いわやじょう

岩屋城

岡山県津山市


旧国名 : 美作

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①二の丸跡下の大堀切
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昌官忠

(中国地方と兵庫県佐用町)遠征12日目:岩屋城 (2026/05/22 訪問)

医王山城から車で50分弱で、岩屋城第一駐車場(35.072460、133.839606)に着き、説明板と案内板を確認しました。
その後、岩屋城第二駐車場(35.074710、133.839956)に向かい登城開始です。

嘉吉の乱(1441年(嘉吉元年))により赤松満祐に替わって山名教清が美作国守護職に任じられ、築いたのが岩屋城と云われています。
応仁の乱(1467年~1477年)で山名政清が兵を率いて京に上り、山名忠政が岩屋城を守備していましたが、大内義弘に乞われて忠政も京に上ったため、赤松氏はこの隙に美作に侵攻し岩屋城を落としました。
1473年(文明5年)赤松政則が美作国守護職になると、その部将大河原治久を城主としました。
1520年(永正17年)赤松氏家臣の備前国三石城主浦上村宗が謀反をおこして岩屋城を攻略すると、中村則久を置きました。 赤松氏は小寺範職・大河原治久らを送り攻撃させますが落城しませんでした。
1544年(天文13年)尼子氏が美作に侵攻し尼子国久によって岩屋城、小田草城、医王山城などが尼子氏に降り、尼子氏によって美作が支配されます。
しかし、毛利氏によって尼子氏は滅ぼされると毛利と結んでいた宇喜多氏に属して浜田家職が城主となりました。
宇喜多直家は毛利を離反して織田信長の家臣である羽柴秀吉と組むと、毛利氏によって攻められ落城し、1581年(天正9年)には毛利方の葛下城主中村頼宗が城主となります。
1582年(天正10年)備中高松城の合戦で毛利氏と羽柴氏が和睦をすると、美作は宇喜多氏に割譲されます。
美作国が宇喜多氏に割譲された後も岩屋城主の中村頼宗は城を明け渡さず、1584年(天正12年)宇喜多氏は家臣の花房職秀を遣わし、周囲に陣城群を築いて攻め立てます。
しかし、数ヶ月に及ぶ攻城戦でも岩屋城は落ちず、やがて毛利氏のもとに寄寓していた将軍足利義昭の調停によって開城しました。
宇喜多氏は長船越中守を置いたが、1590年(天正18年)野火によって焼失し廃城となったと伝わっています。

ぴーかるさんの投稿に従い、登山道見学コースの逆、第二駐車場から舗装道を登っていき、第一駐車場に下りてきました。
感想としては、ぴーかるさんの投稿通り、こちらのルートの方が楽だと思います。(楽だと言っても、それなりにきついです)
現在城址には遺構が良好に保存されており、巨大な畝状竪堀群や大堀切などが残っています。
攻城時間は90分くらいでした。次の攻城先=高田城に向かいました。

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ぴーかる

岩屋城 (2024/01/04 訪問)

【岩屋城】
<駐車場他>第一駐車場5台分程度、第二駐車場20台分程度あり。
<交通手段>車

<見所>曲輪切岸・堀切・畝状竪堀群
<感想>現地説明板によると岩屋城は1441年に山名教清が嘉吉の乱の論功行賞により美作国の守護に任ぜられた際に築城されたとされます。その後赤松氏や浦上氏、その家臣が裏切って尼子氏に付いたりして混沌とした勢力下において城主が変わりますが、戦国時代後半には宇喜多氏の支配下の城となります。1581年に宇喜多氏が毛利氏を離れ織田氏に付いたことから岩屋城は毛利氏に攻略されます。1582年の備中高松城の戦い終了後に領土の境目を高梁川とするが、それより東側にいた美作の毛利氏の諸将が抵抗します。岩屋城の周囲に包囲する陣城跡はこの時の宇喜多氏による武力接収戦による籠城攻めの跡と思われます。その後調停により再び宇喜多氏の城として戻り、宿老の長船貞親の城となりますが1590年に野火により焼失し廃城となったようです。

 第一駐車場に説明板と登山道見学コースの案内板があります。第一駐車場脇に登山口があり城跡を一巡りして第二駐車場に出るルートになっていますが、第一駐車場から登ると遊歩道にはなっているものの、主郭まで1000m程の登山となりますので、お勧めは登山道見学コースの逆走、第二駐車場から舗装道を登っていくのが楽だと思います。

 城跡へは見学コース順に、慈悲門寺砦跡、ここは本郭以外はかなり藪化して東西にある曲輪群を散策するのは難しいです。本郭には中心に堀か庭園跡の石積みの仕切りがあります。最奥に坊跡かの土壇の土盛があります。次に山王宮跡、ここは巨岩壁の岩窟に権現様を祀った祠があります。明治初期まで祠で一杯だったそうです。拝殿跡には土台の石積みが残ります(江戸時代のものかも)。

 城跡は見学コース順に門跡⇒人工の龍神池⇒三の丸は3段の連郭⇒馬場の帯曲輪を通り馬場曲輪⇒主郭⇒二の丸は小さい尾根曲輪⇒二の丸北東部の大堀切はでかくて見応えあり。⇒城跡の北東側にある「手のくぼり」という畝状竪堀群は現地に十二条とありますが、実際数えてみて、表面観察できるのは八条でしたが、かなり見応えありました。そこから急坂の舗装道を降りて第二駐車場に至りますが、舗装道なので先に記述した逆走ルートの方がよかったかもと思ったわけです。大堀切、畝状竪堀、主郭を中心に馬蹄形状の連郭が見応えある素晴らしい城跡でした。私の先の投稿で宇喜多氏軍の陣城群の一つ、荒神の上砦(城びと未登録)にも行ったので御参考にしてもらえれば。陣城も全て巡ると1日楽しめる城跡群です。
 この日は2024年新年最初の日帰り城跡巡りとして、満足度の高い城跡ばかりで楽しめました。518㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆

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小城小次郎

ネーミングセンス抜群だが格調も高い (2021/05/03 訪問)

「嗚呼壮烈」の岩屋城(福岡県)もよいが岡山の岩屋城もまたなかなか。「落し雪隠」のネーミングセンスは横地城(静岡県)の「なんとか落し」と双璧と言ってもよいのかも。それはさておき全般に格調の高さが滲み出るよい城だ。

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準平原の吉備高原 (2021/03/07 訪問)

城びと先達の投稿を見て行きたい城にノミネート。
国道から谷筋に入ると岩屋城家臣の屋敷跡の表示が道脇に連なり、気持ちが高まる。
先達の推す、てのくぼり(テクノ堀に語呂が近い😅)は、もちろん、たくさんの兵力が駐屯できる山頂の郭群も良い。
美作の山城を含め吉備高原の山城に登ると、見渡す山々の頂部の高さが揃っていることをいつも思う。吉備高原は、一旦平坦になった土地が隆起して再び侵食が始まった地形である。岩屋城も堆積岩が浸食されて急峻な斜面を作った山である。岩屋城のかなり高いところに湧き水があるのは、近くの山が同じ高さにあるからであろう。

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城郭情報

分類・構造 梯郭式山城
天守構造 なし
築城主 山名教清
築城年 嘉吉元年(1441)
主な城主 山名氏、赤松氏、浦上氏、尼子氏、毛利氏、宇喜多氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、畝状竪堀、虎口
指定文化財 県史跡(岩屋城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 岡山県津山市中北上
問い合わせ先 津山市教育委員会生涯学習部文化課
問い合わせ先電話番号 0868-24-8413