戦国時代の甲冑【後編】有名武将たちが着ていた甲冑は?

身を守る実用的な防具でありながら、美しい装飾もされていた「甲冑」。テレビや博物館などで目にすることはあっても、実はよく知らないという方も多いのではないでしょうか。そんな「甲冑」について歴史研究家の小和田泰経先生にわかりやすく解説していただきます! 今回のテーマは、前回に続いて「戦国時代の甲冑」。名だたる戦国武将たちはどのような甲冑をつけていたのでしょうか?

古い様式の甲冑を好んだ戦国武将たち

現在まで伝わる当世具足は、歴史の荒波を乗り越えてきたという意味でも、大変貴重な歴史遺産だと言えます。ここからは、そうした武将の当世具足を時代の変遷からみていきましょう。

古い様式の甲冑を好んだのは毛利元就です。元就は、戦国武将の先駆けであり、もちろん、これには時代の影響がありました。元就の甲冑のうち、毛利博物館に納められている甲冑は、兜が二十八間阿古陀形筋兜(にじゅうはちけんあこだなりすじかぶと)となっています。胴は小札の色を変えながら威した色々威(いろいろおどし)で、しかも胴丸ではなく背中で引き合わせる腹巻となっています。腹巻は室町時代以来の伝統的な胴ですから、元就の甲冑はなお一層古風でした。


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毛利元就

薩摩の島津氏も、古い様式の甲冑を好んだ一族でした。薩摩・大隅・日向のいわゆる三州統一を成し遂げた島津貴久の甲冑は鹿児島神宮に奉納されています。この甲冑は三十間阿古陀形筋兜で、胴は色々威の丸胴です。貴久の子である義弘の甲冑も、遺品は現存していませんが、残された記録からすると色々威の胴丸とみられます。また、関ヶ原の戦いで討ち死にした甥豊久の甲冑と伝わる紺糸威腹巻(こんいとおどしのはらまき)は、その名の通り、胴丸ではなく腹巻でした。

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島津義弘

上杉謙信も、古い様式を好んでいたようです。上杉神社に伝わる甲冑は、色々威腹巻で、小札を色違いに威した腹巻となっています。兜は六十二間筋兜で、前立には飯綱権現(いづなごんげん)があしらわれています。ちなみに、謙信の兜は、しころが二重になっており、これを二重じころとよんでいます。二重じころは上杉家で流行していたようで、上杉家の重臣直江兼続の兜も二重じころで、兜の前立には「愛」の一字があしらわれています。「愛」の意味については定説化されていませんが、軍神として崇敬されていた愛宕権現(あたごごんげん)か愛染明王(あいぜんみょうおう)のいずれかを象徴したものでしょう。

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上杉謙信

上杉謙信の好敵手として知られる武田信玄の甲冑は、残念ながら武田家が滅亡してしまったため、完存していません。ただ、信玄は小田原城(神奈川県)の北条氏を攻めた折り、相模一宮である寒川神社に六十二間筋兜を奉納していました。胴は不明ですが、謙信と同じように色々威の腹巻か胴丸であった可能性が高いです。

ちなみに、信玄の兜といえば「諏訪法性の兜(すわほっしょうのかぶと)」が有名で、獅子の頭をモチーフとした獅噛(しがみ)の前立に白熊の兜蓑をまとった兜を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。ただし、この兜のイメージは、江戸時代から続く歌舞伎の演目「本朝廿四孝」から発生したもので、信玄が実際に用いていた兜とは限りません。「諏訪法性の兜」というからには、諏訪明神の神号を前立に用いていたと考えられます。

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武田信玄

鉄製の甲冑で防御を固めた伊達政宗

こうした古い様式の甲冑に対して、鉄砲が戦場の主要な武器になると、鉄板を多用した当世具足が主流となります。従来の甲冑は、小札と呼ばれる革製の板を糸あるいは革紐で威していました。それでは鉄砲に対する防御という面では、いささか不安な要素もあったわけです。そこで、小札に代わり、鉄板を用いることで鉄砲に対する防御力を高めようとしました。

伊達政宗の甲冑は、まさに鉄板そのもので、胴は5枚の鉄板を蝶番で繋げた五枚胴です。もともとは、小田原北条氏の支配下にあった鎌倉で作られていたもので、地名にちなむ雪ノ下胴としても知られています。のち、仙台藩で改良された五枚胴は、仙台胴と呼ばれ江戸時代にも採用されていました。

胴は従来のものから大きく進化していますが、兜については六十二間筋兜で、古い様式を採用しています。堅牢性を政宗が高く評価していたということですが、ほかの筋兜とは区別がしにくいため、特徴的な三日月の前立(まえだて)を用いていました。

なお、政宗の甲冑は、同様のものがいくつか残されています。武将クラスともなればスペアを用意するのが一般的でしたし、勲功のあった家臣に下賜するため、用意していたとも考えられます。仙台藩主となった伊達家に伝えられた政宗の甲冑は、現在、仙台市博物館に寄贈されています。このほか、政宗の廟所(びょうしょ)である瑞鳳殿(ずいほうでん)からも政宗の甲冑が出土していますが、政宗自身が戦場で着用していたのは、瑞鳳殿に副葬された甲冑ではないでしょうか。


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伊達政宗

戦国時代の覇者・織田信長と豊臣秀吉の甲冑は?

甲冑が格段に進化するようになるのは、織田信長・豊臣秀吉の時代、いわゆる織豊期です。城郭史のなかでも、織豊期はひとつの画期とされ、この時代の特徴を持つ城郭は織豊城郭あるいは織豊系城郭などとよばれています。それは甲冑にも、同じことが言えます。

織田信長・豊臣秀吉が政権を樹立していた時代に当世具足が完成し、畿内から地方へと広がっていったのです。もっとも、地方には地方の事情がありましたから、必ずしも影響を受けたというわけではありませんが、当世具足の様式が全国的に認知されるようになったのは確かです。

織田信長の甲冑は、確実な遺品としては伝わっていませんが、信長の次男信雄が本能寺の焼け跡から見つけたとする六間の突盔兜(とっぱいかぶと)が清須市の総見院に奉納されています。事実とすれば、天正10年(1582)の本能寺の変において、信長が最後までかぶっていた兜ということになります。

焼けているため鉢しか残っていませんが、脇には巨大な角本が残っています。おそらく、水牛の角あるいは鹿の角などをモチーフとした大きな脇立がついていたのでしょう。六間という間数では武将クラスの兜としては不相応なので、兜鉢の上に何か張り懸けで造形されていたものとも考えられます。ちなみに、江戸時代に描かれた長篠合戦図屏風では、信長の兜は南蛮帽の変わり兜として描かれています。


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織田信長

豊臣秀吉の甲冑は何領か伝わっていますが、そのうちの1領が京都市の妙法院に残されている金小札色々威二枚胴具足(きんこざねいろいろおどしにまいどうぐそく)です。兜は桃形兜(ももなりかぶと)で、時代的にもマッチします。この具足の特徴は、何といっても、小具足に至るまで金箔が用いられていることです。大坂城(大阪府)などの瓦に金箔を用いていた秀吉のことですから、甲冑に金箔を用いていても不思議ではありません。むしろ、当然のことのように思います。金箔押の甲冑を着用することで、経済力を見せつけるという意味もあったに違いありません。

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豊臣秀吉

豊臣秀吉の右腕であった前田利家も、金箔押の甲冑を残しています。加賀藩主前田家ゆかりの文物を管理する前田育徳会には、金箔押伊予札白糸威丸胴具足(きんぱくおしいよざねしろいとおどしまるどうぐそく)が伝わっています。この甲冑は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いにおいて、越中富山城(富山県)の佐々成政に攻め込まれた能登末森城(石川県)の奥村永福が城を死守した勲功により、利家から与えられたものとされています。その後、奥村氏の子孫が前田家に献じたため、前田家に残りました。

胴は伊予札とよばれるやや大きめの小札で威された金箔押の丸胴で、兜も金箔押の熨斗烏帽子形兜(のしえぼしなりかぶと)です。熨斗烏帽子形というのは、熨斗のような烏帽子の形をした兜のことです。

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前田利家

このころは、長大な烏帽子形兜が流行していたようで、加藤清正も好んで長烏帽子形の兜を着用していました。文禄元年(1592)から始まる文禄・慶長の役において、清正は銀箔押の長烏帽子形兜をかぶっていたといいます。この長烏帽子形兜は、清正の娘が紀伊藩主徳川頼宣に嫁ぐ際に持参したらしく、近代になって紀州徳川家によって売り立てられ、現在は徳川美術館に収蔵されています。このほか、清正の甲冑は、菩提寺である熊本市の本妙寺にも奉納されています。


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加藤清正 

時代によって変化した徳川家康の甲冑

豊臣秀吉や加藤清正と同じように、徳川家康にも金色の甲冑が残されています。それが現在は静岡市の久能山東照宮に納められている金陀美塗黒糸威二枚胴具足(きんだみぬりくろいとおどしにまいどうぐそく)です。一般的には、「金陀美具足(きんだみぐそく)」として知られています。金陀美塗は金溜塗(きんためぬり)ともいい、漆を塗った上に金粉をまぶしたものです。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家康が着用していたといわれますが、兜は桶狭間の戦いよりもずっと後に考案される日根野頭形兜(ひねのずなりかぶと)です。実際には、豊臣政権のころに作られたものではないでしょうか。

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徳川家康が着用した金陀美具足

家康が天下を取った戦いである慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いや慶長19年(1614)からの大坂の陣では、伊予札黒糸威丸胴具足(いよざねくろいとおどしまるどうぐそく)を着用していたようです。この具足は、小札よりも大きな伊予札を素懸威(すがけおどし)にしたもので、兜は大黒頭巾(だいこくずきん)の変わり兜です。大黒頭巾は、文字通り、大黒天がかぶっている頭巾です。大黒天は、現代では打ち出の小槌に大袋を背負った福の神として知られていますが、もともとはインドの軍神・破壊神でした。家康は、大黒頭巾の兜をかぶることで、自らを大黒天と一体化させようとしていたのかもしれません。この兜には歯朶(しだ)の前立が付属することから、俗に「歯朶具足」と呼ばれており、現在は久能山東照宮に納められています。

実際に、関ヶ原の戦いで家康が「歯朶具足」を着用していたのかどうかについては、江戸時代に記された甲冑師の由緒書にみられるだけなので、史実か否かはわかっていません。ただし、奈良市の漢國神社には家康が「歯朶具足」のスペアを奉納した記録があることから、大坂の陣で着用していたのは事実と考えられます。

なお、この「歯朶具足」は徳川家にとっては縁起がよいということで、江戸城(東京都)における具足開(ぐそくびらき)では家康の「歯朶具足」を飾っていました。そのほか、歴代将軍が「歯朶具足」の写しを作っていることからしても、いかに大切にされていたかがわかるでしょう。

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徳川家康が着用した歯朶具足

四者四様だった徳川四天王の甲冑

家康の重臣である四天王の甲冑も残されています。四天王とは、家康の重臣のうち、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を指しています。四天王とひとくくりにされてはいるものの、酒井忠次は最古参であり、ほかの3人とは親子ほども年齢は離れています。もっとも若いのは井伊直政でした。

酒井忠次の甲冑は、鶴岡藩主となった酒井家ゆかりの文物を管理する致道博物館に納められています。それが色々威胴丸(いろいろおどしどうまる)朱塗黒糸威二枚胴具足(しゅぬりくろいとおどしにまいどうぐそく)です。色々威胴丸は、小札を用いて糸を色違いに威した古風な甲冑で、兜も三十二間阿古陀形筋兜です。主君の家康が三河を統一し、忠次が吉田城主になったころに着用していたものなのでしょう。忠次は、天正3年(1575)の長篠の戦いでは、別動隊を率いて長篠城(愛知県)を包囲する武田軍の砦を陥落させる勲功をあげていますが、このときに着用していたのは、当世具足の朱塗黒糸威二枚胴具足であったと思われます。

本多忠勝の甲冑は、ご子孫が黒糸威二枚胴具足を受け継がれており、岡崎市に寄託されております。この甲冑は、突盔兜に獅噛の前立と鹿角の脇立をつけた造形が特徴的です。獅噛の前立と鹿角の脇立をみれば、味方はもちろん、敵も本多忠勝がいることを否が応でも知ったに違いありません。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたる一言坂の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いで着用していたのも、この黒糸威二枚胴具足だと考えられます。

なお、江戸時代の本多家でも、忠勝の兜を写した甲冑を製作しています。本多家にとっては、徳川四天王として家康を支えた忠勝の兜は、まさに家の象徴そのものであったのでしょう。

榊原康政が着用したとされる甲冑は何領か知られていますが、そのうちの1領である黒糸威二枚胴具足は榊原家に伝わり、現在は東京国立博物館に収蔵されています。兜は三鈷剣(さんこけん)の前立がつく六十二間の筋兜です。この六十二間の筋兜は、関東に特有のものでしたから、徳川家康の関東入国にともなって康政が上野舘林城主になったころ、あつらえたものではないでしょうか。この甲冑の特徴は、這龍(はいりゅう)が蒔絵(まきえ)で施されていることで、あたかも工芸品のような風格をただよわせています。

このほか、榊原康政を祀る上越市の榊神社に奉納されている黒塗桶側五枚胴具足(くろぬりおけがわごまいどうぐそく)も、康政の着用品であったと伝わります。永禄6年(1563)の三河一向一揆の戦いで初陣を飾ったときに着用したといわれていますが、胴は鉄板の五枚胴ですし、兜は鉢巻をしめた頭部をモチーフとした抹頭形兜と呼ばれる変わり兜ですから、このころの甲冑とはなかなか考えにくいところです。康政が着用したのが事実だとすれば、もう少しあとの時代のことになるのではないでしょうか。

井伊直政が着用した甲冑は、現在、彦根藩主井伊家の文物を保管する彦根城博物館に寄贈されています。よく知られているのは、朱塗仏二枚胴具足(しゅぬりほとけにまいどうぐそく)です。胴は、蝶番によって前胴と後胴がつながった仏胴で、兜は越中頭形兜(えっちゅうずなりかぶと)となっており、いずれも朱漆塗です。井伊家は、徳川家康から特別に武具や軍旗を朱色に統一する「赤備え」を許されていました。

なお、このほか直政が着用したとする紺糸威朱塗桶側二枚胴具足(こんいとおどししゅぬりおけがわにまいどうぐそく)もあり、こちらの兜には金箔を押した天衝の脇立がつきます。実際には、子の直孝の甲冑である可能性も否定しきれませんが、いずれにしても、巨大な天衝の脇立は、江戸時代を通じて彦根藩主となった井伊家当主の象徴となりました。当主以外は、天衝の脇立を用いることはできなかったからです。

戦国武将の甲冑の真偽を考証するポイント

以上のように、有名な戦国武将の甲冑をみてきましたが、有名武将が着用したと伝わる甲冑でも、学術的には断定できないことも少なくありません。伝来が不確かな場合は、着用者名に「伝」を付すべきですが、意識的にあるいは無意識的に「伝」と付されていない場合もあるため、注意が必要です。

歴史学では、史料を用いるときに、必ず史料批判を行います。史料に書かれていることをすべて信じるのではなく、信じるに足るものかどうか、あらかじめ客観的に考察する必要があるからです。こうした史料批判の姿勢が、甲冑に対しても欠かせません。

甲冑の場合、まず最初に真偽そのものを確認する必要があります。というのも、甲冑には偽作すなわち偽物も存在するからです。偽作といっても、年代に合わないような真っ赤な偽物であれば容易に排除できますが、年代だけは合っているような甲冑については、綿密な考証により判断しなければなりません。

次に、甲冑の来歴を同時代の史料などから裏付けをとることも重要です。有名武将の甲冑となれば、必ず何らかの来歴が付されていますが、ただし、その来歴が必ずしも正しいとは限りません。江戸時代の史料でも誤っていることがありますし、近代以降に来歴が捏造されていることすらありますので、来歴を無批判に信じるのはあまりにも危険でしょう。

最後に、その甲冑がオリジナルかどうかを調べなければなりません。江戸時代の肖像画や図面をもとに作られた可能性もあるからです。また、オリジナルが焼損したり劣化して破損したため、大幅に修復されることもありました。小札などの部材をもとに、ほとんど新作といっていいほどの修復になったこともあるでしょう。それでも、もとのままの形状に戻されたのであればオリジナルと呼べますが、形状が変わってしまった場合には、もはやオリジナルと呼べません。こうした修復によるオリジナリティーについては、城郭にも同じことが言えます。

城郭と同様に、甲冑も経年劣化は避けられません。城郭については、近年、伝統的な工法を用いる方向で復元・修復が進められています。戦国時代に作られた当世具足であれば、伝統的な技術や材料を用いることで、今後もできる限り戦国時代の姿を残していってほしいと思います。

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執筆およびイラスト監修/小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書 『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
   『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
   『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
   『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

イラスト/鞘ェもん
イラストレーター。「鎧や武具・装束といった中世日本・和のテイストをポップ・フェテッシュに描いています。源平合戦が好きですが、鎧は南北朝時代の腹巻が最近の推しです。」ホームページ)、 Twitter