医王山城から車で50分弱で、岩屋城第一駐車場(35.072460、133.839606)に着き、説明板と案内板を確認しました。
その後、岩屋城第二駐車場(35.074710、133.839956)に向かい登城開始です。
嘉吉の乱(1441年(嘉吉元年))により赤松満祐に替わって山名教清が美作国守護職に任じられ、築いたのが岩屋城と云われています。
応仁の乱(1467年~1477年)で山名政清が兵を率いて京に上り、山名忠政が岩屋城を守備していましたが、大内義弘に乞われて忠政も京に上ったため、赤松氏はこの隙に美作に侵攻し岩屋城を落としました。
1473年(文明5年)赤松政則が美作国守護職になると、その部将大河原治久を城主としました。
1520年(永正17年)赤松氏家臣の備前国三石城主浦上村宗が謀反をおこして岩屋城を攻略すると、中村則久を置きました。 赤松氏は小寺範職・大河原治久らを送り攻撃させますが落城しませんでした。
1544年(天文13年)尼子氏が美作に侵攻し尼子国久によって岩屋城、小田草城、医王山城などが尼子氏に降り、尼子氏によって美作が支配されます。
しかし、毛利氏によって尼子氏は滅ぼされると毛利と結んでいた宇喜多氏に属して浜田家職が城主となりました。
宇喜多直家は毛利を離反して織田信長の家臣である羽柴秀吉と組むと、毛利氏によって攻められ落城し、1581年(天正9年)には毛利方の葛下城主中村頼宗が城主となります。
1582年(天正10年)備中高松城の合戦で毛利氏と羽柴氏が和睦をすると、美作は宇喜多氏に割譲されます。
美作国が宇喜多氏に割譲された後も岩屋城主の中村頼宗は城を明け渡さず、1584年(天正12年)宇喜多氏は家臣の花房職秀を遣わし、周囲に陣城群を築いて攻め立てます。
しかし、数ヶ月に及ぶ攻城戦でも岩屋城は落ちず、やがて毛利氏のもとに寄寓していた将軍足利義昭の調停によって開城しました。
宇喜多氏は長船越中守を置いたが、1590年(天正18年)野火によって焼失し廃城となったと伝わっています。
ぴーかるさんの投稿に従い、登山道見学コースの逆、第二駐車場から舗装道を登っていき、第一駐車場に下りてきました。
感想としては、ぴーかるさんの投稿通り、こちらのルートの方が楽だと思います。(楽だと言っても、それなりにきついです)
現在城址には遺構が良好に保存されており、巨大な畝状竪堀群や大堀切などが残っています。
攻城時間は90分くらいでした。次の攻城先=高田城に向かいました。
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