お城EXPO 2019 徹底ガイド&レポート 【中編】お城EXPO 2019 テーマ展示「天下の行方―大坂の陣その後―」徹底解説!

2019年12月21日(土)・22日(日)にパシフィコ横浜で開催される「お城EXPO 2019」の目玉といえば、デジタル想定復元された「大坂冬の陣図屏風」などが関東で初めて展示される「天下の行方―大坂の陣その後―」。今回は、徳川家康書状や三奉行連署状などの文書を読み解きながら、関ヶ原合戦が勃発するまでの背景に迫ります。




お城EXPO特別展「天下の行方―大坂の陣その後―」では、「大坂冬の陣図屏風」を入口として、関ヶ原合戦を経て、豊臣秀吉の天下統一までを遡れる、初公開となる石田三成書状3点を含む実物の古文書や絵画資料を展示します。さらに、大坂の陣後の徳川秀忠による大坂城の改修に関する史料も併せて展示します。古文書に書かれている内容を、歴史の流れと関連付けながら楽しんで頂けると幸いです。


3.関ヶ原合戦―「公儀」のゆくえ―

真田昌幸・信繁親子が九度山に配流され、岩城貞隆が浪人となって江戸に出るきっかけとなった関ヶ原合戦はどのような経緯で起こったのでしょうか。

慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉が伏見城(京都府)で亡くなります。豊臣政権は、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五大老が豊臣秀頼の後見を、浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以(げんい)の五奉行が、引き続き蔵入地(くらいりち。直轄地)の管理や訴訟などの実務を担当しました。特に、徳川家康は豊臣秀頼に代わって政務を取り、前田利家が豊臣秀頼の傳役(ふやく)、即ちお守り役となることで、政権内は微妙なバランスを保ちました。

この体制は翌年閏(うるう)3月に前田利家が亡くなると、にわかに変容していきます。細川忠興(ただおき)・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長の7人が石田三成を襲撃する事件が発生しました。石田三成は取次として関係が深かった佐竹義宣(よしのぶ)の助けもあり、伏見城の治部少丸(じぶしょうまる)に籠って難を逃れました。この時、徳川家康の裁定によって、石田三成は居城の佐和山城(滋賀県)で隠居することとなりました。そして、同年9月には徳川家康の暗殺を企てたとして、前田利家の嫡男である前田利長や浅野長政らに嫌疑がかけられます。前田利長は母の芳春院と三男の光千代を人質として差し出し、浅野長政は隠居することとなりました。

この様に、徳川家康が五大老・五奉行の影響力を徐々に減らしていく状況下で、五大老の一人である上杉景勝は、慶長4年(1599)8月に国元の会津に戻り、領国経営に専念します。年明けからは、領国内の城郭の改修を命じ、新たな居城として神指城(こうざしじょう。福島県)を築城するなど、軍備増強の動きが活発になりました。上杉景勝によるこれらの動きは、2月に旧上杉領を支配していた堀秀治からの報告があり、3月には、上杉家を出奔した藤田新吉が、上杉景勝に謀反を計画している旨を徳川家忠に報告するなど、豊臣政権内部でも無視できない状態となりました。この際、徳川家康が上杉景勝に対して、上洛して謀反の嫌疑を弁明するよう伝えた書状を送り、直江兼続が記した返答とされているのが有名な「直江状」です。

結局、上杉景勝は上洛せず、膠着した状況の中で出されたのが、今回展示する「徳川家康書状」です。この書状は、堀秀治の与力大名として越後国(現・新潟県)村上城主であった村上頼勝(義明)に宛てて出された書状です。

自其元、佐渡・庄内之働之儀一切無用候、会津へ働、彼處相済候得者、不入儀候間、其意得尤候、猶西尾隠岐守可申候、恐々謹言
六月十四日 家康(花押) 村上周防守殿

大意は以下のようになります。

そちらから、佐渡・庄内へ出陣することは一切あってはなりません。会津へ出陣してしまえば、(上杉との戦いは)ここで済んでしまうので、(村上頼勝の軍勢が佐渡・庄内へ)入ることはありません。そのようにご理解下さい。なお、詳細は西尾隠岐守に伝えてあります。

徳川家康は、村上頼勝に対して、勝手に上杉領国である佐渡島や庄内地方へ攻め入ることをとどめ、上杉景勝が居る会津へ出陣することを求めています。これは、豊臣政権下において「惣無事令」(そうぶじれい)と呼ばれる私戦が禁止されていたことです。村上頼勝が勝手に領国の拡大を狙って佐渡や庄内地方へ侵攻することを抑止する目的です。徳川家康による会津征伐の準備は着々と進んでいることが伺える史料です。翌6月15日には、前田玄以・長束正家・増田長盛の三奉行が、徳川家康に従って上杉景勝を討つ旨の連署状を発給し、豊臣秀頼が家康に対して黄金2万両と米2万石を下しているなど、会津征伐は豊臣政権の公儀(公権力)の下に行われていました。

徳川家康による会津征伐の約1カ月後の7月12日、会津征伐に諸大名の軍勢が向かう最中、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行が連名で五大老の毛利輝元に対して書状を出しています 。その冒頭に

「大坂御仕置之儀付而、可得御意儀候間、早々可被成御上候」

と大坂の事についてご相談があるので、直ちに国元から大坂へ来て頂きたい旨を伝えています。この書状を受けて、毛利輝元は15日に加藤清正に豊臣秀頼への忠節を尽くす旨の書状を出し、島津義弘が上杉景勝に対して、毛利輝元・宇喜多秀家、三奉行、小西行長・大谷吉継・石田三成が相談し、彼らと上杉景勝が連携することが豊臣秀頼にとって得策であり、義弘も同意見である、という書状を出すなど、関ヶ原合戦で西軍となる面々がこの頃に固まりつつありました。

三奉行は、17日に各大名に対して徳川家康を糾弾する「内府ちがいの条々」を各大名に出し、家康との対決姿勢を鮮明にしました。西軍方は、豊臣政権の実務を担当する三奉行が、毛利輝元・宇喜多秀家の大老を擁したことで、豊臣政権の公儀の体制を作り、正統性を持つことに成功した点です。一方、徳川家康は豊臣政権の公儀から外れてしまうこととなりました。

7月17日には、伏見城に籠城する徳川家康の古参家臣の鳥居元忠・松平家忠の軍勢が、城の明け渡しを求めに来た島津義弘の家臣である新納旅庵(にいろりょあん)を射撃したことから、伏見城の戦いが始まります。石田三成もここに参戦し、伏見城は8月1日に落城しました。同時に小野木重次(おのぎしげつぐ)を大将として、「内府ちがいの条々」で非難された細川忠興の居城で、父の細川幽斎が守っていた丹後国(現・京都府北部)田辺城を攻めるなど、畿内の掌握に努めました。岩城貞隆は、本家節である佐竹家が、当主の義宜(よしのぶ)が西軍、義重が東軍につく事を主張し対立したため、ほぼ中立の立場をとりました。

一方、徳川家康は7月26日頃に会津征伐を中止し西へ向かいます。8月23日に西軍の織田秀信が守る岐阜城(岐阜県)を、福島正則・池田照政らの東軍が落し、引き続いて大垣城(岐阜県)を包囲します。9月4日から8日にかけて、徳川秀忠と真田昌幸・信繁親子が戦った上田合戦が行われ、9月15日に関ヶ原合戦に至るまで、日本列島の各地で東軍・西軍の戦いが繰り広げられました。

今回展示する「関ヶ原合戦絵巻」には、大坂城内での三奉行らによる評定から、伏見城の戦いや岐阜城の戦いなどの前哨戦、そして関ヶ原合戦にまでが描かれています。同様の構成をした絵巻は、文化7年(1810)に尾張藩や唐津藩の御用絵師を務めた長谷川雪旦による大東急記念文庫本、藤原広実による国会図書館本、京都画壇で活躍した岸連山による長浜城歴史資料館本、浮世絵師の鳥文斎栄之が描いた名古屋市立博物館本など、多岐にわたります。

この絵巻の岐阜城合戦を描いた場面では、石田三成軍勢として、「大一大吉大万」の旗を掲げている兵士達が描かれているなど、西軍方の武将が多く描かれている点が特徴的です。当絵巻は淡い色彩の濃淡を駆使して描く技法を用いている点から、岸連山の系譜を継ぐものであると考えられますが、今後の研究がまたれる資料です。

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執筆・写真:山野井健五
1977年生まれ。2009年成城大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学、川口市立文化財センター調査員、目黒区めぐろ歴史資料館研究員、東京情報大学非常勤講師を経て、現在、(株)ムラヤマ、お城EXPO実行委員会。専門は日本中世史。主な業績として「中世後期朽木氏における山林課役について」(歴史学会『史潮』新63号、2008年)、「中世後期朽木氏おける関支配の特質」(谷口貢・鈴木明子編『民俗文化の探究-倉石忠彦先生古希記念論文集』岩田書院、2010年)監修として『学研まんが 日本の古典 まんがで読む 平家物語』(学研教育出版、2015年)、『学研まんがNEW日本の歴史4 武士の世の中へ』(学研プラス、2012年)