理文先生のお城がっこう 歴史編 第30回 尼子氏の台頭と月山富田城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。30回目の今回は、中国地方を支配した戦国大名の尼子氏について。尼子氏がどのようにして勢力を伸ばしていったかを、守りの固さで名高い尼子氏の拠点・月山富田城に注目しながら見ていきましょう。

尼子(あまこ/あまご)氏は、近江国守護職(しゅごしき)(領国(りょうごく)の軍事権(けん)を持ち、治安・警備(けいび)に当たる役職(やくしょく)名です)の佐々木秀義(ささきひでよし)の一族と言われています。南北朝時代のばさら大名として名高い佐々木道誉(ささきどうよ)の孫の京極高詮(きょうごくたかのり)の弟の高久(たかひさ)が近江国(おうみのくに)甲良庄(こうらしょう)尼子郷(あまこごう)に居所していたので、土地の名をとって「尼子」と名乗ったのが始まりといわれています。

京極高詮が明徳(めいとく)の乱(山名氏が室町幕府(むろまちばくふ)に対して起こした反乱(はんらん)です)で活躍したため、明徳3年(1392)、足利義満(あしかがよしみつ)に出雲(いずも)・隠岐(おき)の守護職に任(にんじられました。

高詮は自分の代理として甥(おい)の尼子持久(あまごもちひさ)守護代(しゅごだい)(代行を守護から任された人のことです)として出雲の地に送り込(こ)みます。これによって、出雲に尼子氏が住み着くことになったと言われています。

月山富田城
北西より見た月山。尼子氏の居城の富田城は、月山(標高183.9m、比高150m)山上部に築かれた山城部と、北西側の中腹から広がる丘陵(きゅうりょう)を利用した居館部からなっていました。

尼子経久の活躍

京極高詮から六代目の持清(もちきよ)の時に、応仁(おうにん)の乱(応仁元年(1467))がおこりました。尼子氏は、持久の子である清定(きよさだ)が当主となっていました。応仁の乱で、持清は東軍の細川勝元(ほそかわかつもと)側であったため、本拠地である出雲が、西軍の山名氏に狙(ねら)われてしまいます。清定は、山名氏の攻撃(こうげき)を受けますが、あちこちと場所を変えて戦いを重ね、大内方を破(やぶ)り、出雲の地を守り抜きました。

この時、嫡男(ちゃくなん)の又四郎は、人質(ひとじち)として京極氏の所に預(あず)けられていました。持清の子の政経(まさつね)は、又四郎と同年代であったため、自分の名の経の一字を与え、又四郎は経久(つねひさ)と名乗るようになりました。

文明11年(1479)頃、経久は清定から家督(かとく)(家や領地などの財産(ざいさん)です)を譲(ゆず)られます。守護代になった経久は、出雲や隠岐の段銭(たんせん)(臨時(りんじ)に田地(でんち)からその数に応じて集めた税金(ぜいきん)です)などを納(おさ)めなかったり、支配(しはい)する領地を増やそうとしたりして、京都の京極氏と争いをおこしました。

これに怒った京極政経は、経久を追い落とすため計画を進め、幕府の命令だと言って出雲中・西部の武将(ぶしょう)に呼(よ)びかけたため、文明16年(1484)、経久は富田(とだ)(月山富田城:島根県安来市)から追い払われ、変わって塩冶 掃部介(えんやかもんのすけ)が守護代となりました。

文明18年(1486)の元旦(がんたん)、経久は協力者と共に富田城へ忍(しの)び込み、「万歳楽(まんざいらく)(めでたい時に舞(ま)う舞(まい)です)を舞うと言って将兵を集め、その隙(すき)をついて長屋に火をつけて回り、混乱(こんらん)する城兵に襲(おそ)い掛(か)かったのです。掃部介は妻(つま)と子を刺(さ)し殺(ころ)し、自決しました。月山(がっさん)富田城を奪還した経久は、各地を攻略し、大永元年(1521)頃には中国地方11ヵ国(石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)・美作(みまさか)・備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・安芸(あき)・播磨(はりま)・隠岐・因幡(いなば))の太守(たいしゅ)となり尼子氏の最盛期(さいせいき)を迎(むか)えることになったのです。

室町時代の中国地方と周辺の国々
室町時代の中国地方と周辺の国々


尼子晴久の時代

長男政久(まさひさ)、三男の興久(おきひさ)を相次いで失った経久は、天文(てんぶん)6年(1537)、嫡孫の詮久(あきひさ)(後の晴久(はるひさ))に家督を譲ります。同年には、大内氏が所有していた石見銀山(いわみぎんざん)を急襲(きゅうしゅう)し、3年後に奪(うば)い返されるまでに非常(ひじょう)に多くの銀を富田城に運び入れました。

天文9年(1540)、晴久は4万8千騎の軍勢で、大内氏に接近する毛利元就(もうりもとなり)の本拠地である安芸の郡山城(広島県安芸高田市)攻撃(こうげき)を実行に移しました。床(とこ)に就(つ)いていた経久は、無謀(むぼう)な攻撃をとどめましたが、晴久を止めることはできませんでした。尼子軍は、地理の不案内と、伸(の)びきった兵站(へいたん)(物資や移動するための施設のことです)、そして長期滞陣(たいじん)のため、戦いに敗れ退却(たいきゃく)することになります。

青光井山尼子陣所跡
青光井山(あおみついやま)尼子陣所跡。天文9年(1540)の郡山合戦の際に、尼子方によって築かれた陣城(じんじろ)です。郡山城に対峙(たいじ)するように、谷を挟(はさ)んで築かれました。4カ月間で築かれたと思えないほど、長い尾根(おね)上に多数の曲輪(くるわ)を連ねた本格的な山城です

同年、経久は、84歳で死去しました。尼子氏が吉田郡山城(広島県安芸高田市)で敗北すると、大内義隆(よしたか)が、3万余騎(よき)を従えて、富田城に迫(せま)ります。晴久は、要害堅固(ようがいけんご)(険(けわ)しい地形で、敵の攻撃を防ぐのに便利な地のことです)な富田城と知り尽(つ)くした地形の利を生かし、大内軍を破(やぶ)りました。この戦で、義隆の養子晴持(はるもち)は、揖屋灘(いやなだ)(八束郡(やつかぐん))で、乗っていた舟(ふね)が沈没(ちんぼつ)し水死してしまいます。

(いきお)いに乗った晴久は、失った土地を取り戻(もど)すため石見に出陣(しゅつじん)して石見銀山を再(ふたた)び確保(かくほ)し、弘治(こうじ)2年(1556)まで13年間にわたり、豊富な銀を富田城へ運んだのです。尼子氏に敗れた大内氏は、天文20年(1551)に重臣の陶隆房(すえたかふさ)(晴賢(はるかた))がクーデターをおこし、義隆と一族は山口郊外(こうがい)の大寧寺(たいねいじ)で自害して、大内家は事実上滅亡(めつぼう)したのです。

尼子氏の滅亡

大内氏滅亡により、毛利氏と尼子氏が中国地方の覇権(はけん)(力によって支配することです)を争うことになります。毛利氏の度(たび)重なる攻撃に耐(た)えた尼子氏の強さを支(ささ)えていたのが、居城(きょじょう)月山富田城の堅固な構えでした。永禄(えいろく)3年(1560)、対立が激化(げきか)する中、晴久が47歳で急死すると、尼子氏は急速に衰(おとろ)えることになります。毛利元就は、調略(ちょうりゃく)(策略(さくりゃく)をめぐらして敵(てき)をまかしたり内通させたりすることです)を用い、石見銀山を奪取し、富田城攻めを敢行(かんこう)します。

永禄8年(1565)、要害堅固な城を見た元就は、兵糧(ひょうろう)攻め(敵の食糧(しょくりょう)の補給(ほきゅう)する路を遮断(しゃだん)し、兵糧を欠乏(けつぼう)させて打ち負かす攻(せ)め方です)による持久(じきゅう)戦を指示し、城を取り囲(かこ)みました。兵糧が欠乏し、士気(しき)も衰え、重臣たちが毛利氏に降伏(こうふく)疑心暗鬼(ぎしんあんき)(何でもないことでも疑(うたが)ってしまうことです)に陥(おちい)った義久は、家臣を次々に疑い、有力な武将を切腹(せっぷく)させたり、殺したりしてしまいます。

同9年(1566)末、義久は開城を決意し、降伏することを元就に伝えます。元就は、義久の身柄(みがら)の安全を約束したため、富田城は遂(つい)に開城しました。富田城が陥落(かんらく)したことにより、出雲国内で抵抗(ていこう)していた尼子十旗(あまごじっき)(月山富田城の防衛線(ぼうえいせん)である出雲国内の主要な10の支城(しじょう)のことです)城将(じょうしょう)(城を守る大将のことです)達も、次々に毛利氏に下ったのです。元就は義久とその弟たちの一命を助け、安芸円明寺(えんめいじ)幽閉(ゆうへい)(ある場所に閉じこめて外に出さないことです)しました。ここに、大名としての尼子氏は滅亡することになったのです。

月山富田城、縄張り図
富田城跡縄張り図(寺井毅調査作成図を平成25年度測量の地形図に転載編集)(安来市教育委員会提供)。Uの字状をした尾根筋全体に曲輪群が展開していました

月山富田城の構造

飯梨川(いいなしがわ)右岸の月山(標高183.9m、比高(ひこう)150m)山上部に築(きず)かれた山城部と、北西側の中腹(ちゅうふく)から広がる丘陵(きゅうりょう)を利用した居館(きょかん)部を中心とし、東西約1.5㎞×南北約1.5㎞の尾根上に多数の曲輪が展開する戦国時代を代表する巨大(きょだい)山城(やまじろ)です。東の独松山(どくしょうざん)(標高320m)、南の大辻山(標高365m)、西の京羅木山(きょうらぎさん)(標高473m)に囲まれ、これらの山と急峻(きゅうしゅん)な谷でさえぎられていました。西方の飯梨川と東方の傾斜(けいしゃ)が急で険(けわ)しい地形の山々によって大軍は容易(ようい)に近づくことができない地形だったのです。

月山富田城
山上部より、菅谷口、御子守口方面を望んだ景観です。左上に日本海が見えます

現在(げんざい)の城は、天正19年(1591)に城主となった吉川広家(きっかわひろいえ)と、関ヶ原合戦の後に入封(にゅうほう)した堀尾吉晴(ほりおよしはる)によって大きく整備(せいび)改修(かいしゅう)された姿(すがた)です。尼子氏時代の城の姿は、はっきりしませんが、現在の規模(きぼ)と大きく変化は無かったと思われます。大きく異なるのは、石垣(いしがき)の無い土で造(つく)られた城であったことです。毛利氏3万の軍勢に対し、3年余の籠城(ろうじょう)(城に立てこもって戦うことです)を展開(てんかい)していますので、自然地形に守られ容易に近づくことが出来(でき)なかったことが解(わか)ります。

中心となっていたのは、現在の山中御殿(さんちゅうごてん)から、花ノ壇(はなのだん)、奥書院(おくしょいん)、太鼓壇(たいこのだん)、千畳敷(せんじょうじき)へと延びる尾根筋(おねすじ)と、谷を挟(はさ)んだ対岸の能楽平(のうがくなり)、大東成(だいとうなり)が構えられた尾根筋にあったことは確実(かくじつ)な状況(じょうきょう)です。また、山上部も、毛利、堀尾時代同様に、(つめ)の城(一つの城の中で最終拠点(きょてん)となる場所のことです)として機能(きのう)を果たしていたと思われます。本丸から、北東方向に伸びる尾根上にも多数の曲輪が広がり、全山に渡って、様々な防御(ぼうぎょ)が施(ほどこ)されていたのです。

月山富田城
北東対岸の現状。現在は、鬱蒼(うっそう)と木が茂(しげ)っていますが、尼子時代には多数の小廓が尾根筋のあちこちに広がっていました

城は、南東を除(のぞ)く三方を傾斜が急な崖(がけ)地形に囲まれていたため、攻め手は菅谷口(すがたにぐち)(大手口)、御子守口(みこもりぐち)(搦手口)、塩谷口(しおだにぐち)(裏(うら)手口)の3方面に限定(げんてい)されてしまいます。3方面からの延(の)びる登城路は、谷底に設(もう)けられた通路で山中御殿へと続いていました。いずれの通路も、両側の頭の上から横矢(よこや)が掛(か)かる厳重(げんじゅう)な構造(こうぞう)になっています。

さらに、山中御殿入口には、堅固な虎口(こぐち)が構(かま)えられ、簡単(かんたん)に曲輪の中へは侵入(しんにゅう)することが出来ません。また、山中御殿から延びる尾根筋の谷底には、東に菅谷口からの登城路、西に御子守口からの登城路が通るため、太鼓壇や奥書院、花ノ壇という比較的(ひかくてき)大きな曲輪が配置されています。これらの曲輪は、登城路を監視(かんし)すると共に、防衛拠点としてそれぞれが独立(どくりつ)して機能を果たすように工夫されていました。

月山富田城、山中御殿
山中御殿と詰城部分を望む。樹木が無い所に七曲道(ななまがりみち)が設けられていました。山中御殿が尼子時代から、毛利氏、堀尾氏段階まで中枢(ちゅうすう)部として使用されていました

山上部は、東から本丸、二の丸、三の丸が一列に配され、堀切(ほりきり)や土塁(どるい)を設け、防備を固めていました。ここへ行くには、山中御殿から続く七曲道(ななまがりみち)が唯一(ゆいいつ)の通路です。本丸から北東に向かう尾根筋や派生する小尾根筋には、多くの小曲輪が配され、山上部の防御の役割(やくわり)の一つを担(にな)っていました。

月山富田城の防御の要(かなめ)は、自然の崖地形と切岸(きりぎし)です。鉄壁(てっぺき)な斜面(しゃめん)防御によって、難攻不落(なんこうふらく)(攻めることが困難で、なかなか陥落しないことです)の城となりました。城は、吉川氏、堀尾氏入城によって、山中御殿や山麓曲輪群、山上部が大規模な石垣に変化するものの、基本となる構造は、尼子段階(だんかい)を引き継(つ)いだ形のままであったと考えられます。

月山富田城、土塁
山上部本丸に残る土塁跡。山上の詰城部分は、本丸・二の丸・三の丸が一列に並んでいました。本丸と二ノ丸の間に巨大な堀切が残っています

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※籠城戦(ろうじょうせん)
城に籠(こも)って、敵の攻撃を防ぎながら、攻め手が食べ物や武器がなくなるのを待つ戦法。あるいは、味方が来るまで、敵の攻撃を防ぎながら城に立てこもって戦うことです。

※横矢(よこや)
側面から攻撃するために、城を囲むラインを折れ曲げたり、凹凸(おうとつ)を設けたりした場所を呼びます。横矢掛(よこやがかり)とも言います。

※虎口(こぐち)
城の出入口の総称(そうしょう)です。攻城(こうじょう)戦の最前線となるため、簡単に侵入できないよう様々な工夫が凝(こ)らされていました。一度に多くの人数が侵入できないように、小さい出入口としたので小口(こぐち)と呼ばれたのが、変化して虎口になったと言われます。

※堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘(おか)が続いている場合、それを遮(さえぎ)って止めるために設けられた空堀(からぼり)のことです。等高線に直角になるように掘(ほ)られました。山城の場合、曲輪同士の区切りや、城の境(さかい)をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。

※切岸(きりぎし)
曲輪の斜面のもともとの自然の傾斜を、人工的に加工して登れないようにした斜面のことです。


お城がっこうのその他の記事はこちら

加藤理文(かとうまさふみ)先生
alt
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

関連書籍・商品など