お城EXPO 2019 徹底ガイド&レポート お城EXPO 2019 テーマ展示「天下の行方-大坂の陣その後-」徹底解説!【前編】

2019年12月21日(土)・22日(日)にパシフィコ横浜で開催される「お城EXPO 2019」の大きな目玉といえば、関東初展示となるデジタル想定復元された「大坂冬の陣図屏風」(20日のプレミアム前夜祭でも先行展示されます)。完成当時の鮮やかさが再現された屏風から、大坂の陣の戦いの詳細を2回に分けて読み解きます。

大坂冬の陣図屏風、デジタル想定復元、凸版印刷株式会社コピー禁止
「大坂冬の陣図屏風」デジタル想定復元 制作:凸版印刷株式会社

「大坂冬の陣図屏風」デジタル想定復元
・図像部: インクジェットプリント 金箔金銀泥
・サイズ: 図像部 各約2986mm×1656mm
・制作: 凸版印刷株式会社
・監修: 千田嘉博(奈良大学文学部教授)、東京藝術大学、徳川美術館、
     佐多芳彦(立正大学文学部教授)
・協力: 大阪城天守閣、京都市立芸術大学芸術資料館、東京国立博物館
※JSPS科研費JP17102001(立正大学)の助成を受けた研究成果を活用しています。

はじめに

お城EXPOでは、2016年の第1回から主催者展示として、実物資料の展示が行われています。これには2つの目的があります。1つは、城郭が建造された時代と同じ時代に存在していた実物を見て頂きたいという点。2つ目は城郭や、城郭にまつわる歴史について知る場合、その基礎となる実物の資料を観て頂きたいという点です。さすがに会場に城郭そのものを展示することはできませんが、来城者の皆様が持つ城郭に関するこれまでの体験や知識と、古文書など歴史資料を結びつけることで、想像力を増幅させてより一層城郭や歴史について楽しんで頂くことを目指しています。

今回は、凸版印刷株式会社によってデジタル想定復元された「大坂冬の陣図屏風」を入口とした上で、大坂冬の陣の参加人物に焦点を当てて、彼らに関する古文書から導き出される歴史像を提示します。これによって、最先端のデジタル技術によって復元された豪華絢爛な屏風から得られる皆様の想像力を持って、400年前に書かれた古文書を読んで頂き、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下統一から、徳川秀忠(とくがわひでただ)による大坂城(徳川大坂城)の改修と成立までの激動の時代を、皆様の想像力を掻き立てて頂けると幸いです。

1. デジタル想定復元「大坂冬の陣図屏風」から見えること

凸版印刷株式会社によるデジタル想定復元「大坂冬の陣図屏風」の元となった絵(摸本)は、現在東京国立博物館に所蔵されています。

このプロジェクトは、凸版印刷株式会社が持つ最先端のデジタル技術と、城郭考古学の観点から千田嘉博氏、美術史的な観点から徳川美術館、描画技法の観点から東京藝術大学、歴史学の観点から佐多芳彦氏の監修によって行われました。詳細については、城びとの記事「7月末から初展示も!デジタル復元で蘇った「大坂冬の陣図屏風」」をご参照ください。

このデジタル想定復元によって、豊臣秀頼(とよとみひでより)方・徳川家康(とくがわいえやす)方の軍勢をはじめ、彼らをマーケットとして戦場に赴いた商人など、2047人に及ぶ人物の様子、「仕寄り」と呼ばれる鉄砲玉や陶器に火薬を詰めた爆弾の一種である焙烙玉の被害を最小限に食い止めるために掘られた塹壕や、堀の縁には、横木を高い位置に設置することで上りづらく造られた柵といった軍備などが鮮明な形で観ることができるようになりました。

大坂冬の陣当時の様子が細かく描かれているだけでなく、画面には慶長19年(1614)11月26日に、徳川方の佐竹義宣(さたけよしのぶ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)・堀尾忠晴(ほりおただはる)・榊原康政(さかきばらやすまさ)と豊臣方の矢野正倫(やのまさとも)・飯田家貞(いいだいえさだ)・後藤基次(ごとうもとつぐ)・木村重成(きむらしげなり)が激しく戦った今福の戦い、中央には12月4日の真田丸の戦い、12月17日の豊臣方の大野治房(おおのはるふさ)が徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の部隊を襲撃した本町橋の夜討ちなど、豊臣方が華々しい戦果を挙げた戦いが描かれています。さらに、大坂城の中には豊臣秀頼と淀君も描かれているなど、豊臣方を中心としたテーマ設定がなされている点で特異な内容となっています。

デジタル想定復元された「大坂冬の陣図屏風」は、東京国立博物館に所蔵されている「大坂冬の陣図屏風」の摸本を元にして作られています。摸本には簡単な着彩と色を指定するメモがなされており、複製を作る上での仕様書となっています。その記述を手掛かりに当時の色彩の再現が行われました。

「大坂冬の陣図屏風」の原本については、公家の中院通村が記した「中院通村日記」元和2年(1616)4月21日条に

「及晩興以(絵師)許ヨリ、大坂攻之図屏風出来、欲見可進之由申之、他所之物之由也、則取寄覧之」

と中院通村が「大坂攻之図屏風」を狩野興以より取り寄せて観たことが記されています。さらに翌日には

「宿示弖候、自與以許到来屏風、為入見参持参、則申入、於常御所庇、令叡覧給、予召之指図等之所々相存事等申入之、則入御、一両日可進置之由仰也」

と、「大坂攻之図屏風」を御所に持参し、後水尾天皇がご覧になり気に入ったため一両日手元に置いたことが分かります。

摸本を作成したのは、木挽町狩野派9代目の狩野養信です。彼は過去の作品を大量に模写していることで有名であり、彼が記していた『公用日記』 に「大坂御陣□様子之拾枚、折屏風下絵、五枚続二指、右長谷川宗也筆」を幕府から借用したことが記されています。五曲一双という形状は非常に珍しいため、養信が借用したのは摸本の元となった屏風下絵であると考えられます。また、長谷川宗也とは、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した絵師長谷川等伯の息子です。長谷川宗也による「大坂御陣□様子拾枚」と「中院通村日記」に書かれている、狩野興以が持ち込んだ「大坂攻之図屏風」が同一であるかという問題が浮上しますが、関連史料が遺されていないため、これ以上のことは分かりません。

「大坂冬の陣図屏風」の摸本の元となった下絵と屏風絵には相違点があることが、摸本の両脇に貼られている「覚書」、即ちメモに記されています。最も違う点は

「一 御本陣に人形アリ、下絵二者人形なし 御簾下してあり」
「一 神君御本栄ニ人形アリ 御簾下してアリ」

と、屏風絵には徳川秀忠と徳川家康の姿が描かれていたものの、下絵には描かれていない点です。これは江戸時代中期以降、東照大権現となった家康だけでなく、歴代江戸幕府将軍を描くことが憚られていたことの現れであります。原本が描かれた江戸時代初期の描かれ方と、摸本が作成された江戸時代後期の描かれ方の違いが記されていました。また、大坂城の塀が奥に行くにつれて幅が縮小していく、遠近法で描かれており、これも原本が描かれた江戸時代初期にはない描画手法です。

以上のことから、摸本の元となった下絵は江戸時代中期以降に描かれもので、下絵の元となった別の原画(祖本)が存在していたことが伺えるなど、非常に謎が多い屏風であり、今回のデジタル想定復元の成果を踏まえて新たな研究成果が望まれます。

2. 大坂の陣に参戦した人たち―浪人のお家再興と立身出世―

「大坂冬の陣図屏風」には2047人もの人物が描かれており、実際には豊臣方は9万、江戸幕府方は20万もの軍勢が動員されたと考えられています。この戦いに参加したのは、江戸幕府下の諸大名や豊臣家の家臣だけではなく、主君を持たない浪人となった武士たちが豊臣方・江戸幕府方を問わず参加していました。

彼らの中でもっとも有名なのは、「大坂冬の陣図屏風」の中央部に描かれた赤備えの軍団を率いた真田信繁(さなだのぶしげ)です。豊臣方は、江戸幕府と戦うことが避けられないと判断した段階で、諸国の浪人たちのヘッドハンティングを開始します。江戸幕府がこの動きを察知したのは慶長19年(1614)10月5日のことです。その時の様子を家康の側近が記した記録「駿府記」に

「京都伊賀守(板倉勝重)飛脚到来、大阪の躰、彌構城郭諸牢人拘置籠城支度之由註進云々」

とあり、牢人(浪人)を抱えて籠城の準備をしている情報が入ります。「駿府記」の慶長19年(1614)10月14日条に

「眞田源三郎□□、是者先年関ヶ原御陣之時、為御敵蒙勘気、数年于高野山引籠り、秀頼為当座音物、黄金弐百枚、銀卅貫目遣之」

と、秀頼は信繁に対して黄金200枚、銀30貫目という条件を提示したという情報を家康は得ていました。


真田信繁書状
真田信繁書状(撮影:東京大学史料編纂所)

彼らの浪人時代の暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか。今回のお城EXPOで展示する「真田信繁書状」から読み解いてみます。この書状は、関ヶ原の合戦で西軍につき、上田城攻防戦で父の昌幸と共に徳川秀忠の軍勢を食い止めたため、高野山の麓にある九度山(現・和歌山県九度山町)に配流された信繁が義兄の小山田茂誠(おやまだしげまさ)に宛てたものです。おおよその内容は、新年の祝いとして鮭2匹を送ってもらったことに対するお礼、上野国の沼田(現・群馬県沼田市)から九度山まで使いを寄こしたことへの心遣いに対する感謝、の2点になります。その中で

「乍去、其許方お手透も有間敷処、御隔心の至、却而迷惑いたし候」

と、多忙である義兄の心遣いを気にしたり、

「御手前など御心申更々可有御志等候とも、不存候、神そく其分ニ候」

と、配流先の信繁に対して茂誠が一族として処遇している事への感謝、

「御用之事も候ハバ、無隔心可申入候」

と、必要なことがあれば遠慮なく申し入れることが書かれています。

宛所の茂誠は、元和8年(1622)の松代転封後に家老に登用されたことなどを踏まえると、新年のお祝いの鮭2匹を届けたのは真田信之(さなだのぶゆき)の意向があったと考えられます。そして、何度も繰り返しお礼を述べていることからすると、国元からの使いが来たことに対する信繁の嬉しさがあふれ出た書状であると言えましょう。また、墨の継ぎ方や文章と花押が同じ筆致で描かれていることから、信繁の直筆の可能性が高い書状です。

真田昌幸書状
真田昌幸書状(撮影:東京大学史料編纂所)

配流先に国元から来る書状や贈り物に対する喜びぶりについては、お城EXPOで関東地方初公開となる、信繁の父である真田昌幸(さなだまさゆき)が、慶長6年(1601)に長男の信之の家老である木村綱茂(きむらつなしげ)に宛てた、鮭の子を贈られたことに対するお礼を述べた書状にも見てとれます。短い書状の中に

(1)「御料人より飛脚給候付而、預芳札候」

と、信之の正室である小松殿(昌幸の孫娘とする説もあり)からの飛脚が来たことを喜び、

(2)「御料人より切々御音信令祝着候」

と、小松殿が度々連絡をくれることを喜び、さらに

(3)「なほなほ、御料人より切々御音信忝の由、能々可被申候、相頼候」

と小松殿からの音信がありがたいことを、綱茂に伝えるようにと頼んでいます。このように、国元からの連絡や贈り物は配流先の浪人にとって、感情を爆発させるような嬉しさがあったことが分かります。信繁は大坂の陣で果敢に戦い、大坂夏の陣で討ち死にしました。

それでは、国元の人々はどのようにして浪人を支援していたのでしょうか。信繁と同じく大坂の陣に参加し、江戸幕府方に付いて戦った岩城貞隆(いわきさだたか)を支援した佐藤貞信(さとうさだのぶ)の書状から見ていきます。岩城貞隆は、平安時代末期から陸奥国岩城平(現・福島県いわき市)に拠点を置く東国・陸奥を代表する名門である岩城家の当主です。前の当主である岩城常隆(いわきつねたか)が天正18年(1590)の小田原の役参戦時に急死したため、秀吉の意向によって佐竹義重(さたけよししげ)の三男である能気丸が跡取りとなることが決まり、元服の後貞隆と名乗りました。大坂冬の陣の今福の戦いで活躍した佐竹義宣の弟にあたります。岩城貞隆の代の岩城氏は、実質的に佐竹氏の配下に組み込まれた状態となりました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは佐竹氏に従って中立の立場を取っていました。そして、慶長7年(1602)に佐竹家が常陸国太田(現・茨城県常陸太田市)から出羽国久保田(現・秋田県秋田市)に転封となると、実質的に佐竹家配下となっていた岩城氏と相馬氏は改易となってしまいました。改易後の相馬蜜胤(そうまとしたね。三胤・利胤)は江戸に出て、伝手をたどり、家康の腹心である本多正信(ほんだまさのぶ)の仲介を得て、半年後には旧領の大名として復帰しました。岩城貞隆はこれを見て、自らお家復興をすべく、彼に付き従った40人余りの家臣と共に江戸に出て浅草を拠点に活動を行います。今回のお城EXPOで初公開される「佐藤貞信書状」には、国元からの支援の様子について詳細に書かれています。

佐藤貞信書状
佐藤貞信書状(慶長8年3月29日)(撮影:東京大学史料編纂所)

この書状には、岩城貞隆が幼少の時から仕えていた佐藤貞信が江戸に出た同志、半左右衛門、志右衛門に宛てたものです。病身であるため江戸に出てお家復興のための奉公ができないことを詫びる内容が書かれた後に、下記の文章が続きます。

一、不本意至極にて無念候、次ニ命さゝけのため江戸ニ金子をかくし置申候、長瀬二郎助、又彦内存候、其上ニ京へのほせ候かり物なともうり合申候ハヽ、金五まいほと可在之候、是ハ殿様へ指上申候、似合之御用にも可然在之候、

これを現代語に訳すと、

一、不本意極まりなく残念でなりません。次の奉公のために江戸に金子を隠し置いてあります。長瀬二郎助と彦内が知っております。それに加えて、京都に上っている借り物などを売れば金五枚ほどになりますので、これを殿様(岩城貞隆)に差し上げます。これで岩城家の地位に相応しい奉公を務めることができるでしょう。

という意味になります。つまり、佐藤貞信はお家復興のための資金を国元で準備していたのです。これだけではなく、さらなる金策を佐藤貞信が自ら行っていたことが分かります。

一和田安房守下之者ニ候、小靎五郎左衛門より估物五十貫借用申候、殿様御身上事終申候ハヽさいそく可仕候歟、此儀無幸御取越ニ三十四・五貫指上候、御蔵衆切手御届候、御借銭まいらせ被遊候間、御手前より右之通ハ御済可被下候、

和田安房守(わだあわのかみ)の家臣である小靎五郎左衛門(おづるごろうざえもん)から50貫文を借り、お家復興が終わったら返済の催促が来るであろうと伝えています。そして、取り急ぎ調達できた34、5貫文を岩城貞隆へ送金し、返済するように頼んでいます。和田安房守とは、佐竹氏の義昭・義重・義宣の三代の当主に仕えた重臣、和田昭為(わだあきため)と考えられます。そして昭為に仕えていた小靎五郎左衛門については詳しいことは不明ですが、人物が元和6年(1620)頃に作成されたと考えられる、紀州藩士の名簿「御入国之節姓名記」に小靎五郎左衛門の名前があり、350石の知行を得ていたことが書かれています。和田昭為の元を出奔して徳川頼宣(とくがわよりのぶ)に仕えたのかもしれません。

岩城貞隆と彼に付き従った家臣達は、佐藤貞信が調達した資金を元にあらゆる伝手をたどります。岩城貞隆の次兄である葦名義広(あしなよしひろ)の伝手で、葦名氏出身で家康に徴用されていた僧天海や、どのような伝手が不明ですが江戸幕府2代将軍秀忠の腹心であった土井利勝(どいとしかつ)と接触しました。その結果、家康の側近である本多正信の家臣として三百人扶持で召し抱えられることとなりました。そして、大坂の冬の陣と夏の陣での勲功が認められ、元和2年(1616)、信濃国中村(現・長野県木島平村)1万石の大名となり、ついにお家復興を果たしました。

寛永2年(1625)10月に、岩城貞隆と共に浅草に出てお家復興を目指した家臣達の名簿「岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚」という史料が残されていますが、病身で同道できなかった佐藤貞信の名前はもちろんありません。そして、書状の宛所にある志右衛門や半佐左衛門の名前もないことから、この史料に書かれている人物以外にもお家復興を支援する人々がいたことが伺えます。真田昌幸や真田信繁の書状を運んだのが真田信之の重臣達であったように、主君との絆が思いのほか深かったのでしょう。

引用文のうち原本が虫食いなどで読めない箇所は「□」で表記しています


執筆:山野井健五
1977年生まれ。2009年成城大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学、川口市立文化財センター調査員、目黒区めぐろ歴史資料館研究員、東京情報大学非常勤講師を経て、現在、(株)ムラヤマ、お城EXPO実行委員会。専門は日本中世史。主な業績として「中世後期朽木氏における山林課役について」(歴史学会『史潮』新63号、2008年)、「中世後期朽木氏おける関支配の特質」(谷口貢・鈴木明子編『民俗文化の探究-倉石忠彦先生古希記念論文集』岩田書院、2010年)監修として『学研まんが 日本の古典 まんがで読む 平家物語』(学研教育出版、2015年)、『学研まんがNEW日本の歴史4 武士の世の中へ』(学研プラス、2012年)