理文先生のお城がっこう 城歩き編 第25回 安土城の石垣2

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。25回目のテーマは、前回に続いて安土城の石垣。さまざまなタイプの石垣を積んだ職人集団と彼らの技術に注目すれば、安土城の石垣の特徴がもっとはっきり見えてきます



■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第24回 安土城の石垣1」はこちら

前回(城歩き編24回 安土城の石垣1)は、安土城(滋賀県)の石垣(いしがき)の特徴(とくちょう)についてまとめてみました。石垣は、主要部とそこへ至(いた)るルートの周辺に集中していること。三間(約5.4m)以上の高石垣は、全体の約3%しかなく、しかも主要部周辺に集中していること。勾配(こうばい)(角度)は、全体の約70%が70度以上の急勾配であること。隅角部(すみかどぶ)は、算木積(さんぎづみ)が未完成で、しのぎ積みが多いこと。転用石の利用があることや、見せるための巨石(きょせき)を配置していること。このような特徴を持つ石垣だと解(わか)っていただけたでしょうか。城跡(じょうせき)各所に残る石垣から、安土城の石垣はあまりにバリエーションが多く、様々な技術(ぎじゅつ)を持つ石工(いしく)たちを集めて積んだと思われるのです。

今回は、この石垣を積んだ職人(しょくにん)集団(しゅうだん)について考えてみたいと思います。

『信長公記』の石奉行

前回の最後で見たように、「観音寺(かんのんじ)山・長命寺(ちょうめいじ)山・長光寺(ちょうこうじ)山(近江八幡市)・伊庭山(いばさん)(東近江市)など、あちこちの大きな石を引き下ろして、これを千人とか二千人、あるいは三千人がかりで安土山に引き上げた」と記録されています。引き上げられた石は石奉行(いしぶぎょう)の西尾小左衛門・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某によって、念入りに調べて選ばれ、小さな石を除(のぞ)いて、大きな石だけが選び抜(ぬ)かれました。とあり、かなり丁寧(ていねい)に石材を選別したことが解ります。確(たし)かに、黒金門(くろがねもん)より内部の主要部の石は、極めて大型(おおがた)の石材を用いて積まれています。山麓(さんろく)部分の曲輪(くるわ)群の石材と比較(ひかく)すると、大きさの違(ちが)いが良く解ります。

安土城、丸北面石垣
伝三の丸北面石垣。主要部の天守台の南東側、本丸東虎口の正面に位置し、極めて大きな石材を積み上げた見せるための石垣になっています

石奉行(ぶぎょう)を務めていた4人の内、西尾小左衛門はこの後徳川家の取次担当(たんとう)となり、本能寺の変後は徳川家に仕えています。小沢六郎三郎は、信忠に仕え本能寺の変に際し、二条御所(にじょうごしょ)で討(う)ち死にしました。吉田平内・大西某については、よく解っていません。こうしたことからも彼らが石の専門家(せんもんか)ではなく、単なる奉行でしかなかったことが判明(はんめい)します。彼らの仕事は、石工集団に渡(わた)す石材を選別するだけだったのです。

安土城の石垣を積んだ石工集団

近江(おうみ)には、当初から近江に住み着いて、近くにある寺社勢力(せいりょく)と結びついた石工集団が居(い)たことは、各地に残された石垣から確実です。文献(ぶんけん)記録には、金剛輪寺(こんごうりんじ)が支配(しはい)した職人の中で寺を建てたり修理(しゅうり)をしたりする集団と考えられている西座衆(にしざしゅう)の名が見られます。佐々木六角(ささきろっかく)氏の居城である観音寺城(滋賀県近江八幡市)の石垣は、金剛輪寺の石工集団が関与(かんよ)したと言われています。また、小谷(おだに)(滋賀県長浜市)鎌刃(かまは)(滋賀県米原市)には、明らかに観音寺城とは異(こと)なる石垣が残り、彼らとは異なる石垣工人集団が居たと思われます。近江国内には、こうした寺院勢力と結びついた石工集団があちこちに居たのではないでしょうか。

安土城、伝二の丸南面の石垣
伝二の丸南面の石垣は、本丸正面口の西虎口の正面に位置し、安土城内最大の巨石群を組み合わせた石垣ですが、手前に石が積み上げられているため良く観察することが出来ません

信長自身も、小牧山城(愛知県小牧市)で、巨大な石材を積み上げた石垣を造(つく)り上げています。この積み方は、岐阜城(岐阜県岐阜市)の山麓の御殿(ごてん)の出入口脇(わき)の通路でも見られます。また、岐阜城の山上部のように、巨石ではなく通常(つうじょう)の大きさの石材を階段状(かいだんじょう)に積み上げた石垣も使用しています。

小牧山城、石垣
小牧山城本丸の巨石を積み上げた石垣。多くが抜き取られていましたが、残された石垣の石材は一つの石が2t以上の巨大なものでした

岐阜城、石垣
岐阜城山上部天守台への通路下の石垣。中・小石材を横位置に置くことを基本に積み上げられていますが、一気に上まで積み上げず、階段のように2段になっています。

永禄12年(1569)、三好三人衆に襲われた将軍(しょうぐん)足利義昭(あしかがよしあき)のために、住まいとする城(二条城)を石垣造りで構築(こうちく)しています。山科言経(やましなときつね)は「石くら」の出来栄えに驚(おどろ)き感心したと記録しています。石くらとは石垣のことで、この城が都で初めて本格的(ほんかくてき)に石垣を積んだ城であったことを示(しめろ)しています。このように、安土城を築(きず)く以前に信長は、石垣の城を築いているため、石工集団との関係を持っていたことは確実です。安土城の普請(ふしん)は、「尾・濃・三・越・若州・畿内、の諸侍」と『信長公記』に記されているように、各国の技術者を結集し築かれたのです。石工集団は数が少ないため、各国から集められ、それぞれが持っている技術を使って、石垣を構築したと思われます。

安土城の石垣の特徴

安土城の石垣の最大の特徴は、石垣の上に直接(ちょくせつ)建物や塀(へい)などを築くことを条件(じょうけん)に積まれたということです。そのため、石垣上に建物や塀を築くことが出来るのなら、その積み方は問題にしなかったのでしょう。主要部については、そこに高さを求めたのです。

もう一つは、美しさを求めた箇所(かしょ)があります。それは、天主台穴蔵(あなぐら)の入口の踊(おど)り場部分に笏谷石(しゃくだにいし)(福井県福井市の足羽山で採掘(さいくつ)される石材のことです)の板石が通路幅(はば)一杯(いっぱい)に敷(し)き詰(つ)められていることです。また、伝本丸北虎口(こぐち)の通路のテラス部分では花崗岩切石(かこうがんきりいし)を石畳(いしだたみ)状に敷き詰めた箇所が発見されました。これらは、明らかに石材を徹底的(てっていてき)に加工した切込接(きりこみはぎ)と同じ技術になります。とても、この時代とは考えられない先進的な石細工と言ってもいいのではないでしょうか。

岐阜城、天主台穴蔵への通路の踊り場
天主台穴蔵への通路の踊り場。割れてはいますが、笏谷石の板石を四角形に切りそろえ敷き詰めた様子がよくわかります。実に見事な加工技術です

安土城の石垣では、観音寺城と同様の石垣は存在(そんざい)せず、矢穴(やあな)も認(みと)められません。また、鎌刃城と同様の石垣も見ることは出来ません。具体的に、近江の石工を使用したとする記録は見られないのです。近江には、坂本里坊(さかもとさとぼう)や百済寺(ひゃくさいじ)、金剛輪寺の石垣を積んだ石工集団がいたことは解っています。近江国全部を支配下においた信長が、安土築城の時に、こうした近江国内にいた石工たちを呼び集めなかったとは思えません。

小牧山城、岐阜城で見られる巨石石垣は安土城では見られず、観音寺城の矢穴を用いた石垣も確認出来ていません。この技術をもつ工人集団を強制(きょうせい)的に動員しなかったのか、あるいは動員はされたのに信長から新しい積み方を指示されたために、彼らの積む石垣の特徴が見えないのかははっきりしません。様々な特徴を持つ石垣が存在することこそが、多くの異なった技術を持つ石工集団がいたことの証拠(しょうこ)かもしれません。どのように考えても安土城の石垣が後の石垣構築のルーツになったことは確実で、この後、様々な石垣の積み方が試され、成功と失敗を繰(く)り返しながら、次第に崩(くず)れにくく、登りにくく、さらに美しい積み方の方法を見出していったのです。

岐阜城、伝三の丸南西隅角の石垣
伝三の丸南西隅角の石垣。天主が焼け落ちた際の火力によって焼けただれ割れてはいますが、旧状を良く留めています。巨石による算木積を指向した石垣です。築石も丁寧に積まれています。本丸南虎口の正面で、この奥に信長専用の馬屋があったと考えられます

安土城を完成させた最も重要な技術革新(かくしん)は、本格的な石垣を積み上げられるようになったことです。安土城の築城によって、我が国ではじめて石垣上の端(はし)いっぱいに建つ建物が出現したのです。それを出来るようにしたのが、様々な技術によって石垣を積んできた各地の石工集団を、より効率の良い石垣が積めるように作り替(か)えたからではないでしょうか。信長は、石垣の上に建物や塀などを載(の)せることが出来る石垣造りを命じ、それが後の城造りの基礎になったのです。

今日ならったお城の用語※印は再掲です

※隅角部(すみかどぶ・ぐうかくぶ)
石垣が他の石垣と接して形成される角部(壁面が折れ曲がっている部分)のことです。曲輪側に対して外側に折れている隅角を「出隅」(ですみ)と言い、内側に折れている隅角を「入隅」(いりすみ)と言います。

※算木積(さんぎづみ)
石垣の隅部で、長方形に加工した石材の長辺と短辺が、一段ごとに互い違いになるように組み合わせて積む積み方をいいます。天正年間(1573~92)頃に始まりますが、積み方として完成したのは慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後のことです。

しのぎ積み(しのぎづみ)
石垣の隅角が直角ではなく、直角より大きい鈍角のものを呼びます。石垣が積まれ始めた頃は、直角に積む技術が発展していなかったためこのような鈍角の石垣が多く見られます。

穴蔵(あなぐら)
天守の地下に造られた地下室で、当初は出入口を兼ねていました。天守相当の大型の櫓にも見られます。漆喰を塗り固めた土間あるいは石畳を用いることもありました。塩とか米とかの備蓄倉庫として用いられたりもしました。

矢穴(やあな)
石材を切り出す際に、石目に沿ってクサビ(矢)を打込むために掘られた方形の穴のことです。この穴に、クサビを打ち込んで、石を割っていきました。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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