理文先生のお城がっこう 歴史編 第47回 織田信長の居城(一門衆の城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは、織田信長の子どもや親族の城についてです信長は自分の子どもたちの間に明確な序列を付けていました。その地位の違いに注目しながら、彼らが拠点とした城を見ていきましょう。

天正9年(1581)2月28日、織田信長(おだのぶなが)は畿内(きない)(およ)び近隣諸国(きんりんしょこく)の大名・小名・武将(ぶしょう)たちを呼(よ)び出し、優(すぐ)れた馬を集め、京都で史上(しじょう)空前の御馬揃(おうまぞろ)(現在(げんざい)の軍事パレードです)を行いました。内裏(だいり)(天皇(てんのう)の居所(きょしょ)を中心とする御殿(ごてん)のことです)の東側に、南北の長さ八町(約800m)の馬場(ばば)(乗馬を行うための場所です)を築(きず)き、内裏の東門築地(ついじ)の外に、天皇、公卿(くぎょう)(公家(くげ)の中でもとても位(くらい)の高い人たちです)殿上人(てんじょうびと)(天皇の日常(にちじょう)生活の場である清涼殿(せいりょうでん)の殿上間に昇(のぼ)ることを許(ゆる)された者のことです)たちが見物するための仮の宮殿(きゅうでん)を建て、もてなしたのです。この時参加した織田家一門衆の並(なら)んだ順番と参加した人数こそが、一門の中での優劣(ゆうれつ)をはっきりと表していたのです。そして、この順番は、城造(づく)りにも反映(はんえい)されていました。

織田家一門衆の地位と城

織田家一門衆(いちもんしゅう)の地位と序列(じょれつ)を見ておきたいと思います。それは、前述(ぜんじゅつ)の馬揃えからはっきりと分かります。

①織田信忠(のぶただ)(嫡男(ちゃくなん))騎馬(きば)80騎
➁織田信雄(のぶかつ)(次男)騎馬30騎
③織田信包(のぶかね)(弟)騎馬10騎
④織田信孝(のぶたか)(三男)騎馬10騎
➄織田信澄(のぶずみ)(甥(おい))騎馬10騎
次いで、織田長益(ながます)(弟)・織田長利(ながとし)(弟)・織田勘七郎(かんしちろう)(甥)・織田信照(のぶてる)(弟)・織田信氏(のぶうじ)(甥)・織田周防(すおう)(?)・織田孫十郎(まごじゅうろう)(叔父(おじ))と続いていました。

一門衆の中でも、特別な地位を認(みと)められていたのは騎馬武者(むしゃ)たちを引き連れた5人の人たちでした。中でも信忠は、天正3年(1575)家督(かとく)(織田家のすべての所領(しょりょう)と財産(ざいさん)のことです)を譲(ゆず)られ、織田家発祥(はっしょう)の地の尾張(おわり)・美濃(みの)を支配(しはい)していました。さらに、信長の前の居城(きょじょう)岐阜城(岐阜県岐阜市)も譲られ、織田一門衆と織田家家臣団(かしんだん)の最上位の地位をしっかりと保(たも)っていたのです。次いで、次男の信雄の地位が高く、その後に他の3人が続くことになります。この5人の一門衆には居城を築くことが認められ、天守を築き、その天守に信長の安土城(滋賀県近江八幡市)と同様の瓦(かわら)もしくはそれに準(じゅん)ずる瓦を葺(ふ)く特権(とっけん)が与(あた)えられていたのです。

岐阜城
織田家にとって特別な城は、信長が居城とした清洲(きよす)城・小牧山(こまきやま)城・岐阜城の3城でした。中でも、天下布武(ふぶ)の拠点(きょてん)となった岐阜城は特別で、嫡男・信忠、嫡孫(ちゃくそん)・秀信が城主となっています

織田家一門衆の城

一門衆で最高位の信忠は、天正5年(1577)に従三位(じゅさんみ)左近衛権中将(さこんえのちゅうじょう)の地位を与えられ公卿に列され、前後して信長に替(か)わり総帥(そうすい)(織田全軍を率(ひき)いて指揮(しき)する人のことです)としての役割(やくわり)を担(にな)うことになります。鎌倉(かまくら)時代以降(いこう)では、正三位叙任(じょにん)を持って征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となるのが慣例(かんれい)(繰(く)り返し行われて習慣のようになっていることです)となっていましたので、この段階(だんかい)で信忠は将軍一歩手前まで登り詰(つ)めたことになります。城は、信長の居城を引き継(つ)いでいるわけですから、信長と同じ仕様の城を居城としていたことになります。

岐阜城
永禄10年(1568)、美濃を攻略(こうりゃく)した信長は、名を岐阜城と改めます。信長から家督を譲られた信忠は、信長からそのすべてを譲られました。この時、すでに天守が存在した可能性が、近年の発掘調査(はっくつちょうさ)の成果で高まりました

天正3年(1575)、次男の信雄は、伊勢(いせ)国司北畠(きたばたけ)家の養子(ようし)として家督を相続し、田丸城(三重県玉城町)へ入城しました。信雄は、大改修(かいしゅう)を施(ほどこ)し本丸・二の丸・北の丸を造り、三重天守を築いたといいます。しかし、同8年(1580)煙硝蔵(えんしょうぐら)放火により大火災が発生。天守をはじめとする大部分の建物が炎上(えんじょう)焼失してしまいます。現在残る石垣(いしがき)は、その後の改修によるもので、天台を含(ふく)め信雄時代のものではありません。

焼失した田丸城は再建されることなく、信雄は新城を伊勢湾(わん)に面した松ヶ島の地に求めます。詳(くわ)しい記録は残らずその姿(すがた)は分かりませんが、信長の安土城、信忠の岐阜城と共に織田一門衆を代表する城の一つで、五重天守が聳(そび)え立っていたといいます。天正16年(1588)、蒲生氏郷(がもううじさと)は新しく松坂城(三重県松阪市)を築くに際(さい)し、松ヶ島城(三重県松阪市)の木材、石材、瓦等の資材(しざい)は再利用(さいりよう)するため運び出しました。現在、城跡(じょうせき)周辺は水田や畑等となり城の面影(おもかげ)は見られません。唯一、畑の中に通称(つうしょう)「天守山」と呼ばれる高さ3~4m、幅(はば)約20mの小丘陵(きゅうりょう)を残すだけです。付近から金箔瓦(きんぱくがわら)の破片(はへん)等が数多く出土するだけではなく、移設(いせつ)されたと伝わる松坂城からは「天正七年」と年号が書かれた瓦や安土城と同じ金箔瓦も確認(かくにん)されており、信雄の松ヶ島城天守は、金箔瓦がキラキラと鮮(あざや)やかに輝(かがや)く贅沢(ぜいたく)で美しい城だったことが分かります。

松ヶ島城
現在の松ヶ島城跡は、水田や畑等となり城があったことすら分かりません。唯一、畑の中に通称「天守山」と呼ばれる小山が残るのみです。かつて、ここには織田家一門の城であることを示す金箔瓦で飾(かざ)られた光り輝(かがや)く天守が存在していたのです。

伊勢の神戸(かんべ)家の養子となっていた三男・信孝は、家督を相続すると神戸城(三重県鈴鹿(すずか)市)へと入城しました。北伊勢から反対勢力(せいりょく)を取り除いた天正8年(1580)、信孝は神戸城の大改修に乗り出しています。現在の城は、本多氏によって築かれたものですが、現存(げんぞん)する天守台は、天守を中心に北東に小天守(こてんしゅ)、南西に付櫓(つけやぐら)が付属(ふぞく)する複合式(ふくごうしき)の天守です。石垣の積み方から、信孝時代の可能性が高いと思われます。江戸時代の記録に、天守は五重六階で石垣上より約20mとあり、文禄(ぶんろく)4年(1595)に解体(かいたい)され、桑名(くわな)城(三重県桑名市)に部材が運ばれ三重櫓として再生され「神戸櫓」と呼ばれることになったと伝わります。昭和40年(1965)、本丸の東で金箔役物(やくもの)が発見されており、信孝の天守も安土城と同様の金箔瓦が使用されていた可能性があります。

神戸城天守台
神戸城天守台は、野面積(のづらづみ)の古式を留(とど)めており、信孝時代に遡(さかのぼ)る可能性があります。松ヶ島城と同様の、光輝く天守が建っていたのかもしれません

天正6年(1578)、高島郡を領有した津田信澄(つだのぶずみ)は、新庄(しんじょう)城(滋賀県高島市)を廃し、大溝(おおみぞ)(滋賀県高島市)の築城を開始します。「織田城郭(じょうかく)絵図面」(横田家文書)によれば、本丸は琵琶湖(びわこ)の内湖でウラウミと呼ばれていた乙女ヶ池(おとめがいけ)に突出(とっしゅつ)し、その東南隅(すみ)に天守が築かれ、他の3ヶ所の隅に櫓が置かれていたことが分かります。

現存する天守台は、約15×13mの規模(きぼ)で巨大(きょだい)な自然石を積み上げた野面積、北側に一段低い平坦面(へいたんめん)が付設(ふせつ)し、複合式の天守であった可能性が高いと思われます。発掘調査によって金箔を貼(は)られていないものの安土城と同じ瓦が出土しています。天守は、同13年(1585)には取り壊(こわ)され、その用材は中村一氏(なかむらかずうじ)が築城を始めた水口岡山(みなくちおかやま)(滋賀県甲賀(こうが)市)へ運ばれたと記録に残されています。水口岡山城の発掘調査で、大溝城と同范(どうはん)(同じ版型(はんけい)から造られた瓦のことです)が出土し、記録が事実であったことが裏(うら)付けられました。

大溝城天守台
大溝城の天守台は野面積で、神戸城に非常(ひじょう)によく似(に)ています。発掘調査によって、安土城と同じ瓦が使用された建物があったことが分かりました。安土城の余(あま)った瓦を運んだのか、同じ版木を使用して瓦を製作(せいさく)したかははっきりしませんが、安土城に準ずる天守があったことは確実です。

一門衆の4人の城の状況(じょうきょう)は前述のとおりですが、序列3位の信包の居城の状況がまったく判明していないのです。信包が、天正5年(1577)頃から安濃津(あのつ)(現在の三重県津市)の地に築いた居城には五重天守と小天守があったとされます。この天守は、関ヶ原の戦いにより焼失してしまい、さらにその後の藤堂高虎(とうどうたかとら)による津城大改修により信包の城は大きく破壊(はかい)を受けたと考えられています。津城跡(あと)からは、信包時代の遺構(いこう)や遺物(いぶつ)は確認されていないため、その城の姿は、はっきりしていません。

これら一門衆のナンバー5までの城(未発見の信包の津城を除く)には、必ず天守が存在し、金箔瓦、もしくは安土城と同様の瓦が認められます。ルイス・フロイスによると「信長は、彼の城に用いたのと同じ瓦の使用を、他のいかなる者にも認めなかった」とあるため、出土状況を含めて考えるなら、「信長は、彼の城に用いたのと同じ瓦の使用を、一門衆以外他のいかなる者にも認めなかった」ということになり、織田一門衆の城が安土城に次ぐ、贅沢で素晴らしい城であったことが判明するのです。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

煙硝蔵(えんしょうぐら)
焔硝蔵とも書きます。火薬を貯蔵(ちょぞう)するための建物です。火薬庫(かやくこ)とも言います。焔硝に硫黄(いおう)と木灰(きばい・もっかい)を混(ま)ぜると黒色火薬ができると言われます。

※金箔瓦(きんぱくがわら)
軒丸(のきまる)瓦、軒平(のきひら)瓦、飾り瓦などの文様(もんよう)部に、漆(うるし)を接着剤(せっちゃくざい)として金箔を貼った瓦のことです。織田信長の安土城で最初に使用が始まったと考えられています。

小天守(こてんしゅ・しょうてんしゅ)
天守に付属する櫓のうちで、最上階が天守本体と離(はな)れて独立(どくりつ)している建物を小天守と言います。小天守は、一基(き)とは限(かぎ)りません。姫路(ひめじ)城には三基の小天守が付設しています。

※付櫓(つけやぐら)
本来は天守に続く櫓のこと。天守と接続(せつぞく)する例が多く見られますが、渡櫓(わたりやぐら)によって接続する例もあります。

複合式天守(ふくごうしきてんしゅ)
天守に直接くっついて小天守あるいは付櫓を設けた形式です。小天守のみが付く場合、付櫓のみの場合、両者が付設することもあります。

役物瓦(やくものがわら)
屋根に葺(ふ)く基本的な平瓦(ひらがわら)・丸瓦(まるがわら)以外の屋根を飾るために作られた特殊な役割を果たしている瓦のことです。垂木の先を飾る「垂木先(たるきさき)瓦」や、隅棟(すみむね)の尻(しり)部分(軒先から見えない側)を覆(おお)う瓦の留蓋(とめぶた)などです。鯱(しゃち)や鬼瓦(おにがわら)や鳥伏間(とりぶすま)も役物瓦に分類(ぶんるい)されます。

同范瓦(どうはんがわら)
軒瓦の型を「范(はん)」と言い、同じ范(型)で作った瓦のことを同范瓦と言います。同じ型で造っているため、製品の生産体制(たいせい)や、供給(きょうきゅう)状況を知ることが出来ます。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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