理文先生のお城がっこう 歴史編 第27回 畿内と周辺の城1

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。27回目の今回は都周辺の城について。室町幕府末期に都で起きた激しい支配者争い。その勝者となった三好長慶と、彼が拠点とした芥川山城に注目しましょう。



■理文先生のお城がっこう
前回「第26回 江北地方を支配した浅井氏の城」はこちら

前回(歴史編 第26回 江北地方を支配した浅井氏の城)までは、近江国(おうみのくに)の石垣(いしがき)を持つ城についてまとめてみました。守護(しゅご)の佐々木六角氏や家臣たちの城だけでなく、北近江の戦国大名となった浅井(あざい)氏もまた、石垣の城を使用していたのです。それでは、都周辺の畿内(きない)中枢(ちゅうすう)部は、どんな様子だったのでしょう。今回は、畿内周辺の城について考えてみたいと思います。

三好長慶の台頭

摂津(せっつ)(現在(げんざい)の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)・河内(かわち)(現在の大阪府の南東部)周辺では、幕府(ばくふ)管領(かんれい)(室町幕府において将軍(しょうぐん)に次ぐ最高の役職で、将軍を補佐(ほさ)して幕府の政治(せいじ)を動かしていました)の畠山氏が内輪もめにより、誰(だれ)が次の権力(けんりょく)を握(にぎ)るかの争いを繰(く)り広げていました。この畠山氏の内輪もめの間に、もう一人の管領細川氏が幕府を動かすような力を強めることになります。こうして、畿内周辺では畠山氏と細川氏の両者の勢力を強めようとする争いに、阿波(あわ)(現在の徳島県)から三好氏が加わり、三者がからみあう勢力(せいりょく)争いとなってきました。

また、和泉国(いずみのくに)(現在の大阪府南西部)では畠山氏を支持する根来寺(ねごろじ)(和歌山県岩出市にある新義(しんぎ)真言宗(しんごんしゅう)総本山(そうほんざん)の寺院です)の勢力も活動する領域を広げ、泉南(せんなん)(現在の大阪府南西部)で守護(しゅご)(国単位で置かれた軍事活動の指揮官(しきかん)であり、政策(せいさく)を決定し実行する役職(やくしょく)です)に匹敵(ひってき)する力を持つに至(いた)ったのです。この頃(ころ)、畠山氏は河内に高屋(たかや)(大阪府羽曳野市)を整備(せいび)、細川氏は摂津(せっつ)芥川山城(あくたがわさんじょう)(大阪府高槻市)を築いています。

細川、畠山氏の争いが続く中、三好長慶(みよしながよし)が勢(いきお)いを増(ま)してきます。細川晴元の家臣になった長慶は、裏(うら)切ったり、味方になったりを繰り返しながら、さらに力を蓄(たくわ)え、石山本願寺(全国に影響(えいきょう)を与えた大坂にある浄土真宗(じょうどしんしゅう)の寺院です)からも認(みと)められるようになっていきます。力を蓄えた長慶は、天文17年(1548)かつて敵であった細川氏綱(ほそかわうじつな)・遊佐長教(ゆさながのり)と手を組んで、晴元に反逆(はんぎゃく)することになります。晴元らは、将軍足利義晴(よしはる)・義輝(よしてる)父子らを連れて逃亡(とうぼう)し、都から将軍がいなくなってしまいます。

さらに長慶は、天文(てんぶん)19年(1550)に伊丹(いたみ)(兵庫県伊丹市)を開城させ、摂津を平定し、幕府を思い通りに動かす力を持つようになりました。この時点で、長慶の支配(しはい)する国は畿内を中心に8ヵ国となり、将軍に肩(かた)を並(なら)べる程(ほど)の力を持つ実力者になったのです。以後、長慶は暗殺(あんさつ)未遂(みすい)事件や、将軍の京都奪回を図る侵入戦(しんにゅうせん)を退(しりぞ)け、実力を保(たも)ち続けました。そして、天文21年(1552)、足利義輝の上洛(じょうらく)を条件(じょうけん)和議(わぎ)(両者の言い分を聞いて互(たが)いに合意することです)を結びます。この時、長慶は細川家家臣から将軍家直臣(じきしん)(御供衆(おともしゅう)の格式)(将軍の直接の家臣のことです)となります。この和議によって、幕府は将軍・義輝、管領は細川氏綱、実権を握るのは長慶という都の体制になったわけです。

しかし、この体制も長くは続きません。天文22年(1553)、将軍・義輝が和議を破棄(はき)したのです。長慶が軍を差し向けると、細川晴元軍は敗走、義輝は近江朽木(くつき)(滋賀県高島市)に逃走してしまいます。以後、5年間に渡り義輝は、朽木に滞在(たいざい)、都は完全に長慶の支配下に入ってしまいました。長慶は、この年芥川山城へ入り居城(きょじょう)としました。

芥川山城推定復元イラスト
芥川山城推定復元イラスト(監修:中井均/作画:香川元太郎)。登城者に見せるように大手道脇に石垣が積まれています

長慶と芥川山城

芥川山城は、摂津国最大規模(きぼ)を誇る山城(やまじろ)です。隣接(りんせつ)する帯仕山付城(おびしやまつけじろ)は、芥川山城を攻撃(こうげき)するために長慶が築(きず)いた付城(つけじろ)になります。芥川山城は、丹波(たんば)高地に続く北摂(ほくせつ)山地と大阪平野が接する標高182.69m(比高約110m)の三好山(城山)に位置しています。北から西側にかけて、麓(ふもと)を取り巻(ま)くように芥川が流れ、天然の要害地形を形成していました。東側の帯仕山との鞍部(あんぶ)(山の尾根のくぼんだ所のことです)を、丹波方面へと続く山道が通過(つうか)しています。

天文22年、長慶は芥川山城攻(せ)めのため、東側に帯仕山付城を築き落城に追い込(こ)み、自らの居城としました。長慶は、ここを拠点(きょてん)として、丹波の波多野(はたの)氏を攻撃するなどして、将軍不在の都や畿内周辺を自分の支配下としていきます。城には、長慶と息子の三好義興(みよしよしおき)、松永久秀(まつながひさひで)とその妻、石成友通(いわなりともみち)、藤岡直綱(ふじおかなおつな)ら政権を支(ささ)える重要な人たちが居住(きょじゅう)し、多くの人たちが長慶に様々な許可(きょか)を得るために登城してきたのです。

この他、城内では儒学(じゅがく)(「孔子(こうし)」の教えをもとに、その後弟子たちによって深められていった学問です)を講(こう)じるなど、いろいろな文芸(主に文学や芸術のことです)が行われたと記録されています。長慶は、永禄3年(1560)に飯盛山(いいもりやま)(大阪府四条畷市・大東市)へと居城を移(うつ)しますが、芥川山城は義興が継承(けいしょう)しました。

芥川山城の構造

芥川山城は、標高182.69m(比高約110m)の三好山(城山)の山頂(さんちょう)部を中心に、東西約500m×南北約400mの大きさを持つ山城です。城は、尾根(おね)の上を利用し曲輪(くるわ)を設(もう)けているため、東から西に大きく三地区に分けられます。中心は、西端(せいたん)に位置する最高所のⅠに置かれていたことが、発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)成果でほぼ確実(かくじつ)です。この山頂主郭(しゅかく)から、6.57m×3.9m以上の規模を持つ礎石建物(そせきたてもの)が検出されたのです。

さらに、この建物は礎石配置から(えん)をめぐらせていることも判明(はんめい)し、主殿(しゅでん)と考えられています。主郭から階段状(かいだんじょう)にかなりの面積を有する曲輪群が設けられ、尾根筋の先端や要所には堀切(ほりきり)が見られます。ここの大きな曲輪が、重要な人たちの居住空間だったと思われます。

芥川山城,歴史編,加藤理文,おしろがっこう
発掘調査で検出された礎石建物(高槻市立しろあと歴史館提供)。城の中心となる主殿の遺構と考えられています。山上部に居住していたことが解ります

鞍部を挟んだ東側Ⅱが、「出丸(でまる)」と呼(よ)ばれています。ここも、Ⅰより数は少ないものの、大きな曲輪が見られます。このⅠとⅡの間の鞍部には、堀切等の両者を区切ってさえぎるような遮断(しゃだん)施設は見られません。この谷間を南から上がる道が、芥川山城のメインルートで、この周辺に重点的に石垣の使用が見られますので、登城者に見せるために積まれた石垣でしょう。観音寺(かんのんじ)(滋賀県近江八幡市)や小谷城(滋賀県長浜市)のように、全山に石垣が使用される状況(じょうきょう)ではありません。

芥川山城、石垣、土塁
Ⅰ・Ⅱの谷間の石垣(左)、Ⅲの南側斜面の竪土塁(右)

Ⅲは、後の時代の改変が大きく、当時の姿(すがた)をあまりよくとどめていません。しかし、土塁(どるい)で囲(かこ)まれた曲輪や、多くの竪堀(たてぼり)、連続する小曲輪群など、戦闘(せんとう)的な姿が見られるだけでなく、Ⅱ曲輪群との間に堀切から竪堀へと続く遮断線も見られます。ⅠとⅡの居住空間を守るためのエリアであったと考えられます。

なお、戦国期の畿内の山城は、城下は経営(けいえい)することが極めて珍(めずら)しく、芥川山城も城下町を持たない政治拠点だったのです。

芥川山城、帯付山付城、概要図
芥川山城、帯仕山付城 概要図(作図 中西裕樹)

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※付城(つけじろ)
敵の城を攻める時に、攻撃する軍の拠点として築いた小さな城のことです。支城(しじょう)としても使われることもありました。通常、曲輪の数は1~2ヵ所程度の規模でした。

※礎石建物(そせきたてもの)
建造(けんぞう)の柱を支える土台(基礎(きそ))として、石を用いた建物のことです。柱が直接地面と接していると湿気(しっけ)や食害などで腐食(ふしょく)や老朽化(ろうきゅうか)が早く進むため、それを防ぐために石の上に柱を置きました。初めは寺院建築に用いられ、城に利用されるようになったのは戦国時代の後期になってからのことです。

縁(えん)
(わ)が国独特(どくとく)の構造で、建物の縁(へり)部分に張(は)り出して設けられた板敷き状の通路のことです。外部から直接屋内に上がる用途(ようと)ももっていました。

※主殿(しゅでん)
屋敷(やしき)の中の建物で、一番重要で中心となる建物で、主人が居住した建物のことです。御主殿とも言います。江戸時代になると御殿(ごでん)と呼ばれるようになります。

※堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘(おか)が続いている場合、それを遮(さえぎ)って止めるために設けられた空堀(からぼり)のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士(どうし)の区切りや、城の境(さかい)をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。

※竪堀(たてぼり)
斜面(しゃめん)の移動を防ぐために設けられた堀のことです。等高線に対して直角に掘られます。連続して配置された場合「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」と呼びます。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。




「城びと みんなの投稿」より一部画像引用…芥川山城竪土塁:発見!ニッポン城めぐり

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