2019/12/10
戦国時代最後の戦い「大坂の陣」とは ②冬の陣
徳川軍(江戸幕府)と豊臣軍が雌雄を決して激突した、戦国時代最後の戦いとして知られる大坂の陣。今回から3回にわたって、戦いの背景や2度の合戦の全貌を、歴史研究家の小和田泰経先生が解説します。第2回は、最初の合戦「大坂冬の陣」の戦況やその裏にあった武将たちの思惑に迫ります。
なぜ秀頼は籠城を選んだのか?
徳川家康が大坂城攻めに兵を挙げるなか、慶長19年(1614)10月2日、豊臣秀頼も大名や牢人に大坂入城を求めるなど、抗戦の準備を始めました。こうして、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)・毛利勝永・真田信繁・後藤基次など、関ヶ原の戦いで改易された牢人衆を中心に約10万人の軍勢が集まったのです。
秀頼は、側近の大野治長のほか、おもだった武将を集めて軍議を開きました。このとき大野治長は、大坂城に籠城しながら京都を制圧して畿内にある徳川方の城を落とすことを主張したといいます。大坂城は、平城に分類されることもありますが、実は高さが30mほどある上町台地に築かれていました。北端には川が流れ、東西は台地の崖となっており、自然の要害といっても過言ではありません。かつてこの地にあった本願寺を織田信長が落とすには10年間もかかっているほどです。それが、秀吉の築城によって格段に防御力も高められていたのですから、籠城を選ぶという声があっても不思議ではありません。
大坂城内の石山本願寺推定地碑
ただ、本願寺が織田信長に抵抗していたときには、武田信玄や毛利輝元といった大名による支援をうけていました。このころの秀頼にはそうした強大な味方はいませんので、大坂城がいかに堅城といえども、援軍がこなければ持ちこたえることはできません。そのため真田信繁は、大坂城から打って出て、徳川軍の主力を瀬田と宇治で食い止めている間に西国の大名を味方にすべきと反論したといいます。
東国から畿内に大軍で入る際には、瀬田か宇治に架けられた橋を渡らなければなりませんでした。そのころの畿内における有力大名といえば、近江膳所城(ぜぜじょう/滋賀県)の戸田氏鉄(とだうじかね)、山城伏見城(京都府)の松平定勝、大和郡山城(奈良県)の筒井定慶(つついじょうけい)、摂津茨木城(大阪府)の片桐且元くらいなものでした。徳川譜代の戸田氏鉄や松平定勝は無理でも、筒井定慶や片桐且元は豊臣方につく可能性はあったでしょう。豊臣軍が徳川軍の主力を瀬田と宇治で防ぎ、膳所城と伏見城を包囲すれば、確かに豊臣方に寝返る西国の大名が現れたかもしれません。
豊臣方が制圧を計画した瀬田の唐橋
大坂城の南面「真田丸」で徳川軍を迎え撃つ
しかし結局、豊臣秀頼は大坂城に籠城することに決めました。こうした軍議がされている間にも、着々と徳川方の軍勢が大坂に向かって進軍していたからです。ただ豊臣方は、なにもしないで籠城したわけではありません。淀川に沿って豊臣秀吉が築いていた「文禄堤」をいくつかの場所でわざと決壊させ、大坂城の東側を水没させました。これにより、徳川方の接近を阻もうとしたわけです。
大坂城は、北側は大和川と淀川が合流する天満川(現在の寝屋川)、西側は東横堀川、東側には平野川・猫間川が惣構の堀となっていました。徳川方は淀川を堰き止めようとしましたが、惣構の堀を干上がらせることはできません。そこで徳川軍は、大坂城の南面から城内への突入を図ることにしたのです。
真田丸跡と推定される心眼寺
豊臣方でも、徳川軍が大坂城の南面から押し寄せるものと想定していました。大坂城惣構の南面には、西の松屋町口、中央の谷町口、東の八町目口がありましたが、谷町口から松屋町口にかけては寺町などがあって防壁の役割を果たしていましたから、必然的に八町目口が弱点となります。そこで真田信繁は、八町目口の東に出丸を築くことを献策したのでした。出丸とは、本城から張り出した形に築かれる小城のことです。こうして南惣構の東南端に築かれた、長さ100間(約181m)、周囲を堀と塀柵で囲まれた出丸は「真田丸」とよばれるようになりました。
真田丸については、大坂冬の陣後に破壊されてしまったため、実際にどのような形状をしていたのかわかっていません。江戸時代に描かれた絵図の多くには、大坂城に隣接した半円形の出丸として描かれています。しかし、広島藩主浅野家がまとめた「諸国古城之図」には正方形に近い形状に描かれているため、近年には半円形ではないとの説もだされました。
形状はともかく、この真田丸の存在が徳川方の戦略に影響を与えたのは確かです。徳川軍では、谷町口に藤堂高虎、松屋町口に伊達政宗が配され、苦戦が予想される八町目口に対しては前田利常が真田丸に対峙し、井伊直孝が真田丸の西に、松平忠直がさらに西に陣を布いています。そして12月4日、徳川軍は真田丸に対して攻撃を加えたものの、鉄砲や弓で攻撃され大敗してしまいました。このときの攻防戦で徳川方は数千人が討ち取られたといいます。
埋められた大坂城の堀から出土した石垣
和睦の裏に隠された双方の目論み
大坂城をめぐって攻める徳川軍と守る豊臣軍との間に行われたこの合戦を、大坂冬の陣といいます。この大坂冬の陣で、徳川軍は20万余の大軍で大坂城を攻めながら、城内に一歩たりとも侵入することはできませんでした。そこで家康は、本丸のみを残して二の丸・三の丸・惣構の堀を埋め、櫓や塀を壊すことを条件に和睦を提案したのです。これを豊臣方が受諾したことで、12月20日、和睦が成立し家康は攻撃の停止を命じました。
なお、和睦の条件についてですが、埋める約束の「惣堀」が惣構の堀という意味であったのに、家康が「すべての堀」と曲解して埋めてしまったともいわれます。しかし、豊臣方がそのことについては抗議していないので、最初から本丸を残して埋める条件だったのでしょう。時間をかけて埋め戻している間に、打開策を講じるつもりであったと思われます。当然、家康が没する可能性も考えていたに違いありません。このとき、家康はすでに74歳になっていました。
もちろん、家康は、豊臣方のそうした目論みも承知していたのでしょう。昼夜兼行の人海戦術によって、翌慶長20年(1615)正月には埋め戻しを終わらせてしまったのです。これにより、大坂城は、本丸の周りを堀が一重めぐるだけの城になってしまいました。
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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。
著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
『天空の城を行く』(平凡社、2015年)ほか多数。