【意外と知らない甲冑の歴史】弥生時代は木製だった!? 

身を守る実用的な防具でありながら、美しい装飾もされていた「甲冑」。テレビや博物館などで目にすることはよくあっても、実はあまり「甲冑」について知らないという方も多いのではないでしょうか。今回から「甲冑」について3つのテーマで歴史研究家の小和田泰経先生にわかりやすく解説していただきます! 初回のテーマは、「甲冑の歴史」。なんと甲冑の歴史はかなり古く、弥生時代には木製の甲冑が存在していました!

甲冑

戦国武将にとっての「甲冑」とは

武士にとっての甲冑は、現代で言えば、車のようなものでした。武士の仕事場は戦場であり、戦場に着用する甲冑は、必要不可欠だったからです。

甲冑は、時代によって変化してきました。それは、技術的な進歩によるものだけではありません。戦術の変化に対応するため、改良されてきた結果です。そういう意味では、甲冑の歴史は、戦争の歴史でもあったといえるでしょう。

弥生時代にも甲冑があった!?(弥生~奈良時代)

我が国の戦争は、弥生時代に始まりました。この頃の甲冑は木製で、古墳時代になると鉄製の甲冑も出現します。ただ、すべて鉄でできた甲冑は重く、奈良時代には、綿の生地に鉄や革の小さな板を綴じ付けた綿襖甲(めんおうこう)が普及します。この綿襖甲は、唐からもたらされたものでした。

一騎打ちの時代の甲冑「大鎧」(平安~南北朝・室町時代)

甲冑、歴史
【大鎧】左手のことを弓を持つ手という意味で弓手(ゆんで)、右手のことを馬の手綱を持つ手という意味で馬手(めて)と言いました。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、騎馬武者は弓を持って戦ったので、常に左手で敵に対峙することになります。大鎧は弓手の防御力を高めるため、前・後・左側の三方向を「コの字」のように守り、馬手のみ脇楯(わいだて)で守る構造になっています

平安時代に武士が台頭すると、大鎧(おおよろい)が誕生します。大鎧は革の小さな板を組糸などで威して作られました。この頃の戦い方は、まずは馬に乗ったまま矢を射掛け、間合いが詰まったところで組み打ちをするという一騎討ちが基本でした。大鎧は、肩から左右に大袖を吊るし、腰からは4枚の草摺(くさずり)を垂らすなど、馬に乗っての騎射戦に適した形状であったと言えます。保元の乱や平治の乱、そして源平の合戦ともいわれる治承・寿永の乱では、大鎧が武士の正式な甲冑として使われました。

甲冑、歴史
【胴丸】鎌倉時代から南北朝時代にかけて、戦闘は山岳地帯で行われるようにもなりました。そのため、騎馬戦に長けた大鎧ではなく、徒歩での戦いにも有利な胴丸が誕生します。この時代には、弓で戦うことは少なくなり、代わりに大太刀(おおだち)や長刀(薙刀(なぎなた))・槍といった武器が使われます。これらの武器も主に左側で敵に対峙したため、胴丸は左手の防御力を高めるため、右側で合わせる構造になっています

鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱では、山城が戦闘の舞台になりました。騎馬武者などの上級武士は、鎌倉時代と同じように大鎧を着用していましたが、徒歩での戦闘にも有利な胴丸(どうまる)を着用するようになります。胴丸は大鎧よりも着用が容易で、かつ、腰から垂らす草摺の数を8枚くらいにするなど、歩きやすい構造になっていました。

室町時代の応仁・文明の乱は京都の市街戦から始まり、京都に置かれた守護の邸宅が戦闘の舞台になりました。こうした戦いでは大鎧も有用であり、上級武士の間では大鎧と胴丸が併用されています。また、下級武士は、腹部を囲む腹巻や腹部の表面を覆うだけの腹当を着用し、足軽に至っては、甲冑を身につけないこともあったようです。

戦国時代、集団戦においての甲冑「当世具足」(戦国時代)

甲冑、歴史
【当世具足】「当世」とは現代という意味で、「具足」とは全て揃っているという意味です。戦国時代には、戦場における主要な武器が鉄砲や槍となり、殺傷力も高まりました。そのため、全身を守る武具が必要とされたのです。兜と胴といった基本的な部分は大鎧や胴丸と同じですが、このほか、当世具足には袖・佩楯・脛当などが付属しました。この当世具足も、弓手を守るため、胴は右側で合わせます

戦国時代になって鉄砲が武器として使われるようになると、防弾のため鉄板を多用した当世具足(とうせいぐそく)が用いられるようになりました。当世とは現代の意味で、具足とは全て揃っていることを指します。つまり、当世具足とは、この時代における完全防備の甲冑ということになります。当世具足は、従来の胴丸に鉄板を多用したもので、基本的な形状は変わっていません。しかし、兜や胴のほか、肩から腕を守る籠手(こて)、腿を守る佩楯(はいだて)、脛を守る脛当(すねあて)などの防具がすべて備わっていました。だからこそ、具足と言っているわけです。

甲冑、歴史
兜(かぶと)
頭部を守るため、鉄板を用いて作られていました。この兜は、頭の形状に即したもので、頭形(ずなり)兜と呼ばれています。戦国時代には、実戦的な頭形兜に装飾を施した変わり兜も流行しました

面頬(めんぽお)
顔面と喉を保護するための防具です。図のような面頬は、主に頬と顎を保護するもので「半頬(はんぽお)」と呼ばれています。このほか、顔面全体を保護する「総面」や、目から下の鼻や頬・顎を保護する「目の下頬」などの種類がありました

籠手(こて)
大鎧や胴丸に備え付けられていた「袖」とは異なり、肩から手甲にかけて保護する防具となります。重量を押さえるため、手を通す筒状の布地に鉄鎖などを綴じつけていますが、重要な部分は鉄板に代えてあります

佩楯(はいだて)
太腿から膝を保護する防具で、古くは膝鎧(ひざよろい)と呼んでいたものです。布地に革製の板を綴じつけるのが一般的ですが、鎖などを用いたものもあります。紐で腰に固定するとともに、太腿に巻き付けて着用します

脛当(すねあて)
脛の部分を保護する防具です。布地に鉄板や鎖を綴じつけます。なお、騎馬武者の場合は、馬を傷つけないように脛当の内側、すなわち右足なら左下部分、左足なら右下部分を柔らかいなめし革にしています

また江戸時代の初めには、西洋式甲冑の胴を用いた当世具足も作られています。こうした胴を南蛮胴(なんばんどう)と呼んでいますが、一握りの武将には好まれましたが、日本全国に普及はしていません。

当世具足は、完全防備された甲冑でした。ただ、首の周りや腋などにどうしても隙間が生じてしまいます。戦場では、こうした部分が狙われることになったのです。

平和な世の甲冑は「武士の象徴」(江戸時代)

甲冑、歴史
【復古調】平安時代に武士が誕生して以来、武士の正式な甲冑は大鎧でした。そのため、江戸時代には、大鎧の様式を取り入れた甲冑が作られました。これが復古調の甲冑です。泰平の世ということもあり、復古調の甲冑では、合戦での着用は想定されていません。実用よりも権威の象徴としての意味合いが強いため、兜の前立のほか金具などに豪華な装飾が施されています

泰平の世を迎えた江戸時代では、甲冑の重要性は低下し、実戦で着用する機会は無くなりました。そのため、甲冑は武士の象徴として扱われるようになり、儀式などで飾られるにとどまったのです。

男子が元服すると、先立って具足初(ぐそくはじめ)が行われました。元服は、だいたい12歳くらいから16歳ころに行われるもので、元服をもって当時は成人とみなされます。当然、合戦への出陣もするようになります。具足初では、一般的な具足よりも少し小さな子供用の具足が用意されました。これを童具足(わらべぐそく)とよんでいます。

また、各大名の居城では、毎年正月に具足開(ぐそくびらき)が行われました。これは、先祖伝来の甲冑を飾り祝うもので、甲冑の前に鏡餠を供え、11日に甲冑を収納する際、鏡餠を賞味したものです。ちなみに、武家社会では「切る」という言葉を忌避したため、鏡餠も「切る」とは言わず、「開く」と言いました。現在でも鏡開きなどとよばれています。実際、刃物で切らず、槌で叩き割って餠を賞味したといいます。

実戦で甲冑が用いられなくなった江戸時代にあっては、大鎧などを模倣した甲冑が作られるようになり、これを復古調(ふっこちょう)とよんでいます。大鎧を模倣したのは、江戸時代の武士にとって、大鎧こそが「式正(しきしょう)の鎧」、つまりは武士の正装という意識があったためです。もっとも、復古調はあくまでも飾るための甲冑であり、実戦を想定して当世具足も用意されていました。

城内には、城主が自ら着用する甲冑だけでなく、足軽に貸し与える簡易な甲冑も備えられています。足軽が着用する甲冑は、城主の立場からすると貸していた形になるので御貸具足(おかしぐそく)といい、逆に、足軽の立場からすると借りていた立場になるので、御借具足(おかりぐそく)といいます。こうした足軽の甲冑は、城内の武具櫓などに納められており、万が一、敵に攻められることがあれば、足軽に支給されることになっていました。

再び戦乱の世の中へ 甲冑の着方を知らぬ武士も

甲冑は補修を続けていなければ、いざというとき着用に耐えられません。そういう意味でも甲冑は車と同じです。幕末には、天守をはじめとする建造物の補修さえしていない城もありましたから、武具櫓に納められていた甲冑も、定期的に補修されていない場合には、使い物にならなかったこともあったのではないでしょうか。

異国船の来航から戊辰戦争にかけて、武士は再び甲冑を着る必要に迫られました。しかし、甲冑を準備していない武士も多かったようで、甲冑師のもとには注文が殺到したようです。甲冑の着方も知らなかったため、着用法を指南する本まで販売されたことからしても、どれだけ当時の武士が甲冑に縁がなかったかわかるでしょう。そうしたなかで明治維新を迎えた日本では、実戦において甲冑が用いられることはなくなりました。


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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書 『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
   『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
   『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
   『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

イラスト:渡辺 信吾(ウエイド)・監修 小和田泰経

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