理文先生のお城がっこう 城歩き編 第47回 城を守る施設(狭間(さま))

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回のテーマは、お城に設けられた「狭間(さま)」について。天守や櫓の壁をよく見ると、いろんな形の小さな穴がありませんか? 実はこれらは「狭間」と言って、お城を守るために大切な役割を果たしていたのです。その役割について、さまざまな狭間の種類や構造を通じて見ていきましょう。


天守や櫓(やぐら)の壁面(へきめん)を見ると、円形・三角形・正方形・長方形などの形をした小さな穴(あな)が開けられているのが見えます。天守などは、壁(かべ)と同じ色をした蓋(ふた)が付いていることが多く、目を凝(こ)らさないと分かりにくいかもしれません。これは、中から鉄砲(てっぽう)や弓矢で攻撃(こうげき)するための施設(しせつ)で、狭間(さま)と呼ばれています。戦闘(せんとう)の際(さい)はここから弓矢や鉄砲などで攻撃したのです。今回は、この狭間の役割(やくわり)と種類や構造(こうぞう)について考えてみましょう。

姫路城大天守、狭間
姫路(ひめじ)城大天守の狭間。蓋がされていますので見にくいですが、赤矢印の四角形がすべて「狭間」になります。各階の下方を中心に数多くの狭間が見られます

弘前城天守、狭間
弘前(ひろさき)城天守の狭間。各階に設けられた縦長(たてなが)の開口部は窓(まど)に見えますが、実はすべて「狭間」になります。この狭間は、外側だけに設(もう)けられ、内側(曲輪(くるわ)側)は破風(はふ)も狭間もなく、採光(さいこう)のための窓のみとなっていました(右側が、建物内部から見た狭間で、横開きの蓋が付いています)

狭間の種類

狭間は、大きく分けると、弓矢を射(い)かけるための「矢狭間(やざま)(弓狭間)」と、鉄砲を撃ちかけるための「鉄砲狭間(てっぽうざま)」の2種類があります。矢狭間は「箭眼(せんがん)」、鉄砲狭間は「銃眼(じゅうがん)」とも言います。これとは別に、大筒(おおづつ)石火矢(いしびや))を放つための大筒狭間(おおづつざま)(大狭間、石火矢狭間)もありましたが、特殊(とくしゅ)な例になります。

園部城櫓門、狭間
明治に築かれた園部城櫓門(やぐらもん)は、2階の櫓の天井が低く使い勝手が悪そうに見えますが、これは、敵の砲撃(ほうげき)の的にならないように櫓部分を低くすると共に、大筒用の狭間を備(そな)えていたためです。赤の矢印部分大筒狭間になります

もう一つ特殊な狭間があります。「笠石銃眼(かさいしじゅうがん)」と呼(よ)ばれる狭間で、江戸城(東京都千代田区)、大坂城(大阪府大阪市)、二条城(京都府京都市)、岡山城(岡山県岡山市)でしか確認(かくにん)されていません。通常(つうじょう)の狭間は土塀(どべい)に設けられていますが、この狭間は土塀ではなく、石垣(いしがき)の一番上にある天端石(てんばいし)を加工して、鉄砲が撃(う)てるように穴を開けています。この施設は「さま石」と記録されており、「石狭間(いしざま)」とも呼ばれています。

笠石銃眼、狭間
「笠石銃眼」を外側から見ると、石垣に小さな穴が開いているようにしか見えません。内側はアガキとしてありますが、狙(ねら)いを定めることは困難(こんなん)です

「矢狭間」と「鉄砲狭間」の違い

野戦(やせん)で戦う時、弓は上に向けて撃つのが普通(ふつう)です。ところが、城の中から撃つ時は、少し下向きに射ることになります。弓に矢を番(つが)えてから目いっぱい弦(げん)を引き、上下に動かして狙いを定めるので、縦長の形をしていることになります。弓は、立ったままの姿勢(しせい)で撃ちますので、床から80~90 ㎝前後の高さを基準(きじゅん)として矢狭間は設けられています。開口部の寸法(すんぽう)は、横幅は約5寸(約15 cm)くらいで、縦はその3倍程度(約15 寸=約45 cm)になる例が多く見られます。

対して、鉄砲狭間は弓矢のように上下に動かさなくても狙いを定めることができますから、形は正方形や三角形、丸型(がた)などがあり、いずれも直径5寸程度になっています。鉄砲は重いため片膝(かたひざ)をついて構(かま)えるので、床面(ゆかめん)からの高さは矢狭間の半分程度(ていど)(約40 cm)の位置にあります。

松江城、狭間
松江城初重の狭間の配置。矢狭間と鉄砲狭間が一間に一つずつ配置されています。矢狭間が高い位置にあり、鉄砲狭間が低い位置に設けられていることも分かります

狭間の作り方

狭間は、厚さが1尺(しゃく)(30.3 ㎝)程(ほど)もある土壁に穴を開けて作られています。壁が完成してから穴を開けることは出来ませんので、あらかじめ板で作った箱のような木枠(きわく)を土壁が塗(ぬ)られる前に組み込(こ)んでおくことになります。木枠は、外側の開口部に比(くら)べ、内側の開口部を倍ほど大きくし、斜(なな)め下方向に向けて配置します。そうすることで、狭(せま)い外側は敵に狙撃(そげき)されにくく、広い内側は弓や鉄砲の放つ方向を変えやすくなるのです。狭間の内部を斜めに作ることをアガキ(足掻(あが))と言います。

土塀、櫓内、アガキ
土塀のアガキと、櫓内のアガキです。土塀に比較(ひかく)し、かなり下向きにアガキを設けていることがよく分かります

狭間の蓋

土塀の狭間と異(こと)なり、天守や櫓に設けられた狭間には、必ず蓋が付いています。円形の狭間が天守や櫓に未使用なのは、円形や三角形をした蓋を付けるのが難(むずか)しいからです。蓋が無いと、狭間から風や雨水が入ってくるだけでなく、鳥や小動物も簡単(かんたん)に侵入してしまいます。それを防(ふせ)ぐために、蓋が付けられたのです。幕末(ばくまつ)になると、天守も老朽化(ろうきゅうか)し、蓋が壊(こわ)れても修理(しゅうり)はされませんでした。そのため、当初から蓋が無かったと考え、解体修理(かいたいしゅうり)後に蓋の無い狭間も見られます。

現存(げんぞん)する狭間の蓋の例を見ておきましょう。姫路(ひめじ)(兵庫県姫路市)では、木枠の外側上部に蝶番(ちょうつがい)を付けて「木製(もくせい)の蓋」を吊り下げています。蓋の内側に鉄製の掛(か)け金が付けてあり、これをつかんで外側に押し上げて蓋を開きます。この蓋を固定するための留め金(丸い輪をした壺金(つぼがね))が2つ(手前と奥(おく)側)あり、奥にあるのは蓋を開いた状態(じょうたい)にしておくためのもので、手前は蓋が開かないように固定しておくためのものです。

松江城天守、付櫓前面、蓋付狭間
松江城天守に接続(せつぞく)する付櫓(つけやぐら)前面の蓋付狭間です。石落(おと)し部分の鉄砲狭間は、蓋が上に上がる構造ですが、初重部分は横に開く蓋となっています

引き戸のように、横に引く蓋も見られます。新式の蓋で、寛永(かんえい)年間(1624~44)頃(ごろ)に登場したと考えられています。狭間の木枠の外側に敷居(しきい)と鴨居(かもい)を付けて、そこに薄(うす)い板を入れた物になります。引き戸になれば、四角形で無くても蓋が付けられますから、三角形や円形の狭間も使えることになったのです。

方形、三角形、狭間
方形の狭間は、四角形の蓋を栓(せん)のように入れる構造ですが、右側の三角形の狭間は引く構造です。蓋を引き、空いた状態が写真の右側になります

狭間の外側を壁で塞(ふさ)いでしまい見えなくした物を「隠狭間(かくしさま)」と言います。外側から見ると狭間の存在(そんざい)は分かりませんが、内側からは木枠があるため狭間だと分かります。彦根(ひこね)(滋賀県彦根市)や丸亀(まるがめ)(香川県丸亀市)天守などで見ることができます。金沢(かなざわ)(石川県金沢市)石川門土塀の隠狭間は、外側は海鼠(なまこ)壁になります。狭間を使用する時は、海鼠壁の壁瓦を割って開口することになります。

大洲城、丸亀城、隠し狭間
丸亀城初重の隠狭間(左)は、壁が薄くなっている四角形の場所に穴を開けて狭間としました。右側は大洲城(愛知県大洲市)の櫓の隠狭間で、円形部分を割って外すと狭間になります

狭間の数と並べ方

天守や櫓の狭間は、通常の場合柱間(はしらま)ごと(1間ごと)に1 ヶ所ずつ設けられています。天守や櫓の1間は、6尺5寸(1.97m)が使用されていますので、約2m間隔で狭間が並(なら)ぶことになります。例外として彦根城のように、1間に2ヶ所設けることもありました。

松本城天守、狭間
松本城(長野県松本市)天守初重の狭間は、鉄砲狭間と矢狭間が交互(こうご)に一間間隔(かんかく)で並んでいます

また、土塀などでは狭間は矢狭間と鉄砲狭間を交互に並べています。これは、強い雨天の場合に鉄砲(火縄(ひなわ)銃)が使用できないことも想定されるからです。ちなみに、矢狭間と鉄砲狭間の比率は、矢狭間1に対して、鉄砲狭間2~5となる例が多く見られます。

伊予松山城、狭間
櫓内部から見た伊予(いよ)松山城の狭間です。1間に2ケ所設けた場所と、1ケ所の所があることがよく分かります

今日ならったお城の用語(※は再掲)

矢狭間(やざま)
天守や櫓、土塀などの内側から、弓矢を射かけるために開けた小窓のことです。狙いを定めやすいように、形は縦長の長方形をしています。「弓狭間」「箭眼(せんがん)」とも言います。

鉄砲狭間(てっぽうざま)
鉄砲専用の狭間で、矢狭間に比較し小さくなっています。形も、円形や三角形、正方形など様々な形が見られます。いずれも直径5寸(約15 cm)程です。「銃眼(じゅうがん)」とも言います。

大筒狭間(おおづつざま)
大筒を放つための狭間ですが、据(す)え置き型の大砲ではなく抱(かか)え大筒か大鉄砲用と考えられます。石火矢狭間、大狭間とも呼ばれています。現存例は少なく、わずかに丸亀城天守、園部城櫓門などで見られる程度です。

石火矢(いしびや)
戦国時代に、ポルトガルから伝来した大砲(フランキ砲)のことです。後に、大砲一般の名称となりました。射手(うちて)が抱えて打つ場合には抱筒(かかえづつ)と言いました。

笠石銃眼(かさいしじゅうがん)
石垣の天端石(てんばいし)(石垣の一番上の石)を加工して穴を開けて鉄砲狭間としたものです。一般に「石狭間」とも呼ばれます。元和年間(1615~24)に開発された狭間で、江戸城、大坂城、二条城、岡山城の4城で使用されています。

足掻き(あがき)
狭間の内部を斜めに作ることを言います。外側を小さくすることで攻撃されにくくし、内側を大きくして攻撃しやすいようにするための工夫です。

次回は「石落しを開ける」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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