2020/08/28
理文先生のお城がっこう 歴史編 第28回 畿内と周辺の城2
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。28回目の今回は、室町幕府末期に都を支配した三好長慶のお城について。長慶が拠点としたのは大阪府の飯盛城でしたが、どのようなお城だったのでしょうか。理文先生と一緒に見ていきましょう。
■理文先生のお城がっこう
前回「第27回 畿内と周辺の城1」はこちら
前回は、細川、畠山氏の抗争(こうそう)が続く中、三好長慶(みよしながよし)が台頭し、細川氏に替(か)わって芥川山(あくたがわさん)城(大阪府高槻市)から畿内(きない)支配(しはい)を実行するようになるまでを概説してみました。
長慶は、永禄(えいろく)3年(1560)に、それまで本拠としていた芥川山城を嫡子(ちゃくし)義興(よしおき)に譲り、飯盛城(大阪府大東市・四条畷市)へと移ると、松永久秀(まつながひさひで)が大和国(やまとのくに)へ進出、高屋城(大阪府羽曳野市)には弟の三好実休(じっきゅう)が入ることになります。これは、三好本宗家(ほんそうけ)(ある一族、一門の本家、もしくは本家の当主のことです)を継(つ)いだ義興の芥川山城を北に、阿波(あわ)三好家の南河内(かわち)の拠点(きょてん)高屋城を南に配置し、両城の上に「三好政権」の本拠として飯盛城を位置づけるためと言われています。
今回は、長慶が拠点とした飯盛城がどのような城であったかについて見ておきたいと思います。
飯盛城の位置
河内平野の東端(はし)、奈良との境界(きょうかい)にそそり立つ山が生駒山(いこまやま)です。生駒山は南から高安山、生駒山と続き、その北端に位置するのが標高314mの飯盛山になります。
飯盛山の西麓(せいろく)を京都と境(さかい)を結ぶ主要道の東高野街道(ひがしこうやかいどう)が、北側を木津(きづ)方面、奈良へと通じる清滝街道(きよたきかいどう)が走っています。また、西側に広がる深野池(ふこのいけ)からは、旧(きゅう)大和川を利用して大坂まで河川(かせん)交通で結ばれていました。宣教師(せんきょうし)ルイス・フロイスは、「飯盛城の麓(ふもと)には、長さ四・五里の大きい淡水(たんすい)湖(深野池)があり、そこにはおびただしい独木船(まるきぶね)、その他の小船がある」と記録しています。こうした交通の利便性(せい)が、飯盛城に拠点を移した大きな理由だったのです。
飯盛城の山頂(さんちょう)部から西~北を望むと、あべのハルカスから六甲(ろっこう)の山々、北摂山系(ほくせつさんけい)、比叡山(ひえいざん)までもが望まれます。南を見れば、泉州(せんしゅう)(和泉(いずみ)国の別称(べっしょう)で、現在の大阪府南西部のことです)から瀬戸内海、淡路島までが一望されます。山頂から広がるこの景色のすべてが、当時の長慶が支配した領域(りょういき)だったのです。
広大な地域を支配下に置いた長慶でしたが、山麓部に城下町を経営(けいえい)することはありませんでした。長慶が領域とした地域は、商業や流通が発達し、都市も栄え、山麓を走る東高野街道や清滝街道は、日常的に往来(おうらい)する人々であふれていたのです。交通網(もう)を掌握(しょうあく)し、経済圏(けいざいけん)を押(お)さえる長慶は、街道沿(ぞ)いや近くの発達した街が城下集落と同様な機能(きのう)を果たしていたため、城下町をわざわざ新設する必要が無かったのです。
城址から望んだ大阪方面。大阪中心部、淡路島、六甲の山々までもが一望されます。見える場所すべてが三好長慶の支配する場所だったのです
城下集落を持たない飯盛城では、当然山麓居館(さんろくきょかん)(山の麓に造られた邸宅(ていたく)のことです)も無く、家臣の屋敷(やしき)も山下に広がってはいませんでした。従(したが)って、三好政権の日常的な政務(せいむ)(政治に関する事務のことです)は、山上で行われていたことになります。長慶に会いに行くためには、誰(だれ)もが山上まで登る必要があったのです。
山上では、連歌(れんが)(和歌の上の句(く)と、下の句を多数の人たちが交互(こうご)に作り、ひとつの詩になるように詠(よ)み連ねる詩歌の形態(けいたい)の一つです)の催しなども開催されていたため、多くの人々が城に登ったことになります。ルイス・フロイスは、イエズス会の司祭アルメイダが六人の駕籠籬(かごかき)(駕籠とは、竹または木製(もくせい)の座席(ざせき)に人を乗せ、上に棒(ぼう)を渡(わた)して前後でかつぐ乗具のことです)に担(かつ)がれ、夜更(ふ)けに山頂に到着(とうちゃく)したと記録しています。長慶は、キリシタンであり、永禄7年(1564)に三好氏の家臣の多くが飯盛城で受洗(じゅせん)(キリスト教信者になるための入門儀礼(ぎれい)を受けることです)しました。
飯盛城概要図(作図:中井 均)。南北に長い尾根筋を利用し、そこから派生する小尾根にも曲輪がいくつも設けられていたことが良く解ります
城の構造
城は、南北にかけて600m程(ほど)広がる尾根筋(おねすじ)に曲輪(くるわ)を設(もう)け、堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)を構(かま)え防御(ぼうぎょ)を施(ほどこ)しています。尾根筋のほぼ中央部の標高315mの最高所が「高櫓郭(たかやぐらくるわ)」と呼ばれる主郭(しゅかく)(Ⅰ)で、面積は広くありません。現在、楠木正行(くすのきまさつら)の巨大(きょだい)な銅像(どうぞう)が建っていますが、飯盛山と正行はまったく関係はありません。
この高櫓郭の北側に、階段状(かいだんじょう)に本郭(Ⅱ)、Ⅲ郭、Ⅳ郭が連続しますが、いずれの曲輪もそれ程大きな面積ではありません。場所的に見れば、この4つの曲輪が飯盛城の中心域にあたりますが、面積が狭(せま)くここが居住(きょじゅう)スペースとは考えられません。4つの曲輪からは、東西方向に痩(や)せ尾根がいくつも派生(はせい)しています。この痩せ尾根上にも、階段状に多くの曲輪が設けられ、堀切や竪堀を設けて、防御を強固にしていたことが伺(うかが)えます。
高櫓郭(主郭)。標高315mの最高所に位置し、石碑や楠木正行の銅像が建っています
Ⅳ郭の北側の鞍部(あんぶ)の先に、御体塚丸(ごたいづかまる)と呼ばれるⅤ郭と、さらに北側に一段低い三本松丸と呼(よ)ばれるⅥ郭の二つの曲輪が設けられています。標高287mの御体塚丸は、長慶の死を外部に漏(も)らさないようにするため、3ヵ年仮埋葬(かりまいそう)されていたと言われる場所です。近年、発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)が実施(じっし)され、少なくとも2基(き)の建物があったとされています。1基は、約4×6mの塼(せん)(レンガの一種です)貼(ばり)の建物で、櫓と推定(すいてい)されています。もう1基は神社社殿(しゃでん)などの特殊(とくしゅ)な用途(ようと)を持つ建物の可能性(かのうせい)が指摘(してき)されています。
御体塚丸と三本松丸の間には、岩盤(がんばん)をくり抜(ぬ)いた城中最大の堀切Aが設けられ、ここが北側の最終防御ラインと思われます。三本松丸の下段にもⅦ郭が見られますが、その先端には堀切等の守りを固めるための施設が無いためです。
御体塚丸(左)は、岩盤が露頭する場所もありますが、建物跡が確認されています。堀切A(右)は、城内最大規模を誇り、岩盤をくり抜いて造られています
高櫓郭の南側直下に軸(じく)をずらした堀切Bが配置され、東西は竪堀となり尾根筋を完全に遮断(しゃだん)しています。堀切中央部に鉤(かぎ)の手に曲がる土橋が残り、現在(げんざい)通路となっています。さらに南側は鞍部となり、巨大な堀切Cが西側に残ります。現在、東側はFM大阪のアンテナのメンテナスのための道路となっていますが、本来堀切Cがそのまま東へと続き、北側曲輪群との間を完全に遮断していたと思われます。
南の丸から見た千畳敷方向です。大規模な曲輪が階段状に設けられていました。アンテナが見えるのが千畳敷で、アンテナ建設時にかなり破壊を受けています
このBとCの二条(じょう)の堀切によって、北側と南側の曲輪を遮断したのは、その役割が大きく異なっていたためでした。北側は、城を守るための防御空間であり、南側は居住するスペースとして使用されていたのです。
南側の曲輪を見てみましょう。南側の中心となる曲輪が、標高314.5mの千畳敷(せんじょうじき)(Ⅷ)と呼ばれる40m四方程の広さを持つ曲輪で、ここから南北に階段状に大きな規模(きぼ)の曲輪が設けられており、居住スペースとしては十分な広さです。発掘調査でも、千畳敷、Ⅸ郭で礎石(そせき)を確認し、土壁(つちかべ)(土に藁(わら)や砂(すな)を混(ま)ぜて水で練ったものを塗(ぬ)り固(かた)めた壁(かべ)のことです)も出土し、土壁造りの建物が建っていたことが判明しました。また、生活雑器(せいかつざっき)(生活するために必要な様々な器のことです)だけでなく、茶の湯の道具も出土しています。長慶の居館は、千畳敷で、人々はここをめざして登城してきたのでしょう。
南端の南丸と呼ばれるⅨ郭は、三段からなり、東辺に土塁(どるい)を構えています。この曲輪の直下が登城路で、石垣(いしがき)を用いた大手口も存在(そんざい)しています。従って、Ⅸ郭は、大手に対する備えのために築(きず)かれたことになります。
南の丸(左)は、東側に土塁が設けられています。その土塁の東下が大手口(右)で、石垣に囲まれた門が推定されます。土塁上から横矢を懸けていました。
飯盛城の石垣
石垣は、高櫓郭(Ⅰ)からⅣ郭を中心とした北側曲輪群と御体塚丸の東斜面(しゃめん)を中心に築かれています。特に、御体塚丸付近は、東側尾根を中心とした曲輪群に幾重(いくえ)にも石垣を設け、その間を縫(ぬ)うように城道が設けられています。居住域と推定される南曲輪群や西側斜面には石垣は比較的(ひかくてき)少ないとされてきましたが、千畳敷の南下西側斜面の発掘調査で、推定延長30m、高さ3m以上の石垣が確認(かくにん)されました。併(あわ)せて、石垣分布(ぶんぷ)調査によって、東斜面に限(かぎ)らず城域全体に石垣が築かれている可能性が高まってきました。飯盛城の石垣は、根石(ねいし)が無く、垂直(すいちょく)に近い法面(のりめん)で積まれ、間詰石(まづめいし)をあまり用いない野面積(のづらづみ)の石垣で、算木積(さんぎづみ)も見られません。観音寺城とも異(こと)なる積み方なのです。
御体塚丸南下の石垣。南側だけでなく、東側にも石垣が残されています。さらに、南側の曲輪も、数段に渡って石垣が見られます
全体的に見るなら、石垣は用いるものの、発達した虎口(こぐち)はほとんど無く、横矢(よこや)も少なく、堀切も遮断線のみと、山城としての防御機能が進化した城ではありません。しかし、河内平野に高くそびえ立つ山上に石垣を用い、そこを政治(せいじ)の場としたのは、平野から見せる意識(いしき)があったとしか思えないのです。安土城以前に、「見せる」ということを意識した城が登場してきたのは、時代が変わりつつあることの示(しめ)しているのではないでしょうか。
Ⅱ郭東下に残る石垣(左)とⅢ郭西側の石垣(右)。中枢部から、御体塚丸の週には、石垣があちこちに見られ、かつては壮大な規模であったことを伺わせます
今日ならったお城の用語(※は再掲)
山麓居館(さんろくきょかん)
山城の存在する山の麓に設けられた城主の邸宅です。普段(ふだん)は、ここが対面や生活の中心でした。戦闘(せんとう)行為(こうい)が予想された場合に、山上部に居を移すことになります。
※堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘が続いている場合、それを遮って止めるために設けられた空堀(からぼり)のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士(どうし)の区切りや、城の境をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。
※竪堀(たてぼり)
斜面の移動(いどう)を防(ふせ)ぐために設けられた堀のことです。等高線に対して直角に掘られます。連続して配置された場合「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」と呼びます。
塼貼建物(せんばりたてもの)
塼とは瓦製(かわらせい)のレンガやタイルのようなもので、粘土(ねんど)を型(かた)に入れて成形し、そのまま乾燥(かんそう)させたものと、焼いたものとがあります。建物の壁面(へきめん)、床(ゆか)などに用いられたほか、建物基礎(きそ)の外周に貼(は)り付けられたりして使用しました。塼を用いた建物の総称です。
※根石(ねいし)
石垣のいちばん下に据(す)えられた基礎になる石のことです。
※法(矩)面(のりめん)
土塁や石垣の傾斜(けいしゃ)角、斜面のことです。
※間詰石(まづめいし)
石材と石材の隙間(すきま)を埋(う)めるために詰(つ)められた石のことです。古い段階では、自然石を使っていましたが、割石(わりいし)や隙間に合わせて加工された石材が使われるようになっていきます。
※野面積(のづらづみ)
自然石をそのまま積み上げた石垣のことです。加工せずに自然石を積み上げただけなので石の形や大きさに統一性(とういつせい)がなく、石同士がかみ合わず、隙間が空いてしまいます。そこで、その隙間に中型から小型の石材を詰めることもありました。
※虎口(こぐち)
城の出入口の総称(そうしょう)です。攻城戦(こうじょうせん)の最前線となるため、簡単(かんたん)に侵入(しんにゅう)できないよう様々な工夫が凝(こ)らされていました。一度に多くの人数が侵入できないように、小さい出入口としたので小口(こぐち)と呼ばれたのが、変化して虎口になったと言われます。
※横矢(よこや)
側面から攻撃するために、城を囲む(かこ)ラインを折れ曲げたり、凹凸(おうとつ)を設けたりした場所を呼びます。横矢掛(よこやがかり)とも言います。
次回は「大内氏とその居館」です。
加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。