2019/08/02
理文先生のお城がっこう 歴史編 第15回 各地に建てられた「守護の館」
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は、各地に建てられた「守護の館」について解説します。中はどのような構造だったのでしょうか。また、各地にはどのような館が建てられたのでしょうか。
■理文先生のお城がっこう
前回「第14回 足利将軍家の館「花の御所」」はこちら
室町(むろまち)時代の守護大名(しゅごだいみょう)のほとんどは、任地(にんち)(幕府から支配をまかせられた土地)へ行くことはまれで、常日頃は都で生活し、地元に住む有力者に支配をまかせていました。応仁元年(1467)、都を中心に応仁・文明(おうにん・ぶんめい)の乱と呼ばれた大きな戦が始まります。
この戦乱(せんらん)は11年間にわたって続き、都は荒(あ)れ果ていつ被害(ひがい)にあうのかもわからないようになると、安全な任地へと移(うつ)り住むようになりました。任地へ住み着いた守護の住まいは「守護所(しゅごしょ)」と呼(よ)ばれ、その住まいは、一町四方(約109m四方)の方形館(ほうけいかん)が基本でした。
国指定史跡(しせき)大内氏館跡の空撮(山口市教育委員会提供)
最盛期(さいせいき)の居館の規模は、東西160m×南北170m以上を誇る巨大な方形館で、内部には将軍邸を似せた建築群(けんちくぐん)が建てられていました
発掘された守護所
全国各地に築かれた守護所の構造(こうぞう)は、ほぼ共通しています。それは、守護たちが「室町将軍の居館(花の御所)」を手本とし、同じ構造をした館を造ったからです。彼らは、なぜ花の御所(ごしょ)と同じような館(やかた)を築(きず)いたのでしょうか。それは、地方に都の将軍御所と同じような住まいを造って、そこに住むことによって、自分は室町将軍家からこの地方の土地と人々を治めるように命じられていることを知らしめる行為(こうい)だったのです。自分の後ろには、室町将軍がついているということを、将軍邸(しょうぐんてい)と同じ住まいとすることで、任地に住む人々に知らせようとしたわけです。
こうした各地に造られた「守護所」は、発掘調査(はっくつちょうさ)の進展(しんてん)で、徐々(じょじょ)にその姿が判明(はんめい)してきています。周防(すおう)(防府市・山口市の一部などの山口県の南側地域)の大内氏の最盛期の居館の規模(きぼ)は、東西160m×南北170m以上を誇る巨大な方形館で、内部には将軍邸を似(に)せた建築群が建てられていました。
館の中の南東部に池泉式(ちせんしき)庭園(池を中心として造られた庭)、北西部に枯山水(かれさんすい)庭園(池などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現した庭)、さらにもう一カ所の庭園があったことも確認(かくにん)されました。館が初めて造(つく)られた頃は、溝(みぞ)と堀(ほり)で囲まれる程度でしたが、15世紀中頃には空堀(からぼり)と土塁(どるい)を新しく造って、守りを固めた館に改造しています。
その後、館の中が狭(せま)くなってくると、北側に隣り合うように築山館(つきやまやかた)(築山御殿)と呼ばれる別邸を築きましたが、ここは居住施設としてだけではなく、迎賓館(げいひんかん)(大切な客人を歓迎し、もてなすための施設)的な役割の場所としても使われていたと考えられています。
整備(せいび)された大内氏館
左は西北隅(すみ)より見た北面土塁と堀跡、右は復元(ふくげん)された館の西門
豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)国(現在のほぼ大分県)守護の大友氏は、初代から22代義統(よしむね)までの約400年間、豊後国を中心に支配(しはい)を続けてきました。
16世紀後半の大友氏の支配した中心地である大友府内町跡の規模は、南北2.1㎞×東西0.7㎞の広さを持っていました。町は、東西5本、南北4本の道で区切られて、そのほぼ真ん中に守護所大友氏の館が築かれていました。館は、時代と共に大きく5度にわたって移(うつり)り替(か)わったことが確認されています。
最後の段階(だんかい)に大規模(だいきぼ)な改修(かいしゅう)が実施(じっし)され、築地塀(ついじべい)で囲(かこ)まれた二町四方(218m四方)の広さとなりました。建物は、使われ方の違(ちが)いによって、礎石建物(そせきたてもの)と掘建柱建物(ほったてばしらたてもの)とに分け、庭園は池泉式庭園で東西67m×南北30mと広大な規模を誇(ほこ)っていたのです。
府内のまちCG(北東から)(大分市教育委員会提供)
府内のまちCG(南から)(大分市教育委員会提供)
甲斐守護職武田家当主が居住する屋敷と政庁(せいちょう)(政治を取り扱う役所のこと)としての働(はたら)きを併(あわ)せ持つ場所だったと考えられています。武田氏時代の館は、「信玄公屋形絵図(しんげんこうやかたえず)・伝来之絵図(でんらいのえず)」によれば、大手(武田館では東側にある門でした)に向かって主殿(しゅでん)(屋敷内の中心となる建物)・本主殿(ほんしゅでん)(武田氏館にしか見られません。主殿と同じような役割が考えられます)・常の御座所(つねのごしょ)(当主が普段生活する御殿)が建(た)ち並(なら)び、泉水(せんすい)(庭の中に造った池)・築山(つきやま)(鑑賞のために人工的に造られた小さな山)が建物群の脇(わき)に造られていました。やはり、花の御所や足利義政(あしかがよしまさ)が築いた東山殿(ひがしやまどの)(今の銀閣寺)と同じような特徴(とくちょう)があったといわれています。
武田氏館の主郭(しゅかく)の南土塁は雄大(ゆうだい)な規模で残っています(左)。右は南西隅から見た館の南の堀跡です
国人領主の館
各地の守護が、将軍邸を手本にした守護所を築くと、下剋上の風潮(げこくじょうのふうちょう)(社会的に身分の低い者が身分の上位の者を実力で倒すような世)の中、守護に代(か)わって権力(けんりょく)を保(たも)ち続け国人(こくじん)と呼ばれる在地領主(ざいちりょうしゅ)(地方に居て土地を実際に支配していた支配者)までもが、守護館の構造(こうぞう)を手本にした居館を築くようになります。岐阜県飛騨市(ぎふけんひだし)の江馬氏下館(えまししもやかた)は、昭和49年(1974)から発掘調査が実施され、建物跡や土塁跡、堀跡、庭園の跡が確認されました。
周囲を堀と土塀(どべい)で囲まれた一町(約109m)四方程(ほど)の大きさを持つ館で、館の内部には会所(かいしょ)・常御殿(つねのごてん)・対屋(たいのや)(別棟で建てた建物)・台所と、会所に面した東西27m×南北12mの形が整わず丸くならない円のような池を持つ庭園跡も確認されています。これらの遺構(いこう)から、やはり花の御所を手本にした館であったと考えられるのです。
国指定史跡(くにしていしせき)江馬氏下館の整備された庭園跡
庭園跡は、復元された会所と庭園のほか、周りを取り囲む土塀・板塀の範囲が国の名勝(めいしょう)に指定されてもいます。会所から眺めるために造られた庭園で、土塀越し左に高原諏訪城(たかはらすわじょう)、右手にかけて北飛騨の山々を望むことができます
今日ならったお城(しろ)の用語
方形館(ほうけいかん)
中世以降(いこう)、武士が日常生活をする場所で、支配する土地の中心となった、四角形(方形)を基本とした館のことです。
空堀(からほり)
城を守るために、曲輪(くるわ)の周りや前面の土を掘って造られた、外側と連絡(れんらく)できないように断(た)ち切った水の無(な)い堀のことです。
土塁(どるい)※
土を盛って造った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀を掘った残土を盛(も)って造られました。
築地塀(ついじべい)※
泥土をつき固めて作った塀のことで、「築地」とも言われています。多くは、瓦(かわら)や板の屋根が設(もう)けられていました。
礎石建物(そせきたてもの)
建造物の柱を支える土台(礎)に石を使用して建てられた建物のことです。城で礎石建物が一般(いっぱん)的に用(もち)いられるようになったのは織田(おだ)・豊臣(とよとみ)政権(せいけん)からになります。
掘建柱建物(ほったてばしらたてもの)
地面に穴を掘りくぼめて礎石を使わないで、そのまま柱(掘立柱)を立て地面を床とした建物のことです。
主殿(しゅでん)
屋敷(やしき)の中で、最(もっと)も中心となる建物のことです。
常御所(つねのごしょ)※
主人が日常的に使用する建物のことです。
国人(こくじん)
中世の国人は、幕府(ばくふ)の支配に従(したが)わないで、地方で小規模な領主(りょうしゅ)となって土地を支配した地頭(じとう)や荘官(しょうかん)(荘園の領主から現地の管理を任せられた人)などの呼(よ)び名です。
土塀(どべい)※
粘土質(ねんどしつ)の土や泥(どろ)に、石灰(せっかい)とフノリに加えて混ぜ合わせて作られた伝統(でんとう)的な塀のことです。
※は再掲
次回は「城となった寺」です。
加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。