2022/08/19
秀吉VS.家康 小牧・長久手の戦いを知る 第5回 羽柴軍の城・砦②(蟹江城と支城、尾張西部の城・砦を中心に)
岩崎城学芸員で歴史講座を数多く担当されている内貴健太さんが、羽柴秀吉と徳川家康の間で勃発した「小牧・長久手の戦い」を解説。第4回に続き、第5回も蟹江城と支城、尾張西部の城・砦を中心に羽柴軍の城・砦をご紹介! 今回で名残惜しくも連載最終回、小牧・長久手の戦いを知る面白さや魅力について触れたまとめも掲載。必読です! 記事中、秀吉側は青色、家康側は赤色で表示します。
【シリーズ一覧】
▶第1回「第1回 戦いの概要」(https://shirobito.jp/article/1417)で、戦いの大まかな流れが分かります!
▶第2回「第2回 織田・徳川連合軍の城・砦①(小牧山城と周辺の砦を中心に)」(https://shirobito.jp/article/1457)で、家康側の本陣あたりをご紹介しています。
▶第3回「第3回 織田・徳川連合軍の城・砦②(長島城と伊勢の城を中心に)」(https://shirobito.jp/article/1504)で、長島城と織田信雄の領国・伊勢における戦いの舞台となった城をご紹介しています。
▶第4回「第4回 羽柴軍の城・砦①(楽田城と周辺の砦を中心に)」(https://shirobito.jp/article/1552)で、秀吉の陣城となった楽田城とその周辺の砦を中心にご紹介しています。
【全体の流れを年表でおさらい ※赤で囲ったところが今回の記事に関連する箇所】
年表制作:内貴健太
天正12年(1584)4月9日の長久手の戦いで大敗した羽柴秀吉は尾張北部からの侵攻を断念。尾張西部の木曽川筋に戦線を拡大し、軍事行動を活発化させました。織田信雄方の諸城を攻めることで、小牧山の徳川家康を誘引したい秀吉でしたが、織田・徳川方はこれに応じませんでした。
その後、秀吉は信雄のいる長島と家康のいる小牧や清須の中間地点に位置していた蟹江に目をつけ、蟹江城(愛知県海部郡)の攻略に乗り出します。秀吉は蟹江城を奪うことで両者の連絡線を分断し、さらに尾張の制海権をも掌握しようとしました。
加賀野井城(岐阜県羽島市下中町)
加賀野井城は尾張西部にある織田信雄方の拠点の一つです。城主・加賀井重望をはじめ信雄方の小坂雄吉らの加勢も加わり、約2千の兵が城を守備していました。しかし、天正12年(1584)5月4日には、羽柴軍によって城が包囲されていたことが分かります。
(五月)四日、庚辰、かゝの江の城羽柴取巻候『家忠日記』※()内は筆者追記
秀吉は加賀野井城を包囲すれば、必ず家康が後詰めとして出てくると予想していましたが、結果的に家康自身が動くことはありませんでした。
加賀野井城ニ究竟之者相籠候間、彼等を於取巻者、必家康後巻可仕儀ニて候間、此口へ引出、及一戦可討果と存(毛利右馬頭宛 天正12年5月9日付羽柴秀吉書状)
加賀井方は降伏を申し出て、城を明け渡す代わりに助命を懇願しますが、秀吉は一人残らず討ち取るよう命じました。凄惨な戦いの末、加賀野井城は5月7日には落城します。
木曽川右岸の堤防近くに城はあったが、洪水や治水工事で遺構は失われたという。現地には水田地帯の中に静かに標柱が佇んでいる
奥城(愛知県一宮市奥町)
加賀野井城と同じく織田信雄方の拠点の一つ。織田信長の家臣であった梶川高盛の居城でした。信長の死後、高盛は信雄に仕え、小牧・長久手の戦い時は信長の弟・中根(織田)信照らとともに城に籠りました。しかし、羽柴軍の激しい攻撃に晒され、加賀野井城に続き、5月9日には奥城も落城してしまいました。
奥城取巻候、悉可責殺処ニ、信長舎弟中根と申仁相籠候、余痛敷候而助命(毛利右馬頭宛 天正12年5月9日付羽柴秀吉書状)
梶川高盛や中根(織田)信照らは生き延びましたが、その他大勢はことごとく討ち取られました。
現地に遺構はないが、一宮市立奥町西保育園の敷地内に大きな石碑が建っている。見学には保育園の許可が必要
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市竹鼻町)
竹ヶ鼻城は小牧・長久手の戦いにおいて水攻めによる攻城戦が展開された城として有名です。この時、不破広綱が城主を務めていました。織田信雄と羽柴秀吉、両者ともに親交があった広綱は双方から味方につくよう誘われたものの、これまでの織田家への恩義から信雄に従いました。
信雄方の加賀野井城や奥城を攻め落とした羽柴軍は、その後竹ヶ鼻城に迫りました。
竹鼻取巻、付城無透間申付候条(宇喜多秀家宛天正12年5月12日羽柴秀吉書状)
羽島市歴史民俗資料館の前には「竹ヶ鼻城本丸之趾」の石碑があるが、竹ヶ鼻城の位置については諸説あり、推測の域を出ない。この石碑は平成の初め頃まで、竹鼻別院から少し北西、名鉄竹鼻線の踏切を越えた辺りにあったという
秀吉は竹ヶ鼻城の北にある小丘(間島太閤山)を本陣とし、城を中心に北の間島から西の本郷をまわって南は江吉良(えぎら)、東を流れる逆川の堤に接続する総延長約4.5kmに及ぶ一夜堤を築きました。
天正14年(1586)以前の木曽川は現在の境川河道と重なり、長良川に合流していたといわれ、秀吉はこの時、木曽川支流で竹ヶ鼻城のすぐ北を流れていた足近川に目をつけました。
羽柴方として参陣していた小早川秀包は水攻めの一部始終を書き残しています。
尾州表遂在陣、無其儀候、先以此表敵城両所(加賀野井城と奥城か)被討果、此刻的場(竹ヶ鼻城か)与申城令取巻、廻三里堤被築上、其間付城十四五ヶ所被申付、両国(尾張と美濃)境之大河(木曽川)被関懸、漸水入候、固屋中者一両日沈候(棚守元行宛天正12年6月2日小早川秀包書状)※()内は筆者追記
それによると、「的場」という城の周囲を羽柴軍が付城・堤で包囲したのち、木曽川の水を引き入れて水攻めが行われ、竹ヶ鼻城の小屋が一両日中で沈んだとしています。
現在、一夜堤の跡地には所々に石碑が建てられている。戦前は家の軒下よりも高い堤であったそうだが、崩されてしまったとのことだ
秀吉が指揮をとった太閤山も今は存在せず、現地には「間島太閤山跡」の石碑が建つのみ。住民の方が伝え聞いている話では、昔は家の裏手に小高い山があったそうだが、耕作地確保のため次第に崩されてしまったという
信雄も水攻めによる籠城はこれ以上無理と判断し、不破広綱に対し、秀吉に降伏して一族や家臣を引き連れて長島まで撤退するよう指示を出しました。
約1カ月に及ぶ籠城戦が繰り広げられた竹ヶ鼻城でしたが、6月10日に無血開城となりました。
(六月)十日、乙卯、竹かはなの城わたし候『家忠日記』※()内は筆者追記
大野城(愛知県愛西市大野町)
大野城は蟹江城の支城として信雄の家臣・佐久間正勝によって築城され、小牧・長久手の戦い時は正勝の家臣、山口重政が守備していました。重政は羽柴方から味方をするよう誘われますが、秀吉への助力を拒みます。
船で大野城に攻め寄せた滝川・九鬼勢に対して、重政は大量の松明を用意し、敵船が城壁まで迫った所を見計らって投げ入れたとも伝わります。
「滝川・九鬼カ大船大宮丸二取乗テ、大野へ押寄ケレハ、城中ヨリ山口兵ヲ出シテ力戦シ、続松(※松明の意)ヲナゲ火矢ヲ射込、九鬼兵船三艘ヲ焼クル」『武家事紀』※()内は筆者追記
九鬼水軍の船は火災で焼失し、九鬼勢の中には川に飛び込む者もいました。重政からの知らせを受けた信雄は、加勢として家臣の梶川秀盛・小坂雄吉らを大野城に向け、信雄自身も自ら兵を率いて、6月16日には大野城に入り、重政の戦功を賞しました。
「信雄此告ヲ聞テ、梶川五左衛門尉秀盛・小坂孫九郎雄吉等ヲ遣シ、山口ヲ援助ス、既ニシテ、信雄大野ノ城ニ来テ、重政ガ軍功ヲ大ニ労フ」『家忠日記増補』
最終的に滝川勢は大野城攻めに失敗、下市場城に撤退します。
現在、田園の中にポツンと大野城址の石碑が建つのみで遺構は残っていない。城の東側には三日月状の大きな池(大膳川:旧名は大野川)がある。かつては城の東を守る天然の堀のような役割を果たしていたのだろう
前田城(名古屋市中川区前田西町)
豊臣政権家では五大老の一人となり、加賀百万石の礎を築きあげた前田利家。その前田氏の本家筋にあたる前田与十郎家は、代々この前田城を居城として周辺を統治していました。小牧・長久手の戦いの時、城主の前田長定は蟹江城の留守を預かっていました。前田城は長定の子・長種が守備していました。
蟹江城が滝川一益らに奪われたことを受け、6月18日、家康はまず石川数正らに蟹江城の支城である前田城と下市場城を同時攻撃させました。
「(六月)十八日 大神君ノ兵石川伯耆守、安部弥一郎及ヒ信雄、兵ヲ発シテ前田ノ城ヲ攻ム。城主前田甚七郎長種暫時是ヲ防クト云ヘトモ、城兵多ク命ヲ損シ疵ヲ被テ利ヲ失フノ間、長種遂二降テ城ヲ遁レ去ル。」『家忠日記増補』※()内は筆者追記
長種も善戦したようですが死傷者を多く出し、ついには城も落城、23日に明け渡されたとあります。
「(六月)廿三日、戊辰、前田城わたし候」『家忠日記』※()内は筆者追記
現在、前田城に城の遺構は残っておらず、正確な位置や規模も不明である。速念寺の本堂は利家の鯰尾兜を模したユニークなデザインとなっている
境内には蟹江城の戦いで討死した前田長定の墓もある
下市場城(愛知県海部郡蟹江町)
蟹江城の戦い時は羽柴方に寝返った前田長定の弟・長俊が守備していました。『武徳編年集成』には、酒井忠次や大須賀康高、榊原康政、山口重政らが下市場城を攻めたと記されています。当時の記録によれば、下市場城の周辺は川が堀の役目を果たし、深田や沼地が広がる天然の要害でした。
織田・徳川の軍勢は葦の根を踏むことで城壁に迫ることができたと記されています。
「酒井左衛門尉忠次・大須賀五郎左衛門康高・榊原小平太康政・岡部弥次郎長盛・山口長次郎重政ヲ先鋒トシテ、尾州下市場ノ城ヲ襲ハシメ玉フ、(略)神君ハ此城後ノ沼、数年葭蘆(※かろ)繁ル故、其根夥シク沼中に蔓ル歟ト、人ヲシテ密二窺シメ玉フ所、果シテ其根殆ント竹椽(※たけえん)ヲ掻タル如ク深泥ノ中歩ム事ヲ労セス」 『武徳編年集成』※編集部追記
下市場城は6月18日の夜8時頃に落城、城主の長俊は討死しました。
「(六月)十九日、甲子、昨日戌刻二下嶋城責崩、敵討捕候」『家忠日記』※()内は筆者追記
「下市場」の地名しか城の名残はない。下市場城の位置や規模など、城の詳細は史書類に一切記されておらず、川底に沈んでしまったのか、そもそも城自体が存在しなかったのかなど、今となっては謎に包まれたままだ
蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)
蟹江城は伊勢湾一帯の水上交通の要衝地にあり、かつては織田信長の家臣・滝川一益の支配下にありました。天正10年(1582)、一益が伊勢に移ると、信雄配下の佐久間正勝が入城、その後も正勝が城主を務めていました。
信雄から萱生(かよう)砦の修築を命じられた正勝は城の留守を家臣の前田長定に預けます。城主不在の最中、旧城主の滝川一益が調略をしかけ、長定が羽柴方に内応します。その後、一益・九鬼嘉隆率いる水軍が数十艘の船で蟹江に向かいました。長定に招き入れられた滝川軍は蟹江城を占拠します。
「(六月)十六日、辛酉、かにへ、下嶋、前田城、滝川調儀にて取候」『家忠日記』※()内は筆者追記
現在、城跡は住宅地となり、蟹江城址公園内には城址碑が建っている。公園から西へ30mほど歩くと、本丸井戸跡がある
城址碑周辺には水路(暗渠)がめぐらされており、それらが堀の名残と考えられている。江戸時代の『蟹江本町村絵図』に見られる「古城堀」(現在は暗渠)や「古城橋」(現在は昇平橋)なども確認することが可能だ
城内では佐久間家と親類関係にあった鈴木重安・重治兄弟が抵抗しました。兄の重安は自身の屋敷に火をつけて狼煙を上げ、清須城にいた家康に蟹江城の異変を知らせたともいわれます。家康は清須城での入浴中に蟹江方面から上がる煙を見て、浴衣姿のまま馬に乗り、蟹江城に向かったとする伝記もあります。
その後、家康・信雄は蟹江に集結、籠城する滝川勢との間で蟹江城の戦いが起こりました。この戦いで家康は家臣の酒井忠次や榊原康政、本多忠勝、大須賀康高、信雄家臣の佐久間正勝、山口重政、丹羽氏次といった諸将を総動員、城を包囲して6月22日に総攻撃を仕掛けました。
城の南側には海門寺口、東側には前田口という門を備えていた。これらの門で繰り広げられた戦いの様子は諸史料にも記されている。「海門寺口」は「海門寺」という名称が公民館に残るのみとなっている
現在、「前田口」周辺は交差点となっており、その面影はない
両軍入り乱れての激しい攻防戦の末、7月3日には織田・徳川方が蟹江城の奪還に成功しました。
「(七月)三日、丙子、かにへ別心人前田与十郎二腹ヲきらせ候て、かにへ城わたし、滝川舟にてのき候」『家忠日記』※()内は筆者追記
長久手の戦いで敗れた秀吉にとって、尾張西部における戦いや蟹江城の戦いはまさに「雪辱戦」ともいえるものでした。木曽川筋では執拗に信雄の諸城を撃破するなど、秀吉の圧勝となりましたが、蟹江城ではすぐに劣勢となり、またしても信雄・家康に敗れるという形で戦いが終わります。その後、尾張北部で小競り合いは起きますが、大きな戦闘には発展しませんでした。10月になると秀吉は再び伊勢に出陣、信雄方の城を落としながら北上します。最終的に、長島に迫った秀吉に信雄が和議を求めたという結末で小牧・長久手の戦いは幕を閉じました。
小牧・長久手の戦いが紹介される際、長久手の戦いが最終局面のような捉え方で竹ヶ鼻城や蟹江城での攻防戦はよく省略されてしまう印象を受けます。長久手の戦い後も両軍は天下分け目の戦いを繰り広げていた、というところに今後さらにスポットライトが当たればいいですね。
「賤ヶ岳の戦いは太閤一代の勝事、蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり」『老人雑話』
連載の最後に
ここまで小牧・長久手の戦いを5回にわたり紹介してきました。小牧・長久手の戦いに関する史料は、書状や軍記物など数多く残されていますが、それぞれの戦いの実態や城・砦の位置、有無など伝承の域を出ないものが多いというのも実情です。
小牧・長久手の戦い後、家康は秀吉に臣従するという結末で、結局どちらが勝ったのか、戦いの全貌を知って曖昧に感じた方もいらっしゃることでしょう。大局的には秀吉の勝ち、局地戦では家康の勝ちといえると思いますが、長久手の戦いなどで家康が秀吉に勝利したことは、その実力を全国に知らしめる絶好の機会となりました。家康が豊臣政権下でも別格の地位を保てた理由はここにあります。
長久手の戦いなど大規模な戦いに注目が置かれますが、忘れてはならないのは、家康が勝利した背景には、例えば戸木城で蒲生軍を食い止めていた木造氏、岡崎別働隊の進軍を知らせた篠木・柏井衆、岩崎城の戦いを起こした丹羽氏など、一連の戦いや出来事が大戦の引き金となっているということです。小牧・長久手の戦いは広範囲に、そして長期間にわたったがゆえに、複雑な様相を呈していますが、その中で家康と秀吉は何を考え、どのように動いたのか、それらがどう結びつき関連しているのかなど、これを明らかにするのが小牧・長久手の戦い研究の魅力の一つでもあります。(その分、ゆかりの城や寺社、伝承などが各地に数えきれないほどあり、整理するのが大変ですが…)
家康と秀吉が知略を尽くし、直接対峙した小牧・長久手の戦い。そんな両雄が戦いを繰り広げた舞台になっていることを地元でも知らない方はまだまだいます。それをぜひ知ってもらい、ゆかりの地全体で小牧・長久手の戦いがより一層盛り上がることを願っています。
今回ご紹介した史料一覧
・『武徳編年集成』
木村高敦(1680〜1742)、江戸幕府の幕臣。徳川家康の一代記を記す。天文11年(1542)~元和2年(1616)までを編年体で記述。8代将軍・徳川吉宗に献上された。
・『武家事紀』
山鹿素行(1622~1685)、江戸中期の儒学者・兵学者。延宝元年(1673)の成立。兵学者という立場から、合戦における戦略や戦術を論評し、城郭についても詳しく記述している。
・『家忠日記』
松平家忠(1555〜1600)、徳川家康に仕えた家忠の日記。天正5年(1577)〜文禄3年(1594)まで、家忠が体験したことを基に記述。日常生活から合戦の様子まで幅広く記されている。
・『家忠日記増補追加』
松平忠冬(1624~1702)、松平家忠の三男・忠一の孫。永正8年(1511)の松平清康の生誕から元和2年(1616)の家康の死までをまとめた徳川家の創業史。祖父・家忠の日記に、他書をもとに追加したもの。
・『老人雑話』
伊藤坦庵(1623~1708)、江戸前期の儒学者・医者。江村専斎(1565~1664)の体験談を坦庵が記録したもの。専斎自ら見聞したことをもとに、信長・秀吉・家康をはじめ、多くの武将の逸話や合戦の状況が記されている。
【シリーズ一覧】
▶第1回 戦いの概要 (https://shirobito.jp/article/1417)
▶第2回 織田・徳川連合軍の城・砦①(小牧山城と周辺の砦を中心に)(https://shirobito.jp/article/1457)
▶第3回 織田・徳川連合軍の城・砦②(長島城と伊勢の城を中心に)(https://shirobito.jp/article/1504)
▶第4回 羽柴軍の城・砦①(楽田城と周辺の砦を中心に)(https://shirobito.jp/article/1552)
執筆・画像提供/内貴 健太(ないき けんた)
専門・研究分野は小牧・長久手の戦いの城・砦、ゆかりの地、伝承など。岩崎城歴史記念館や外部において多数の歴史講座・講演を行う。日本城郭検定1級保持。中日文化センター講師。城址散策(主に東海圏)が趣味。YouTube「こまなが!ちゃんねる」(https://www.youtube.com/watch?v=xAGp3R8gDoo)でも小牧・長久手の戦いを解説。