2018/09/10
関ヶ原の戦い② 石田三成はなぜ敗れたのか
“関ヶ原の戦い”ってなんとなく知っているけど、詳しくはよく分からない…という方のための関ヶ原の戦い入門記事の第2弾。今回は、優勢と思われた西軍・石田三成がなぜ敗れたのか、小和田泰経先生に解説していただきます!
慶長5年(1600年)7月、徳川家康率いる会津攻めの軍勢が、ちょうど上杉氏の領国に入ろうかというまさに絶妙のタイミングで、上方で石田三成が挙兵したとの知らせが下野国(栃木県)の小山にいた家康のもとにもたらされ、家康は会津攻めを中止して上方に引き返します(詳しくは城びとのサイト、「関ヶ原の戦い①関ヶ原の戦いはなぜ起こったのか」を参照)。これ以降、徳川家康に従う軍勢を東軍、石田三成に従う軍勢を西軍といい、両軍は美濃国(岐阜県)の関ヶ原で激突することになりました。
上杉景勝を牽制した徳川方の宇都宮城
小山の陣を引き払った徳川家康は、8月5日、江戸城に戻りますが、すぐに上方へ出陣していったわけではありません。およそ1カ月にわたって、江戸城に引きこもっていました。この間、諸国の大名に対し、味方になることを求める書状をせっせと書き送っていたわけですが、出陣できないのには訳がありました。それは、上杉氏が盟約を結んでいる常陸の佐竹義宣らと通じて、反撃してくることを恐れていたからです。家康は、上杉景勝の押さえとして宇都宮城に軍勢を残していましたが、江戸城を攻撃されることも、想定していたのでしょう。ただし、実際には、東軍についた出羽の最上義光や陸奥の伊達政宗に牽制され、上杉景勝に関東へ侵攻する余力は残されていなかったようです。もし上杉景勝が、家康の背後をうかがい続けていれば、家康は出陣すらおぼつかず、戦況も大きく変わっていたにちがいありません。
石田三成が入城した大垣城
徳川家康が上方における拠点としていた伏見城を8月1日に落とした石田三成は、自ら大垣城に入って美濃国(岐阜県)を押さえると、伊勢国(三重県)にも軍勢を派遣して、制圧を試みます。さらには、尾張国(愛知県)まで進出して、東軍を迎え撃つ戦略であったようです。実際、西軍は福島正則の清須城を押さえようとしました。福島正則は、会津攻めに従軍してはいましたが、豊臣秀吉の姻戚でもあり、東軍から離反するかもしれないと考えたのでしょう。豊臣秀頼の命令として清須城を守っていた留守居に開城を求めますが、福島正則の許可無く開城はできないとして拒絶されてしまいます。結局、西軍は伊勢国の平定に手間取り、尾張国も結局は制圧できませんでした。
美濃に集結した西軍との最前線になった清須城
家康が、江戸城を出陣して上方に向かったのは、9月1日のことでした。そのころ、東軍の先鋒は、清須城に着陣していました。このときの清須城主は、豊臣秀吉の姻戚にあたる福島正則であり、城内には、兵糧30万石が備蓄されていました。家康は、福島正則が西軍に寝返るかもしれないと考えていたのでしょう。上杉景勝の動向を気にかけるだけでなく、福島正則の真意を確認するまで、江戸城から動けなかったのです。その正則が、8月23日、西軍についた織田秀信の岐阜城を攻めたことで安心した家康は、ようやく重い腰をあげたのでした。家康は9月14日、美濃国の赤坂に着き、岡山を本陣とします。三成が入った大垣城を包囲するためでした。
岡山に築かれた徳川家康の本陣
このまま合戦が始まれば、大垣城の攻防戦に終始したはずです。東軍では、大垣城を水攻めにする作戦も練られていました。しかし、家康は、大垣城の包囲を避けたいと考えていたようです。大坂城にいる毛利輝元が豊臣秀頼を奉じて出陣してくれば、豊臣恩顧の大名が、西軍に寝返る可能性もあったからです。そのため、家康は、東軍が関ヶ原を越えて大坂を攻めるという偽の情報を流したといいます。これが事実であったのかはわかりませんが、三成も、東軍が関ヶ原を越えて近江国(滋賀県)に向かうことは想定していたのでしょう。すでに9月3日、大谷吉継が率いる脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保・平塚為広・戸田重政らの軍勢6000余を布陣させていました。また、松尾山城には、小早川秀秋の軍勢1万5000余が入っていました。
関ヶ原の「関」とは、街道において通行人を取り締まる場所のことです。関ヶ原には、古代から不破関という名の関所がおかれていました。関ヶ原は、中山道・北国街道・伊勢街道の分岐点にあたる交通の要衝であり、この関ヶ原を押さえることは、戦略的にも意味のあることだったのです。関ヶ原の周囲は小高い山々に囲まれているため、仮に一帯を西軍が制圧してしまえば、徳川家康率いる東軍は、近江を経由して京都や大坂に進出することはできなくります。
大垣が一望できる南宮山に築かれた毛利秀元の陣
家康が赤坂に着陣したとき、三成は、主力の2万6000余を夜のうちに大垣城から関ヶ原に移動させました。そのころ、大垣と関ヶ原の中間に位置する南宮山には、9月7日、毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・長束正家らが率いる3万余の軍勢が入っていました。関ヶ原に布陣している軍勢と、大垣城を守備する7500余を加えると、西軍は8万4000余の軍勢を集めたことになります。一方、西軍の動きを知った家康も、主力を関ヶ原に移します。このとき関ヶ原に移動した東軍は、家康直属の本隊3万余と、豊臣恩顧の福島正則・黒田長政ら4万4000余、合わせて7万4000余とされます。
午前8時ころ、夜中から降り続いていた雨があがり、霧が晴れました。このとき、家康の家臣井伊直政が西軍宇喜多秀家の陣を銃撃したことにより、合戦の火蓋が切って落とされたといいます。進撃する東軍を西軍は陣地で迎え撃つなど、緒戦は西軍有利で進みました。しかし、西軍のうち、東軍と積極的に戦っていたのは、三成・宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継の軍勢くらいで、その数はせいぜい3万5000ほどでした。そのため、三成は総攻撃を促す狼煙をあげさせますが、松尾山の小早川秀秋や南宮山の吉川広家らは反応しません。というのも、小早川秀秋や吉川広家は、東軍にも通じていたからです。このため、長塚正家や長宗我部盛親も、背後を衝かれる恐れから軍勢を動かせませんでした。
松尾山城から望む関ヶ原
戦線が膠着するなか、徳川家康は、小早川秀秋の陣に向けて鉄砲を撃ちました。このいわゆる「問鉄砲」は、創作された話という意見もありますが、攻撃の合図であったかもしれません。このあと、秀秋は東軍としての旗幟を明らかにし、大谷吉継の陣に総攻撃をかけました。対する大谷吉継は、小早川勢を押し戻すなど善戦しますが、麾下に属していた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の軍勢が、東軍に寝返ってしまってはどうにもなりません。大谷隊は壊滅し、小西隊・宇喜多隊が動揺すると、西軍は総崩れになってしまいました。このあと、東軍は敗走する西軍を追撃し、午後4時ころ、家康からの追撃中止の命令がでたことで、関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わったのです。
笹尾山に築かれた石田三成の陣
緒戦で優勢に戦いを進めていた西軍が、結果的に敗北した大きな原因は、東軍に寝返った武将がいたことで実質的な戦力が減ってしまったことにあります。総勢では東軍を上回る兵力を集めた西軍ですが、小早川秀秋や吉川広家らは、西軍として戦っておりません。もちろん、彼らが東軍に通じていたのは、東軍に勝機があるとふんだからです。もし、西軍が東軍を追い込むようなことになれば、寝返ったかどうかはわかりません。古代中国の兵法書『孫子』には、「よく戦う者は、その勢を険にして、その節は短なり」とあります。勢いに乗じ、かつ、一瞬を逃さないほうが勝つというわけです。勢いを作り出した家康が、その機会を見逃さなかったことで勝利をおさめたということになるでしょう。逆にいえば、三成は勢いに乗じることができず、また、一瞬を逃してしまったことになります。
小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。
著書 『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。
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