【兵庫県のお城】戦から平和へ!西国に睨みを利かせる徳川譜代の城!

兵庫県は、日本100名城の竹田城(朝来市)、篠山城(篠山市)、明石城(明石市)、姫路城(姫路市)、赤穂城(赤穂市)、続日本100名城の出石城(豊岡市)・有子山城(同)、黒井城(丹波市)、洲本城(洲本市)と、世に知られた名城がずらり。それぞれのお城の魅力をご紹介します!

姫路城、日本初、世界文化遺産
日本初の世界文化遺産に選ばれた姫路城

これらの城の中で、築城年代がもっとも古いのは建武2年(1335)の黒井城。次いで16世紀前半の築城である洲本城が続き、天正年間(1573-93)に改修された竹田城を含め、残りの城は安土桃山時代以降に築かれた近世の城です。兵庫県は「播磨国」「但馬国」「淡路国」「摂津国」「丹波国」と令制国時代の5つの国にまたがっており、県内に多くのお城があります。今回はそのうちの8城をご紹介します。

■姫路城(日本100名城)

姫路城、天守、城漆喰総塗龍、現存12天守
現存12天守の1つ、白漆喰総塗籠が美しい姫路城天守

姫路城を近世城郭として整備したのは羽柴秀吉です。秀吉の中国攻略にともない、天正8年(1580)に三層の天守が築かれました。その後、慶長6年(1601)には徳川家康の娘婿・池田輝政(いけだてるまさ)が姫路城主となりました。大天守をふくめ、現在の姫路城の姿は、おおむね彼の時代に築かれています。

姫路城には敵の目をあざむくために仕掛けられたさまざまな工夫があります。大天守の外観は五重ですが、内部は地上六階地下一階。姫路城は螺旋式縄張を採用しており、この形式の縄張を採用しているのは姫路城と江戸城のみです。また、城内には攻撃のための狭間が約1000カ所存在すると言われています。姫路城は美しいだけでなく実戦を強く意識した城です。しかし、姫路城は築城以来、一度も戦塵にまみれることはありませんでした。

所在地:〒670-0012 兵庫県姫路市本町68
アクセス:JR山陽本線「姫路」駅、または、山陽電車「山陽姫路」駅下車、徒歩約20分。
楽しみ方:城跡見学、庭園散策

■竹田城(日本100名城)

竹田城、雲海
雲海に浮かぶ秋の竹田城

竹田城は、古城山(標高353.7m)山頂にある山城です。秋、霧の濃い日には、城跡が雲海に浮かんでいるように見えることから、「天空の城」とも呼ばれています。別名は虎臥(とらふす)城。本丸を中心に、羽を広げたような形で曲輪が展開しています。城跡に残る石垣の遺構は、おおむね築城時のまま完存しているとされ、非常に見応えがあります。

築城の年代は嘉吉年間(1441〜44)。但馬守護山名宗全(やまなそうぜん)が、家臣の太田垣(おおたがき)氏に命じたと伝えられています。この頃の竹田城は土塁づくりの土の城でした。竹田城が現在のような総石垣の城になったのは、天正13年(1585)以降のこと。天正8年(1580)に城主となった赤松広秀(あかまつひろひで)が改修を行いました。しかし、赤松広秀は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に寝返り鳥取城攻めに加わりますが、その際城下町を焼き討ちしたことを咎められ、徳川家康から切腹を命じられ、その生涯を閉じます。彼の死とともに、竹田城も廃城となり、今日まで長い時を過ごすことになりました。

浮所在地:〒669-5252 兵庫県朝来市和田山町竹田字古城山169
アクセス:JR播但線「竹田駅」下車、徒歩約50分。
楽しみ方:城跡見学、ハイキング 

■篠山城(日本100名城)

篠山城、高石垣、桜、本丸
本丸を囲む圧巻の高石垣に桜が映える

篠山城は、慶長14年(1609)に徳川幕府が諸大名を動員して行う「天下普請」によって築かれた城です。普請総奉行は池田輝政、縄張奉行は名手とうたわれた藤堂高虎(とうどうたかとら)が務めました。わずか6カ月という短期間で完成し、この工事には総勢8万人が従事したと言われています。

篠山城は京都や大阪などの上方から山陰、山陽へと通じる交通の要衝に築かれています。豊臣秀吉の死から約10年、大坂夏の陣まで約5年。篠山城は、大坂城の豊臣氏を封じるために造られた城でした。本丸と二の丸はすべて高石垣で囲まれ、さらに外側に三の丸と堀が配置されています。ほかにも虎口を3つの角馬出で固めるなど、防御を重視した城であることがわかります。

篠山城を訪れたら、ぜひ大書院へ。大書院は明治維新後も残された築城時からの建物でした。しかし、昭和19年(1944)に火災で焼失。平成12年(2000)、市民の熱い思いにより、ついに再建が成し遂げられました。

所在地:〒669-2332 兵庫県篠山市北新町2−3
アクセス:JR福知山線「篠山口」駅から下車、神姫グリーンバス「二階町」バス停から徒歩5分。
楽しみ方:城跡見学、大書院見学

■明石城(日本100名城)

明石城、坤櫓、巽櫓、土塀
坤櫓(ひつじさるやぐら)と巽櫓(たつみやぐら)をつなぐ土塀は阪神大震災後に復元整備された

明石城は、元和5年(1619年)に、徳川家康のひ孫、小笠原忠真(おがさわらただざね)が築いた連郭式縄張を持つ平山城です。明石海峡を望む丘陵地に築かれており、自然の地形を利用した巧みな城づくりが行われています。明石城は姫路城同様、西国の大名をおさえるための城でした。彼の義父である姫路城城主、本多忠政(ほんだただまさ)が築城の指導に当たったといわれ、各所にその実力を見て取ることができます。

明石城築城にあたっては、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった周辺の城の部材が流用されていることがわかっています。明石城は、立派な天守台が造られたものの、天守そのものは築かれませんでした。そのため、天守台の南に位置する坤櫓(ひつじさるやぐら)が天守に変わる役割を果たしていたと考えられています。この坤櫓は、昭和57年(1982)の大改修で「伏見城から移築された」という説が裏付けられています。

また、明石城は平成7年(1995)の阪神大震災で大きなダメージを受けました。坤櫓も石垣が崩れ、傾くなどの被害がありました。しかし、大規模な修理工事を行い、被災前の姿を取り戻しました。

所在地:〒673-0847 兵庫県明石市明石公園1-27
アクセス:JR山陽本線「明石」駅、または山陽電鉄本線「山陽明石」駅下車、徒歩5分。
楽しみ方:城跡見学

■赤穂城(日本100名城)

赤穂城、赤穂浪士、浅野長直
赤穂浪士で有名な赤穂城。浅野長直が近世城郭として整備した

赤穂城は、浅野長直(あさのながなお)が築城した平城です。慶安元年(1648)に着手し、寛文元年(1661)に完成しました。近藤正純(こんどうまさずみ)の指導による縄張は甲州流軍学取り入れられたものでした。また、その一部に山鹿流軍学の祖である山鹿素行(やまがそこう)が変更を加えた、という伝承もよく知られています。近年の発掘調査でそれを示唆する遺構も発見されており、赤穂城の縄張は、ますます興味深いものとなっています。千種川の三角州上に築かれた赤穂城は海城としての性格も持ち、船着き場も復元整備されています。

また、赤穂城は、いわゆる「忠臣蔵」のモデルとなった赤穂事件でも有名です。元禄14年(1701)、赤穂藩主浅野長矩(あさのながのり)は江戸城において刃傷事件を起こし、即日切腹、浅野家は断絶となります。この出来事を取り上げたのが「忠臣蔵」の物語です。赤穂城は、四十七士の忠義の心を今に伝え続けています。

所在地:〒678-0235 兵庫県赤穂市上仮屋
アクセス:JR赤穂線「播州赤穂」駅下車、徒歩15分。
楽しみ方:城跡見学

■出石城・有子山城(続日本100名城)

出石城、有子山、ふもと
有子山のふもとに築かれた出石城。有子山城は山の頂上部分にある。

但馬を根拠地とし、室町時代、天下66カ国のうち11カ国を治めていたことから「六分一殿」と呼ばれた山名氏。しかし永禄12年(1569)、羽柴秀吉率いる織田軍の但馬侵攻により、南北朝以来、山名氏が本拠としていた此隅山(このすみやま)城(豊岡市)が落城。天正2年(1574)、山名祐豊(やまなすけとよ)が有子山山頂に有子山城を築き、此隅山城から移りました。しかし、天正8年(1580)、豊臣秀長に攻められ、有子山城も落城。ここに山名氏の栄華も途絶えることとなりました。

その後、文禄4年(1595)に秀吉の従兄である小出吉政が有子山城に入城。慶長9年(1604)、吉政の子、小出吉英の時代に、有子山のふもとにあった山名氏の居館を造成し、現在のような出石城が築かれました。有子山城には石垣や土塁、堀切などが残っています。

天正2年(1574)築城の有子山城と、慶長9年(1604)築城の出石城。この2つの城からは、山城から平城へと変わってゆく城郭の歴史をつぶさに感じることができます。「但馬の小京都」と名高い城下町もぜひ散策を。

所在地:〒668-0214 兵庫県豊岡市出石町内町
アクセス:JR山陰本線「豊岡」駅下車、全但バス「出石」バス停から徒歩5分。
楽しみ方:城跡見学 ハイキング

■黒井城(続日本100名城)

黒井城、雲海、但馬名物
但馬名物の雲海に浮かぶ秋の黒井城

黒井城は、猪ノ口山の山頂部に本丸を配置した山城です。土塁と石垣で本丸の守りを固め、山の稜線部にも複数の砦を配し、山全体を要塞としています。別名は保月(ほげつ)城。現在でも石垣、土塁などの織豊期の遺構を良好な状態で見ることができる点は特筆。

黒井城の築城は建武2年(1335)と古く、赤松貞範(あかまつさだのり)が築城したとされています。天正3年(1575)に始まる明智光秀(あけちみつひで)による丹波平定ではもっとも遅くまで抵抗し、黒井城がようやく落城したのは天正7年(1579)8月のこと。当時の城主、赤井直正(あかいなおまさ)の名は、天下に知れ渡ることとなりました。

また、黒井城は3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の乳母、春日局(かすがのつぼね)の生誕地としてもよく知られています。彼女の父、斎藤利三(さいとうとしみつ)は明智光秀(あけちみつひで)の重臣でした。彼は丹波平定ののち、黒井城主となりましたが、本能寺の変により運命は一変。春日局もまた、運命の渦に巻き込まれてゆくこととなります。

所在地:〒669-4141 兵庫県丹波市春日町黒井
アクセス:JR福知山線「黒井」駅下車、登山口まで徒歩10分。登山口から本丸まで歩約40分。
楽しみ方:城跡見学 ハイキング

■洲本城(続日本100名城)

洲本城、模擬天守、日本最古、鉄筋コンクリート
洲本城の模擬天守は鉄筋コンクリート製のものとしては日本最古

洲本城は、16世紀前半に淡路水軍を率いた安宅(あたぎ)氏によって築かれたとされています。淡路国統治の政治的な中心となった城で、三熊山(標高133m)に築かれた平山城です。別名は三熊(みくま)。石垣、竪堀などの遺構が残り、昭和天皇の即位式を記念して造られた模擬天守があります。山頂の「上の城」と、北側のふもとにある「下の城」を東西の登石垣でつなぎ、防御を高める工夫がなされています。

洲本城は、三好長慶(みよしながよし)の弟、冬康が安宅氏の養子となり、城主を務めていましたが、彼の死後、織田信長の淡路攻めで降伏。その後、城主になった脇坂安治(わきさかやすはる)が、総石垣の堅牢な城に大改修を行ったと言われています。政治の拠点が由良城(洲本市)に移されて以降、洲本城は一時廃城となりますが、再度洲本城へ政治の拠点が移された「由良引け」によって、洲本城は再び淡路国の中心として栄えることになります。

所在地:〒656-0023 兵庫県洲本市小路谷1272-2
アクセス:JR神戸線「三ノ宮」駅から淡路島行き高速バスで約1時間半。「洲本高速バスセンター」下車、徒歩約40分。
楽しみ方:城跡見学、ハイキング

執筆/城びと編集部

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