関ヶ原の戦い① 関ヶ原の戦いはなぜ起こったのか

慶長5年9月15日は関ヶ原の戦いのあった日。今回は、“関ヶ原の戦い”ってなんとなく知っているけど、詳しくはよく分からない…という方のために、小和田泰経先生に「関ヶ原の戦い」がなぜ起こったのか、解説していただきます!

関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600)9月15日、美濃国(岐阜県)の関ヶ原で起こります。結果的には、わずか1日で決着がついた戦いですが、その発端は、豊臣秀吉の死まで遡ります。結局のところ、関ヶ原の戦いとは、秀吉死後における徳川家康と石田三成による権力争いにほかなりません。ここでは、秀吉の死から両者の衝突に至るまでの経緯を詳しくみていくことにしましょう。

豊臣秀吉の死

大坂城、惣構、遺構
大坂城惣構の遺構

天下人として君臨していた豊臣秀吉は、慶長3年(1598)5月、原因不明の病気にかかり、8月に入ると病状が悪化し、病床に臥すようになりました。そしたなかで、秀吉は、五大老と五奉行に、子の秀頼(ひでより)に対する忠誠を誓約させています。ちなみに、五大老とは、秀頼の後見人として認められた大大名で、徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)の5人を指します。これに対し、五奉行とは豊臣政権の行政実務を担当した吏僚のことで、前田玄以(まえだげんい)・浅野長政(あさのながまさ)・増田長盛(ましたながもり)・石田三成(いしだみつなり)・長束正家(なつかまさいえ)の5人を指します。そして、8月18日、秀吉は伏見城で63歳の生涯を終えました。残された秀頼は、わずか6歳にすぎません。ここに、権力争いがおこることになったのです。

たしかに秀吉は、天下人として日本を統一し、関白として政権を打ち立てました。しかし、その権力が秀吉から子の秀頼にスムーズに移行できたわけではありません。秀吉自身、そのことを知っていたからこそ、五大老や五奉行に秀頼に対する忠誠を誓わせたのでしょう。もっとも、五奉行は秀吉の直臣ですから、その忠誠心を疑ってはいなかったにちがいありません。疑っていたのは、五大老のほうです。五大老は、盟友であった前田利家を除けば、みな秀吉が服属させた大名であり、いつ謀反をおこしてもおかしくない存在でした。なかでも家康は、秀吉の主君であった織田信長と同盟をしていた大名であり、小牧・長久手の戦いでは、実際に秀吉と戦ったこともあります。秀吉との徹底抗戦を不利とみて服属していたにすぎず、心から秀吉に忠誠を誓っていたわけではありません。

そうしたわけなので、秀吉が亡くなるやいなや、家康は動き出します。家康は、秀吉に忠誠を尽くす五奉行の実力者である三成を目の上のたんこぶとみなしていました。そこで、三成を孤立させるべく、三成に反感を持つ福島正則(ふくしままさのり)や加藤清正(かとうきよまさ)らと親しくしようとしたのです。福島正則も加藤清正も、ともに秀吉の親族であり、股肱の臣といっても過言ではありません。しかし、朝鮮出兵に際し、三成の讒言によって不利益をこうむったという鬱積をかかえていました。

それでも、豊臣政権のお目付役でもあった前田利家が存命の間は、両者に睨みをきかせていたので、衝突にはいたりませんでした。しかし、その利家が慶長4年(1599)閏3月3日、病没してしまいます。これによって、政権内の争いは激化していくことになりました。

利家が亡くなった翌日の閏3月4日、早くも大坂では、加藤清正・浅野幸長(あさのよしなが)・福島正則・黒田長政(くろだながまさ)・細川忠興(ほそかわただおき)ら七将が、三成の邸宅に押しかけました。このとき、襲撃を察した三成が同じ五奉行の一人である前田玄以が城番を務める伏見城に逃れたため、七将は伏見にいる家康に三成の討伐を求めたのです。しかし、討伐を求められた家康は、首を縦にふりません。三成ひとりを殺しても、政権をとることはできないと考えていたのでしょう。家康は、三成に対し、政権を安定させるために身をひくよう諭しました。こうして三成は、居城の佐和山城に蟄居することになったのですが、家康の自作自演であった気がしないわけでもありません。まんまと三成を政権から排除することに成功した家康は、伏見城を接収し、さらには秀頼を補佐するためと称して大坂城の西の丸に入りました。それは、政権の実力者になったことを見せつけるものでした。

上杉景勝に謀反の疑い

上杉景勝、神指城、土塁
上杉景勝が築城していた神指城の土塁

ちょうどそのころ、豊臣政権内では、会津の上杉景勝に謀反の疑いがかけられていました。五大老のひとりであった景勝は、秀吉が亡くなる直前の慶長3年正月、本拠の越後国(新潟県)から会津120万石への転封を命じられたばかりだったのです。景勝は、会津若松城の北西3kmの地に新たな居城として神指城の築城を始めていたのですが、それを謀反の証であるとされてしまったのです。家康は、景勝に対し、弁明のために上洛することを求めますが、景勝は素直に応じません。そこで、慶長5年(1600)4月1日、家康が景勝の執政である直江兼続(なおえかねつぐ)に対して問責の書状を送ると、兼続からも反駁した書状が届けられました。「直江状」として知られるこの返書の内容は、築城などは領国支配の一環であり、謀反の訴えは讒言であるとし、また、景勝の上洛については、領国支配に専念しなければならないことと、雪に閉ざされていることにより、実現できないと回答しています。また、謀反が事実でないのに釈明のために上洛すれば、上杉家の誇りに傷がついてしまうので、まずは事実関係を調べるように訴えています。

この「直江状」は、原本、すなわち本物の書状は存在せず、後世に写されたものしか残されていないため、捏造された偽書とみなされることもありますが、こうした内容の書状が家康に届けられたのは間違いないところでしょう。兼続の述べていることは正論であり、家康が景勝を意図的に追い込もうとしていたことがわかります。

兼続からの返書を受け取った家康は、6月6日、大坂城西の丸に諸大名を集め、会津攻めを布告しました。この間、家康は事実関係を調査したわけでもなく、会津攻めは、既定路線であったようです。6月15日、豊臣秀頼が大坂城西の丸を訪れ、家康に対し、金2万両と米2万石を下賜しました。これは、家康が秀頼の承認を得て会津を攻めるという大義名分になりました。つまり、家康は豊臣政権の正規軍を率いて会津に向かったのです。家康には、直属の家臣3000余のほか、福島正則・池田輝政(いけだてるまさ)・山内一豊(やまうちかつとよ)ら諸大名の軍勢5万5000余も加わっていました。こうして、7月2日に江戸城に入った家康は、軍備を整えると7月21日、会津へと出陣していきます。

挙兵した石田三成

石田三成、近江佐和山城
石田三成の居城・近江佐和山城

佐和山城に蟄居していた三成が、家康を討つと称して兵を挙げたのは、ちょうどそのころのことでした。三成は、家康への対抗馬として、五大老ナンバー2の毛利輝元を総大将として大坂城に迎え入れると、7月16日の夜には、家康に従って会津攻めに向かった大名の妻子を人質にして、大坂城に収容しようとしました。大名の妻子は、そのころ大坂城下の屋敷に残されていたのですが、三成は、妻子を人質にとることで諸大名を家康から離反させようとしたのです。しかし、この人質を収容するという作戦は、うまくいきませんでした。

翌7月17日、三成は、増田長盛と長束正家との連署により、「内府ちがひの条々」と題する弾劾状を諸国の大名に送りつけました。「内府」とは内大臣であった家康のことです。内容は、家康が秀吉の遺訓に背いて秀頼をないがしろにしたために挙兵したとし、13か条にわたって家康の罪科を列挙していました。そのうえで、秀吉の恩を忘れていなければ、秀頼への忠節を尽くすため、味方するように訴えたたのです。この「内府ちがひの条々」は、会津攻めに参陣するため大坂に集結していた諸大名にも渡されました。こうして、早くも大坂城には、五大老のひとり宇喜多秀家のほか、小西行長(こにしゆきなが)、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)といった大名が集結しました。その総兵力は、9万5000余におよんだといいます。三成らは、7月19日、まず、家康が上方における拠点としていた伏見城を攻撃しました。

小山評定

小山市役所前、小山評定、碑
小山市役所前の「小山評定」碑

三成が挙兵して伏見城を攻撃したとの知らせは、7月24日のことでした。このとき、会津攻めに向かっていた家康は、下野国(栃木県)の小山城(祇園城)まで来ていましたが、進軍を停止させると、翌7月25日、諸将を小山の陣に集めて評定、すなわち軍議を行っています。この評定において家康は、諸大名に対し、三成の挙兵を伝えるとともに、対応を協議した結果、会津攻めを中止し、上方に引き返すことが決まりました。これが、いわゆる「小山評定」です。この「小山評定」については、同時代の史料に記されていないことから史実ではなかったという見解もありますが、会津攻めは、秀頼の承認を得て始まったものでした。家康の一存で中止することはできません。少なくとも、何らかの形で評定があったのは確かでしょう。

こうして、家康は、一部の軍勢を上杉景勝への押さえとして宇都宮城に残しつつ、本隊は上方に戻させることにしました。こうして、会津攻めを中止して上方に引き返す家康と、上方で挙兵した三成が激突する事態になったのです。

では、その石田三成はなぜ敗れたのか。続きはこちらから。

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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書 『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
   『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
   『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
   『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。


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