理文先生のお城がっこう 歴史編 第29回 大内氏とその居館

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。29回目の今回は、中国地方を支配した西国随一の大名・大内氏について。住まいとしていた巨大な館の構成に注目しながら、大内氏がいかに栄えたか見ていきましょう。



■理文先生のお城がっこう
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備後(びんご)・安芸(あき)・石見(いわみ)・備前(びぜん)・美作(みまさか)・播磨(はりま)などの守護職(しゅごしょく)を得(え)、中国地方に覇(は)をとなえたのが山名氏です。だが、戦国期に入ると出雲(いずも)の尼子(あまこ)氏、周防(すおう)の大内氏、備前の浦上氏らの圧迫(あっぱく)を受け、次第に山陰(さんいん)道山陽道の領国(りょうこく)を失うことになります。

室町時代の中国地方と周辺の国々
室町時代の中国地方と周辺の国々

中でも、大内氏は周防、長門、石見(いわみ)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)各国の守護職に補任(ほにん)されるなど最盛(さいせい)期には6ヶ国を実効(じっこう)支配(しはい)することになります。この大内氏の本拠(ほんきょ)地が、大内氏館です。

南北朝時代に周防国を平定した大内弘世(ひろよ)が、現在(げんざい)の山口市中心部に築(きず)いた居館(きょかん)が最初だと言われています。発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)によって、現在の館は14世紀(せいき)末から15世紀初頭に築かれたことが解(わか)りました。応仁(おうにん)の乱(らん)から逃(のが)れてきた文化人を歓迎(かんげい)したため「西の京」と呼(よ)ばれるほど繁栄(はんえい)し、訪問者(ほうもんしゃ)たちが担(にな)い手となって北山文化(第3代将軍(しょうぐん)足利義満(あしかがよしみつが建てた金閣(きんかくに代表される14世紀後半から15世紀前半の文化)東山文化(第8代将軍足利義政(あしかがよしまさが建てた銀閣(ぎんかくに代表される15世紀後半の文化)と大陸文化を融合(ゆうごう)させた独自(どくじ)の大内文化が大いに栄えました。

瑠璃光寺五重
瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔(ごじゅうのとう)。25代義弘の供養(くよう)塔で、完成は嘉吉(かきつ)2年(1442)頃といわれています。室町時代中期におけるもっとも秀(ひい)でた建造物と評され、大内文化の最高傑作(けっさく)として国宝に指定されています

戦国時代の大内氏

応仁(おうにん)元年(1467)から始まる応仁の乱で西軍の山名宗全(やまなそうぜん)の軍に所属(しょぞく)して、勇気ある戦いが世間に広まり、宗全が亡(な)くなり山名氏が戦いから抜(ぬ)けると、西軍における実際の総大将になったのが大内政弘(おおうちまさひろ)です。

乱が終わると、九州での再起(さいき)をねらって少弐(しょうに)(北九州地方の守護大名です)大友氏(大分県を本拠とした守護大名です)が兵を集めて軍事行動を起こしましたが、再(ふたた)び退(しりぞ)け服従(ふくじゅう)させました。西国を支配(しはい)下におくだけでなく、西国から室町幕府(むろまちばくふ)にも影響力(えいきょうりょく)を及(およ)ぼす守護大名としての地位を保ち続けました。また、分国法(ぶんこくほう)(戦国大名が自分の領国(りょうこく)を治めるために設(もう)けた基本的(きほんてき)な内容(ないよう)の決まりです)の「大内家壁書(おおうちけかべがき)」は教科書にも取り上げられるほど有名で、守護代ら重臣(じゅうしん)が勢力(せいりょく)を持つことを抑(おさ)えようとしたものです。

政弘の後を継いだ大内義興(よしおき)は、少弐氏を一時的に滅(ほろ)ぼしてしまうなど北九州・中国地方で勢力を長期間に渡(わた)って保(たも)ち続け、その地位を確実(かくじつ)なものとしました。そして京都を追われ各地をさすらっていた将軍足利義稙(あしかがよしたね)を保護(ほご)します。永正(えいしょう)5年(1508)に細川高国(ほそかわたかくに)と協力し、足利義稙を擁(よう)して中国・九州勢を率いて上洛(じょうらく)(京都に入ることです)も果たしました。

上洛後は管領代(かんれいだい)(臨時(りんじ)の管領職です)として室町幕府の政治(せいじ)を実際(じっさい)に取り仕切るなど、大きな力を持つようになったのです。しかし、この長期間に渡る京都滞在が、大内氏やその傘下(さんか)(組織に加わって支配を受けることです)の国人や豪族にとっても大きな負担となっていきます。

先に帰国した安芸(あき)武田氏の武田元繁(たけだもとしげ)や出雲の尼子経久(あまこつねひさ)らが、隙(すき)をねらって大内領に攻(せ)め入って土地を奪(うば)い、支配力を危(あや)うくするような存在(そんざい)となっていくのです。そのため義興は、京都を引き払(はら)い帰国して、尼子氏や安芸武田氏と戦うことになりました。享禄(きょうろく)元年(1528)に義興が死去すると、嫡子(ちゃくし)の大内義隆(よしたか)が家督(かとく)を継(つ)ぎます。

この時点で、周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を支配下とし、名実共に西国随一(ずいいち)の戦国大名となり、大内家は全盛(ぜんせい)期を迎えたのです。

大内氏居館、土塁、堀
整備された土塁(どるい)と堀跡(ほりあと)。西面土塁と堀跡(左)、東面土塁と堀跡(右)です。平面表示のようですが、土塁を高く、堀を低く解りやすいように工夫してあります

発掘成果と現況

館は、山口盆地(ぼんち)の北東端(はし)に位置する一の坂扇状地(せんじょうち)に位置しています。この扇状地のほぼ中央を南流する一の坂川の両岸は、周囲(しゅうい)よりも一段(だん)低く、細長い浸食谷(しんしょくだに)(川の流れによって出来た谷のことです)を形成しています。川の東岸を、大殿大路(おおどのおうじ)や石州(せきしゅう)街道とともに中世以来の山口の都市軸(じく)になる竪小路(たてこうじ)が通っています。

竪小路は、萩(はぎ)へと続く主要幹線(かんせん)でもあり、近世には「萩往還(はぎおうかん)」として毛利氏の参勤(さんきん)交代に利用されることになります。大内氏館および築山跡は竪小路のすぐ東側に位置していますが、この周辺が扇状地上で最も安定した平坦(へいたん)面となっていました。

大内氏館は、昭和53年(1978)より継続(けいぞく)的に発掘調査が実施され、館内部の調査は37次(2013年度)でほぼ終了し、平成7年(1995)より史跡(しせき)整備事業が開始され、西門、池泉(ちせん)庭園、枯山水(かれさんすい)庭園などが復元整備されました。

山口市教育委員会は、これまでの調査成果により館を4段階に分け、それぞれの時代ごとの特徴(とくちょう)を示していますので、以下に解りやすくまとめたいと思います。

大内氏館跡
整備された大内氏館跡(航空写真、山口市教育委員会提供)
中央の檜皮葺(ひわだぶ)きの建物が龍福寺本堂、手前が池泉庭園です。西側の築地塀と西門が復元されています。南側と東側は、土塀と堀が平面表示されています。左上に見える山が、高嶺城跡になります

第Ⅰ段階(14 世紀後半~15 世紀前半) 
館の内と外とを区画する築地塀(ついじべい)を築きました。その外側には溝(みぞ)が廻(まわ)っていたようです。この時の館の規模(きぼ)は、30.3mを基本単位として区画され、南北8単位(約242m)、東西4単位(約121m)でした。 

第Ⅱ段階(15 世紀前半~15 世紀末) 
前段階の館敷地(しきち)をベースとしていましたが、東に約10m拡張(かくちょう)して、新しい堀を設けました。館内で検出(けんしゅつ)された石組水路から、内部を北側約150mと南側約91mの二つに分割したことが考えられています。 

第Ⅲ段階(15 世紀末~16 世紀中頃)  
最初期の館の敷地から東へ約30m拡張し、館内部を完全に北側約150mと南側約91mの二つに分割しました。これによって、内郭推定(すいてい)域は、約150m四方のほぼ方形区画となりました。内郭(ないかく)の周囲は、築地塀か土で突(つ)き固めた土塀(どべい)が築かれています。この段階で、内郭と外郭(がいかく)に分かれたことになります。

第Ⅳ段階(16 世紀後半~) 
大内氏が滅亡する 16 世紀中頃に館が廃絶(はいぜつ)し、白石(しらいし)から龍福寺(りゅうふくじ)が移転してきます。内郭跡地(史跡指定範囲)を境内地として、現在に至(いた)っています。外構は堀と土塀が築かれました。

大内氏館跡、空間構成図
最盛期の空間構成図(山口市教育委員会提供)

館には、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)礎石建物(そせきたてもの)、門や塀などが設けられており、池泉式や枯山水式など、少なくとも4つの庭園が造営(ぞうえい)されていました。館のすぐ北側には別邸(べってい)として築山館(つきやまやかた)(築山御殿(ごてん))が築かれていました。大内氏館は居住(きょじゅう)空間として、築山館は迎賓館(げいひんかん)(重要な客の接待(せったい)や宿泊施設(しゅくはくしせつ)のことです)的な役割の場として使われていたと考えられています。

大内氏館跡、西門
復元された西門。発掘調査で柱を据(す)える穴と、柱を両側から押さえる石と砂利(じゃり)(し)きが見つかりました。同時期の『洛中洛外図屏風』などを参考にして復元されました

大内家最後の当主となった義長(よしなが)は、天文20年(1551)の大寧寺(たいねいじ)の変の後に陶隆房(すえたかふさ)(晴賢(はるかた))らに迎(むか)えられて当主となりました。同24年(1555)の厳島(いつくしま)の戦いで陶隆房が敗(やぶ)れて自害し、大内氏の主力も壊滅(かいめつ)的な被害(ひがい)を受けてしまいます。

そこで、毛利軍などの侵攻(しんこう)に備えるために、弘治(こうじ)2年(1556)より標高338mの鴻ノ峰(こうのみね)に築城を開始したのが高嶺(こうのみね)(山口県)です。工事は、なかなか進まず、食料も不足したため、翌年(よくねん)の毛利氏の侵攻の時には城を放棄(ほうき)し長門国(ながとのくに)に逃(に)げてしまいます。最後は長福寺(現在の功山寺(こうざんじ)(下関市))で自刃(じじん)し、ここに名門大内氏は滅亡することになります。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

築地塀(ついじべい)
泥土(どろつち)を突き固めて作った塀のことで、「築地」とも言われています。多くは、瓦(かわら)や板の屋根が設けられていました。

掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)
礎石を使わないで、地面に穴を掘って、そのまま柱を立て地面を底床(ゆか)とした建物のことです。中世城郭の建物のほとんどがこの建物でした。

礎石建物(そせきたてもの)
建造の柱を支(ささ)える土台(基礎(きそ))として、石を用いた建物のことです。柱が直接(ちょくせつ)地面と接していると湿気(しっけ)や食害などで腐食(ふしょく)や老朽化(ろうきゅうか)が早く進むため、それを防(ふせ)ぐために石の上に柱を置きました。初めは寺院建築に用いられ、城に利用されるようになったのは戦国時代の後期になってからのことです。

次回は「尼子氏の台頭と月山富田城」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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