2018/11/01
【城下町ヒストリー・柳川編】「旧領復帰を果たした大名」立花宗茂のターニングポイントとなった6つの城
関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗れてしまうものの、徳川幕府の時代に人望と力量を認められ、旧領復帰を実現した唯一の大名・立花宗茂(たちばなむねしげ)。若かりし頃は、強力な個性をもった実父と養父に従いながら九州北部で過ごしました。功績を認められ豊臣秀吉より与えられた柳川。関ヶ原の戦いで敗北し失うものの、陸奥棚倉(福島県棚倉町)で大名として再スタートし、ついには旧領である柳川藩主として復帰します。72歳で島原の乱に出陣するまでの波乱万丈の人生を、6つの城をたどりながらみていきましょう。
立花宗茂愛用の大輪貫鳥毛頭形兜が描かれた絵馬(三柱神社)
養父「鬼道雪」と共に守った立花城(福岡県福岡市・粕屋郡新宮町・久山町)
立花城は、立花山全体を要塞とした大規模な山城
豊臣秀吉に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と称され、徳川四天王の槍の名手・本多忠勝と並べられた立花宗茂。元々は、戦国時代に九州で大きな勢力を誇った、大友家の家臣でした。立花宗茂が、豊臣秀吉や徳川家康に認められる逸材として成長する上で、大きな影響を与えたのが2人の「父」です。
永禄12年(1569)、立花宗茂は大友家の重臣であり、歴戦の猛者と名を馳せた高橋紹運(たかはしじょううん)の長男として誕生(※永禄10年との説もあり)。当時の大友家には同じく勇猛な働きで大友家の大黒柱を担っていた戸次道雪(べっきどうせつ)という武将がいました。男子に恵まれなかった戸次道雪は、高橋紹運の長男(後の立花宗茂)に目を付け、最初は断られるものの熱意で押し切り、天正9年(1581)年に養子とします。この戸次道雪の娘が、のちに「女城主」として知られる立花誾千代(たちばなぎんちよ)です。
立花宗茂と養父・戸次道雪、妻・立花誾千代が祀られる三柱神社
戸次道雪は、主君である大友宗麟に対して幾度と諫言し、落雷を刀で斬ったという伝説が残るほど豪胆な人物。歴戦の武功が認められ、「西大友」と称された名門・立花家を継ぐことになりましたが、主家である大友家を裏切った立花城主・立花鑑載(たちばな あきとし)を討った後だったため、道雪は立花姓を名乗らなかったとされています。
立花城は、城下に博多湾を望む重要な場所に位置し、信頼できる武将として戸次道雪が任されました。戸次道雪とともに立花宗茂も立花城を守ったといわれています。
実父・高橋紹運が壮絶な最期を遂げた岩屋城(福岡県太宰府市)
岩屋城跡に立つ「嗚呼壮烈岩屋城趾」の石碑。高橋紹運の家臣の子孫により建てられた
立花宗茂にとって大きな転機が訪れるのは天正13年(1585)。全盛期の大友家の面影はなく、薩摩から攻勢を強める島津軍に対し防戦一方の時期でした。この大事な時期に、大友軍の大黒柱である戸次道雪が陣中で死去。翌年には、高橋紹運が守る岩屋城も陥落してしまいました。高橋紹運は、わずか700余りの兵で島津軍5万の兵に立ち向かい、壮烈な最期を遂げたとされます。立花城に籠る立花宗茂を守るため、島津軍の最前線になる岩屋城をあえて高橋紹運は選び奮戦。その甲斐あって豊臣秀吉の軍勢が九州に到着し、立花城は寸前のところで落城をまぬがれました。
豊臣秀吉への貢献が認められ得た柳川城(福岡県柳川市)
柳川城跡。現在は柳城中学校の校庭の一隅に石垣の一部と小丘がみられる
豊臣秀吉軍のもとで島津攻めに加わり、九州平定に貢献。その功で立花家は大友家から独立し、筑後柳川に新たな領地を得ることになりました。天正15年(1587)に柳川入城後、本格的に柳川城整備に取り組みます。文禄5年(1596)頃から天守閣の建造を含めた柳川城の本格的な改修が開始されたといわれています。立花宗茂は、文禄元年(1592)に始まる文禄・慶長の朝鮮出兵に従軍したため、柳川城を離れることが多く、遠方から指示を出していたのです。
ちなみに戦国時代末期の柳川城は、二方を海で囲まれ、二方は堀割が縦横に入るため、非常に堅固な城であると記録されています。武勇を轟かせた養父・戸次道雪すらも攻めあぐねた柳川城へ、立花宗茂は入城することになったのです。
関ヶ原の戦いで攻略するものの運命を大きく変えた大津城(滋賀県大津市)
大津城跡付近から眺める琵琶湖。関ヶ原の戦い後、大津城は廃城となった
慶長3年(1598)、立花宗茂は豊臣秀吉の死を契機に朝鮮出兵から柳川へと戻るものの、慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いが始まり、西軍(豊臣軍)に味方しました。大津城(滋賀県大津市)の京極高次(きょうごくたかつぐ)が東軍(徳川軍)に寝返ったため、立花宗茂は大津城攻めに参戦することに。大津城を攻略しますが、関ヶ原の戦いには間に合いませんでした。
西軍敗戦の報に接し大坂城に入城するものの、その後柳川に帰還。柳川で加藤清正や鍋島直茂ら東軍側の武将と戦いますが、加藤清正の要請を受けて開城します。妻・立花誾千代や家臣の多くが加藤清正に預けられる一方、立花宗茂は少数の家臣とともに上洛し、徳川家康の許しを得るのを待つことになりました。
大名復帰のきっかけとなった赤館城(福島県棚倉町)
立花宗茂が再起を図った赤館城跡。立花宗茂の後に赤館城主となった丹羽長重は平地に城を移した
浪人となった立花宗茂は、加藤清正などから家臣となるように誘われるも謝絶。その後、慶長11年(1606)、家康の嫡男・徳川秀忠の御伽衆となり陸奥棚倉(現在の福島県棚倉町)に1万石を与えられて赤館城主として大名に復帰。立花宗茂40歳の年でした。その後は2度にわたる大坂の陣にも出陣しました。
関ヶ原の戦いの後、筑後一国を領有したのは田中吉政でしたが、田中吉政の子、田中忠政が元和6年(1620)に没すると、無嗣(後継ぎがいない)のため田中家は改易されます。そして田中家が領有していた筑後国のうち、南筑後が立花宗茂に割り当てられ、念願の柳川の旧領に復帰することになったのです。加藤家へ預けていた旧家臣団を呼び戻すなどして家臣団を再編し、領国支配を進めていきます。数多くの大名の中で、旧領を回復した大名は立花宗茂ただ一人です。
人生最期の戦いの舞台となった原城(長崎県南島原市)
原城跡本丸に立つ天草四郎像。70歳を超えての原城攻めに際し立花宗茂は何を思ったのだろうか
柳川を回復した立花宗茂は、次第に権限を息子の立花忠茂に移していきますが、寛永14年(1637)に起きた島原の乱では、3代将軍・徳川家光の命令で戦闘に参加しています。幕府軍の苦戦が続く中、戦国の生き証人として頼りにされました。島原の乱後には、相伴衆(しょうばんしゅう・宴席や他家訪問に付き従う人々)に加えられ、徳川家光からの信頼の大きさが伺えます。島原の乱で立花宗茂が采配を振るった際、諸大名家の武将たちに「武神再来」と畏れられたという話も残っています。
波乱万丈の人生でしたが、寛永19年(1642)年、76歳で幕を閉じます。その後も立花家は柳川藩主として明治維新まで続き、明治維新後には華族に列して伯爵を授けられました。柳川城の天守は残っていませんが、「柳川藩主立花邸 御花」でその栄華を偲ぶことができます。
立花宗茂が礎を築いた立花家の栄華を物語る柳川藩主立花邸 御花
九州の大部分を治めた大名・大友宗麟に始まり豊臣秀吉、徳川家康・秀忠・家光からも大きな信頼を得た立花宗茂。その類まれな人生を偲びながら、ゆかりの城をめぐってみてはいかがでしょうか。
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・【城下町ヒストリー・柳川編】柳川城に代わり立花家の暮らしが残る柳川藩主立花邸 御花 https://shirobito.jp/article/509
<基本情報>
立花城(立花山城)
住所:福岡県福岡市東区立花山
アクセス:JR鹿児島本線筑前新宮駅からコミュニティバスで「立花小学校前」下車、徒歩約15分で登山口
住所:福岡県太宰府市観世音寺字大浦谷
アクセス:西鉄太宰府線太宰府駅から徒歩約40分
赤館城跡
住所:福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字風呂ケ沢
アクセス:JR水郡線磐城棚倉駅から徒歩約30分
住所:福岡県柳川市本城町82-2
アクセス:西鉄柳川駅から西鉄バス「早津江」方面行きで10分、「柳川高校前」下車すぐ
住所:滋賀県大津市浜大津
アクセス:JR琵琶湖線大津駅から徒歩約15分
住所:長崎県南島原市南有馬町
アクセス:島原鉄道バス「原城前」バス停から徒歩15分
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執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。30代の城愛好家。国内旅行業務取扱管理者。出版社にて旅行雑誌『ノジュール』などを編集。退職し九州の城下町に移住。観光PRやガイドの傍ら、「城と暮らし」をテーマに執筆・撮影。『地域人』(大正大学出版会)など。海外含め訪問城は500以上。知識ゼロで楽しめる城の情報発信を目指す。
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています