戦国時代最後の戦い「大坂の陣」とは ①開戦へ

徳川軍(江戸幕府)と豊臣軍が雌雄を決して激突した、戦国時代最後の戦いとして知られる大坂の陣。今回から3回にわたって、戦いの背景や2度の合戦の全貌を、歴史研究家の小和田泰経先生が解説します。第1回は、大坂の陣が開戦する要因となった徳川家康と豊臣家の対立について迫ります。



豊臣政権の権力者“五大老”が対立

豊臣秀吉の生存中、徳川家康は、政権の五大老の一人に過ぎませんでした。五大老というのは、豊臣政権の政務にあたっていた前田利家・徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の5名を指します。いずれも有力な外様大名であり、政権の運営には欠かすことはできません。しかし、誰かが独走すれば、豊臣政権の危機になると考えた秀吉が、権力を分散させるために組織したのが五大老ということになります。豊臣政権の根幹を揺るがす誰かというのは、現実的には徳川家康だったと言ってよいでしょう。そのころの徳川家康は関東に255万石の所領をもっており、圧倒的な権力を誇っていました。

慶長3年(1598)に秀吉が亡くなったあと、秀吉の遺児秀頼がわずか6歳であったため、秀吉の盟友であった前田利家が五大老の中心となって補佐していきます。この利家が、家康の独走を食い止める役目を担っていたのですが、その利家も翌慶長4年(1599)には病没してしまいました。そのため、勢威を強める家康に対し、石田三成が挙兵したことから、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いがおこるのです。

大坂の陣、関ヶ原古戦場、徳川家康最後の陣
関ヶ原古戦場の石田三成の笹尾山陣

関ヶ原の戦いに勝利した家康が豊臣家と並ぶ権力者に

関ヶ原の戦いで対立する石田三成らに勝利した家康は、戦後処理や論功行賞を主導するなかで、豊臣政権を専断するようになっていきます。この関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総大将となったことから安芸広島120万石から長門萩36万9000石に、謀反の疑いをかけられていた上杉景勝が陸奥会津120万石から出羽米沢30万石にというように、大幅な減封をされています。実際に関ヶ原で戦った宇喜多秀家にいたっては、備前岡山57万石は没収され、伊豆の八丈島に流されてしまいました。こうして、五大老のなかでは唯一勝ち残った家康の勢威が増大するようになったのです。

もちろん、この段階でも家康は、名目的には豊臣秀頼の家臣に過ぎませんでした。しかし、自らの所領を400万石に加増するいっぽう、豊臣秀頼の直轄地220万石を、戦功のあった武将に恩賞として与えるという形で摂津・河内・和泉国内65万7000石に減らしてしまいます。しかも、慶長8年(1603)には、家康が征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いたことで、家康と秀頼の地位は並び立つようになっていきました。

それでも、このときに豊臣家から家康の征夷大将軍就任に抗議した形跡はありません。秀吉の遺命を受けた家康が、秀頼が成人して関白に任官するまで政権を代行するのだと考えていたのでしょう。

大坂の陣、江戸城、徳川家康
幕府がおかれた江戸城

家康の征夷大将軍就任直後、家康の子秀忠の娘、つまり家康にとっては孫にあたる千姫が、秀頼に輿入れしました。これは秀吉の遺言でしたから、家康は秀吉の遺命に従っていることを示すとともに、徳川家と豊臣家の協調路線に変更がないことを伝えたということになります。

ところが、慶長10年(1605)、家康は突如として将軍職を子の秀忠に譲ってしまいました。別に家康が病気になって政務に支障をきたしたわけではありません。家康は、まだ余力のあるうちに秀忠へ将軍職を譲ることで、将軍職を徳川家が世襲することを内外に示したのです。秀頼の成人後に政権を家康から返してもらうつもりであった豊臣家が慌てたのは言うまでもありません。

権力を固めていく家康と豊臣家の対立が深刻化

将軍職を辞して駿府城(静岡県)に隠居した家康は大御所と呼ばれ、形式的には諸大名の上に立つことはできました。しかし、大坂城(大阪府)の秀頼が長じて関白に任官すれば、家康の優位性は、失われてしまいます。そこで、家康は、天皇の権威を利用することで、徳川家が諸大名の上に立ち続けようとしました。

具体的には、武家の棟梁である家康の推挙なしに諸大名に官位を与えてはならないと、朝廷に申し入れています。当時、有力な大名は、朝廷から官位を与えられるのが一般的でした。朝廷の官位は、あくまでも名目的な称号のようなものでしたが、諸大名には重要な権威と考えられていたものです。家康は、この官位授与権を独占することで、諸大名を支配下に置くことに成功しました。

しかし、慶長19年(1614)7月、秀頼は自分の家臣に対し、朝廷から官位を授与させてしまったのです。これは、家康の官位授与権の独占を否定するものであり、このころから、豊臣家と徳川家との間の緊張が高まっていきました。方広寺の鐘銘が問題にされたのも、こうした緊張と無関係ではありません。方広寺というのは、京都の東山に豊臣秀吉が建立していた寺院で、奈良の東大寺にならって大仏殿には大仏が安置されていました。しかし、地震で倒壊したため、秀頼が再興していたものです。

大坂の陣、徳川家康、駿府城
家康が隠居城とした駿府城

復興された方広寺の梵鐘には数百字の銘が刻まれていましたが、そのなかに「国家安康」「君臣豊楽」の銘文があることがわかり、徳川方は呪詛の意図があるものとして豊臣方を詰問しました。「国家安康」は、家康の名前を断ち切っていること、「君臣豊楽」は徳川家をおとしめて豊臣家の繁栄のみを祈るものだというのです。

もともと秀吉が創建した寺院ですから、「君臣豊楽」は単純に豊臣家の繁栄を祈ったものなのでしょう。ただし、「国家安康」のほうは、意図的に家康の名前を断ち切っているのは確かです。家康の言いがかりだとの見解もありますが、意図して銘文を選定したのは間違いありません。当時の人々は、現代人よりもはるかに名前を神聖視していました。相手のことを直接に名前で呼ぶことすら憚っていたくらいです。そうした慣習を踏まえれば、「国家安康」の銘文がいかに不適切かわかります。銘文を選定した南禅寺の僧である文英清韓は、祝意の意図だと弁明していますが、詭弁にすぎません。

豊臣方の呪詛と判断した家康は、問題解決の方法として、

1. 秀頼が江戸に参勤する
2. 秀頼の母淀殿を人質として江戸に送る 
3. 秀頼が大坂を退去して国替えに応じる

のいずれかの条件を受け容れるように迫りました。このとき、秀頼がいずれかの要求をのんでいれば、一大名として豊臣家は存続できたかもしれません。家康の目的は、豊臣秀頼を服属させることにあったのであり、必ずしも、滅亡に追い込む意図はなかったとみられるからです。しかし、豊臣方がいずれの条件も拒絶したことで、家康は10月1日、ついに大坂攻めを決意し、諸大名に出陣を命じました。


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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史

著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
  『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
  『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
  『天空の城を行く』(平凡社、2015)ほか多数。

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