理文先生のお城がっこう 城歩き編 第26回 石材の調達と運搬方法

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。26回目の今回は、石垣を作るときについて。どうやって石垣につかう石を用意していたの?どうやって石を割っていたの?



■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第25回 安土城の石垣2」はこちら

石垣(いしがき)を築(きず)くにあたって、まず石材を調達しなければなりませんでした。西日本に石垣の城が多く、東日本に少ない一番の要因(よういん)は、石の産出する場所があるか無いかでした。石材の産出する山は、圧倒的(あっとうてき)に西日本が多かったため、早くから石の利用が盛(さか)んだったのです。

石垣が積まれ始めた頃(ころ)は、城を築く山にあった石材を利用していました。安土城(滋賀県近江八幡市)も、安土山で産出する湖東流紋岩(ことうりゅうもんがん)を利用し、遠い場所から運び込(こ)んだ石材は、ほとんど見られません。豊臣秀吉(とよとみひでよし)が全国を統一(とういつ)すると、石垣の城が全国へと広がっていきました。それでも石材は、基本的(きほんてき)に領国(りょうごく)内で手配することが原則(げんそく)で、領国の外からの運び込むことは認(みと)められませんでした。大名たちは、石垣の石を用意することに大変苦労したのです。

石材の調達方法

戦国時代の石垣造(づく)りの城のほとんどは、石材を城内で調達していました。米子城(鳥取県米子市)には、本丸枡形(ますがた)内部に、割(わ)り残して矢穴(やあな)が残る岩が残っています。また、萩城(山口県萩市)の詰(つ)めの丸にも、同じような石が多数残されています。城内に無くとも領内に石山(石垣に使用する石材を切り出すことのできる岩山のことです)があれば問題はありませんでした。前田家は、金沢城(石川県金沢市)から東に約12㎞離れた戸室山(とむろやま)から、石材を切り出し運び込んでいます。今でも、石を運んだ「石引道(いしびきみち)」が一部残されているだけでなく、石引という地名も残っています。このように多くの大名は、領内で石材を調達するしか方法がありませんでした。他国から、石材を運び込むことは認められていなかったのです。

米子城本丸鉄門枡形、石材、萩城詰の丸
城内に残る使用されなかった石材。矢穴を穿(うが)って割ろうとした石材ですが、何らかの理由で割らずに城内にそのまま残されています。左が米子城本丸鉄門枡形内に残る石材、右は萩城詰の丸に残る石材です

領内に石材を産出する場所が無いと、河原(かわら)や海にある石などを利用したりしたのです。横須賀城(静岡県掛川市)では、領国内に存在(そんざい)するのが小笠山(おがさやま)の玉石だけなので、全国でも珍(めずら)しい玉石積みの石垣となっています。また、古墳(こふん)の石材や墓石(ぼせき)(五輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)等)、庭石、果ては石臼(うす)などまでも石垣の材料として用いられていました。こうして再利用された石材のことを転用石(てんようせき)と言います。

横須賀城、福知山城天守台、石垣
(左)領国内に玉石しか無いため、玉石を利用して積み上げた特異な形状の横須賀城の石垣です
(右)宝篋印塔を転用石として多用した福知山城天守台の石垣です

国内のどこからでも自由に石材を運ぶことが出来たのは、天下普請(てんかぶしん)の城だけです。幕府(ばくふ)から天下普請を命じられた大名の内、自領で石材調達が出来ない大名や、遠国のため運搬(うんぱん)が困難(こんなん)な場合、石切丁場(いしきりちょうば)(石垣に使用する石材を切り出した場所のことです)と呼ばれる石垣用の石材の生産地で石材を用意させ、城まで運ぶことを命じています。代表的な石切丁場をあげておきます。徳川大坂城(大阪市)の石切丁場は、瀬戸内海沿岸(えんがん)部(島も含みます)から東六甲地域に、江戸城(東京都千代田区)の石切丁場は、伊豆半島から小田原周辺地域(ちいき)に広がっていました。

早川石丁場、石材
早川石丁場(神奈川県小田原市)の山に残された石材。江戸城の石垣を築くための石丁場で、至る所に運ばれなかった矢穴を多数開けた石材が残っています

石材の運搬の方法

遠くの石山や石切丁場では、石垣を築き上げるのに便利な大きさに石を大雑把(おおざっぱ)に割って、切り出していきました。石切丁場の巨岩(きょがん)から、石を切り出すには、鉄製(てつせい)の「(鉄製のくさび(V字形または三角形の道具です))」を用い穴(あな)を連続して空け、割っていく方法が用いられています。石垣に残る台形の穴(矢穴)は、くさびを打ち込むための穴で、この穴が残っている石材は、何らかの理由で割るのを止めた石材になります。また、石材に彫(ほ)られた刻印(こくいん)は、石材を切り出す持ち場や石材の所有を示(しめ)すものだと考えられています。

松江城、石材
(左)石材を割るために、矢穴に矢を打ち込んだ状態の石材です。打ち込まれた矢を玄翁(げんのう)などで叩いて割ります
(右)石垣に残された矢穴と刻印(分銅紋)です。松江城に残っています

このようにして切り出された石材は、築城場所まで運びださなくてはいけません。持ち運べる石材は、人夫(にんぷ)が背負子(しょいこ)(荷物を括りつけて背負って運搬するための枠からなる運搬具のことです)等で背負(せお)ったり、もっこ(編み籠(かご))に入れて担(かつ)いだり、神輿(みこし)のように数人で運んだりしました。大きなものになると、転がし丸太や手子木(てこぎ)(梃(てこ)の原理で、石材の下に入れて石を転がす道具です)で運んだのです。さらに巨大な石材になると修羅(しゅら)(重い石材などを運搬するために用いられた木製の大型(おおがた)そりの一種です)に載(の)せ、数十人、数百人で運んだともいわれます。

築城図屏風、ジオラマ
「築城図屏風(名古屋市博物館所蔵)」の築城用の巨石や部材を運搬する庶民の場面をモデルにしたジオラマです。大石を修羅(大型のソリのような台)に載せて運んでいます。修羅の後方で、手子木で「てこの原理」を利用して押し、前方から大勢が力を合わせて綱を引いて巨石を運んだ様子が良くわかります(安土城天主信長の館所蔵)

水上運搬には、船や(いかだ)(木材・竹など浮力を持つ部材をつなぎ合わせ、蔓(つる)などで結びつけ水に浮(う)かべるものです)が利用されました。石材を運ぶための吃水(きっすい)(船が水の上にある際に船体が沈む深さのことです)の浅い特殊(とくしゅ)平田船(ひらたぶね)(和船の一種で、大型の川船として輸送に重要な役割を果たした吃水の浅い細長い船のことです)が利用されたといわれています。筏は、周りに空樽(あきだる)(中に何も入っていない樽のことです)を多量に縛(しば)りつけ浮力(ふりょく)を利用し、大型の船で曳(ひ)いて航行(こうこう)したと考えられています。

城内に運びこまれた石材は、利用する場所ごとに運び入れられ、最後の調整がおこなわれました。巨石や特殊な石を除(のぞ)き、石材は運びやすいように直方体に大まかに加工された状態(じょうたい)で運び込まれています。これをさらに割って、石垣を積むのに便利な大きさにするわけです。割るための加工具は、鑿(のみ)と矢と玄翁(げんのう)(釘(くぎ)を打つ時などに使う打面のある工具のことです)の3種類の道具が使われました。3種類共に、形や大きさなどいくつもの種類があり、石材の加工に合わせて、矢穴を造り、矢を入れ、玄翁で叩(たた)く作業が繰(く)り返されることになります。石材の大きさを調整する段階で出た、石のきれはしも保管(ほかん)され、裏込(うらごめ)や間詰(まづめ)石として利用されました。こうして、石材の用意が整った段階で、いよいよ順番に石材を積み上げていく作業に移(うつ)るのです。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※矢穴(やあな)
石材を切り出す際(さい)に、石目に沿ってクサビ(矢)を打込むために掘られた方形の穴のことです。この穴に、クサビを打ち込んで、石を割っていきました。

石引道(いしびきみち)
切り出した石を運んだ「いし曳き(びき)の道」のことです。緩(ゆる)やかな道や急な坂道を数十人の石引人が掛(か)け声あわせて手引き綱(つな)で引いたりして運んだと言われています。石切丁場にも、港まで石を運んだ石引道が残されています。

転用石(てんようせき)
本来は違(ちが)う目的のために加工された石材だったものを、石材が不足していたため、城の石垣に転用された石材のことを言います。古い墓石や石仏(せきぶつ)・ 石碑(せきひ)などが、比較的転用されています。

天下普請(てんかぶしん)
城を築かせるために、全国の大名に土木工事などを割り振(ふ)って手伝わせることを言います。「手伝い普請」・「割普請」ともいわれます。基本的に、現場(げんば)で働く人足の手配から資材(しざい)まですべて大名持ちでしたので、経済(けいざい)的に大きな負担でした。築城以外に河川(かせん)改修(かいしゅう)や街道整備(せいび)などの大規模な工事を命じられることもありました。

石切丁場(いしきりちょうば)
石垣を築くために必要な石材を切り出す場所のことです。金沢城の戸室山(とむろやま)、江戸城の伊豆半島、大坂城の瀬戸内海の島々などが有名です。

矢(や)
矢穴に差し込む鉄製や木製で、V字形または三角形をしたくさびのことです。割る石の大きさによって様々な大きさの矢がありました。

修羅(しゅら)
重い石材などを運ぶために用いられた木製の大型ソリのことです。重機の存在(そんざい)しなかった時代に重いものを運ぶ重要な手段でした。コロ(荷の下に敷き、転がして移動させるために使う円柱形の道具(丸太棒(ぼう)など)のことです)などの上に乗せることで、摩擦(まさつ)による抵抗(ていこう)を減(へ)らすことができました。古墳時代から使用されていたと考えられていますが、「修羅」と呼ぶようになったのは近世以降のことです。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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