてしまいました。根来寺における戦いでは、寺の人々はほとんど抵抗らしい抵抗をしませんでした。そのため焼き討(う)ちする必要はほとんどなかったはずです。従(したが)って、寺が焼けた原因は、秀吉による焼き討ち、寺衆が自分たちで火をかけた、兵士による放火など多くの説がありますが、本当はどうなのかが解っていません。焼け残った大伝法堂は、秀吉が信長の廟所(びょうしょ)(祖先や貴人の霊を祭った場所)として、京都の船岡山(ふなおかやま)に建立(こんりゅう)する予定であった天正寺(てんしょうじ)の本堂にする為(ため)に解体(かいたい)して持ち去っていきました。しかし、天正寺は建てられることは無く、部材は大坂の中津川(なかつがわ)沿(ぞ)いに持ってきたまま放置(ほうち)されてしまったのです。
根来寺推定復元イラスト(画:香川元太郎)
谷に広がる町の側面(そくめん)を土塁と切岸(きりぎし)という防御線(ぼうぎょせん)によって囲んでいました
今日ならったお城(しろ)の用語
陣所(じんしょ)
軍隊(ぐんたい)が、しばらくの間とどまる場所のことで、陣幕(じんまく)を張ったり、簡易(かんい)的な建物を建てたりすることもありました。
土塁(どるい)※
土を盛って造った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀を掘った残土(ざんど)を盛って造られました。
堀切(ほりきり)※
山城(やましろ)で尾根筋(おねすじ)や小高い丘(おか)が続いている場合、それを遮(さえぎ)って止めるために設けられた空堀のことです。等高線(とうこうせん)に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士の区切りや、城の境(さかい)をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。
竪堀(たてぼり)※
斜面(しゃめん)の移動を防ぐために設けられた堀のことです。等高線に対して直角に掘られます。
桝形(ますがた)※
門の内側や外側に、攻め寄せてくる敵が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗門(こうらいもん)、奥に櫓門(やぐらもん)が造られるようになります。
※は再掲です。
次回は「戦乱による山城の発展」です。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。