2021/12/17
【緊急レポート】27年ぶりに出現!坂本城の「幻の石垣」が姿を現す
明智光秀が城主だった坂本城は、地上にいっさいの遺構を残さないため「幻の城」と呼ばれています。2021年11月、琵琶湖の水位が低下したことにより、普段は湖底に沈む石垣が姿を現しました。見学者が多く詰め寄せている現地の様子をレポートします。
湖底から27年ぶりに出現した坂本城の石垣。幻の城の遺構が水面下から現れるなんて、なんともロマンがある
時代を先駆けた天主の建つ水城
滋賀県というと、城ファンには名城の産地として聖地扱いされているが、一般的には「琵琶湖が大半を占めている」というイメージが強い。とかく関西圏では、琵琶湖しかないことをいじられることが多く、それに対して「琵琶湖の水止めたろか」と反撃するのが、滋賀県民のお決まりのご当地ギャグになっている。
この「琵琶湖の水止めたろか」がジョークではすまない状況が続いている。秋以降の降水量が少なく、琵琶湖の水位が下がっているのだ。例年、この時期の水位は-30cm程度が一般的なのだが、11月下旬の段階で-70cmに迫ろうかというところまで下がってしまい、取水制限を危惧する報道も流れていた。(12月上旬の原稿執筆時点で-55cm程度)
雨が少ないのは困った問題なのだが、城ファンにはある朗報をもたらした。あの坂本城(滋賀県)の幻の石垣が、琵琶湖の水位低下によって姿を現したというのだ。石垣といっても一番下で石垣を支えていた根石(礎石)だけなのだが、地上に痕跡を残さない坂本城にとっては、普段は水面下に沈む根石はたいへん貴重な遺構なのである。
坂本城址公園には城主であった明智光秀の石像が立つ(ややずんぐりむっくりなのが気になるが…)。公園は本来の城跡からやや離れている
なぜ坂本城は“幻”と呼ばれるのか、簡単にその歴史を振り返ってみよう。
坂本城の築城を命じたのは織田信長。よく知られた比叡山焼き討ちの直後に築かれた城で、対抗勢力であった比叡山延暦寺をけん制し、交通の要衝を守護する目的があった。このような重要な城の城主に任じられた明智光秀は大抜擢だったといえるだろう。信長の城である安土城・長浜城・大溝城(いずれも滋賀県)とともに琵琶湖ネットワークの一角を成しており、湖上輸送されて坂本城から荷揚げされた物資が京都・大坂へと運搬されていった。
坂本城は2つの点で城郭史に名を残す。1つ目は総石垣の城だったこと。比叡山のお膝元である坂本の地は古くから石工が栄え、石垣技術の発展に尽くした穴太衆(あのうしゅう)発祥の地でもある。この技術が存分に活かされ、坂本城は当時としてはめずらしく城全体が石垣造りだった。2つ目は最初期の天守(信長時代は「天主」と記す)が建っていたこと。天主のはじまりは安土城とされることが多いが、記録から安土城築城以前の天主があったことが判明している。信長にとって、坂本城はある種実験的な城だったようだ。
このように城郭の発展に多大な功績を残した坂本城だが、ご存知のとおり明智光秀は本能寺の変で信長を討ち、逆賊として豊臣秀吉によって滅ぼされてしまう。光秀死後もしばらく活用されるが、秀吉の天下が確立すると、徹底的に壊されてしまった。建物や石垣の多くは近隣の大津城(滋賀県)建設に用いられたとされ、坂本城は縄張(曲輪などの構造)も含めて、すべて失われてしまったのだ。
坂本城は湖を背にした連郭式の縄張で、本丸が湖に突出していたとされる(国土地理院地図をもとに作成)
史料から大天主と小天主の存在が確認でき、連立式天主があったと考えられる。また、城内には舟入があり、輸送船が直接乗り入れていたとされる(イラスト=香川元太郎)
わずか一列の根石に感じられる歴史ロマン
「坂本城石垣出現!」のニュースを聞いて、現地に足を運んだのは11月下旬のこと。週末だったこともあり、「貴重な石垣を一目見よう」という野次馬、もとい観光客で坂本城址公園は大盛況。公園の駐車場に車が入りきらず、県道(高島大津線)に渋滞ができていたほどだ。(SNS情報によると、12月以降、駐車場は一時利用禁止になっている)
坂本城址公園は本来の城跡ではなく、城跡の大部分は私有地や企業所有地となっている。今回出現した石垣は公園から徒歩2〜3分程度の場所。企業が善意で立ち入りを許可しているとのことだ。あぜ道を通り、茂みを分け入って湖畔に出ると、琵琶湖が広がり、眼前に石垣が姿を見せた!
県道からあぜ道を通って湖のほとりへと向かう。私有地や畑には決して立ち入らないように
途中、ヨシの茂みに通された道を進むことになる。ちょっとした冒険気分
渇水により登場した石垣。湖と平行して根石がまっすぐ並んでいるのがわかる
坂本城は本丸が湖に突き出るような構造であり、今回見ることができたのは本丸の湖に面した側の石垣である。当日の水位は-68cmで、根石の3分の2程度が水面から出ている状況。どこがどう遺構なのかは一見わかりにくいのだが、そう思って見ると根石は一直線に並び、確かにこれが人工物であることがわかる。
まっすぐ並ぶ根石。根石の下にはそれを支える胴木も残されているのだが、今回は見ることができなかった
注目度が高まったことで、11月16日に立入禁止のロープが張られた。石材に触れたり持ち帰ったりすることは厳禁だ
じつは全国的な水不足に見舞われた1994年の渇水では、水位が-123cmまで下がり、石垣の沈下を防ぐための胴木を見ることができたのだが、今回は根石の底まで確認することはできなかった。それでも、27年ぶりに姿を現した貴重な遺構であることにはかわりない。地上にいっさいの痕跡を残さない坂本城の唯一無二の遺構が、一瞬だけ姿を現してまた水面下に沈んでしまうというのは、不思議な歴史ロマンを感じさせる。
1994年の渇水で見られるようになった石垣。この時は-123cmを記録し、根石の底部やその下の胴木まで確認できた(写真提供=ぶん・斉藤文夫[城跡巡り備忘録])
ちなみに、琵琶湖の水位低下によって、遺構が顔をのぞかせた城は坂本城だけではなく、その影響は長浜城にもあった。長浜城では、太閤井戸の石組みが見えるようになったのだ。とはいえ、石組みは平時でも見られる日はあるし、そもそもこの石組み自体は昭和のはじめに築かれたものなので、坂本城の石垣ほど希少性はないかもしれない。ただ、井戸跡の裏側まで歩いて回ることができるのはとても珍しいということだ。
左が平時の太閤井戸跡、右が今回の渇水時。昭和初期の渇水のさいに井戸跡の木組みが発見され、石組みが築かれて碑が立てられた。長浜城も坂本城と同様、城の遺構をほぼ残さない
坂本城も長浜城も琵琶湖畔に築かれた信長時代の水城であり、往時の姿が完全に失われているという点で似た境遇にある。琵琶湖畔にはほかに大溝城、今堅田城、大津城、膳所城、瀬田城などがあったが、いずれも城の片鱗を見せないか、城跡のごく一部が公園化されているにすぎない。滋賀県には彦根城や安土城などの名城が数多く残るが、消滅してしまった琵琶湖畔の城も滋賀県を代表する城だったのだ。
執筆・写真/滝沢弘康(かみゆ歴史編集部)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。最近は中世関連の制作物を多数手がける。主な媒体に『キーパーソンと時代の流れで一気にわかる鎌倉・室町時代』(本郷和人監修/朝日新聞出版)、『執権 北条義時』(近藤成一著/三笠書房)、『鎌倉草創 東国武士たちの革命戦争』(西股総生著/ワン・パブリッシング)など。
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