2020/11/27
理文先生のお城がっこう 歴史編 第31回 毛利元就と吉田郡山城
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。31回目の今回は、尼子氏に代わって中国地方を支配した毛利元就について。元就が戦国大名へ成長していく中で拠点とし続け、豊臣政権下で完成を迎えた吉田郡山城(広島県安芸高田市)に注目しましょう。
毛利元就の台頭
室町(むろまち)時代の終わり頃(ごろ)の安芸(あき)(現在の広島県西部です)国は、応仁(おうにん)の乱(らん)の影響(えいきょう)もあって、管領(かんれい)(将軍(しょうぐん)を補佐(ほさ)し将軍に次ぐ権力(けんりょく)を持つ役職(やくしょく)です)細川氏と味方する尼子(あまこ)氏と、守護大名(しゅごだいみょう)(任(まか)された国を完全に支配(しはい)するようになった守護のことです)大内氏との間で対立していました。そのため、各地の国人領主(りょうしゅ)(直接(ちょくせつ)農民たちを支配していた在地(ざいち)の領主のことです)層は、両勢力(せいりょく)の間で振(ふ)り回されていたのです。毛利氏もそうした小さな国人領主の一人でした。
大永(だいえい)3年(1523)27歳で家督(かとく)(家や領地などの財産(ざいさん)です)を継いだ毛利元就(もうりもとなり)は、家臣団(かしんだん)をまとめて率(ひき)いると、尼子経久(あまこつねひさ)と徐々(じょじょ)にぶつかり合うようになりました。大永5年(1525)には、尼子氏との友好的な関係を解消(かいしょう)し、大内義興(おおうちよしおき)の味方になる立場をはっきりと打ち出したのです。
そのため、天文(てんぶん)9年(1540)経久の後継者である尼子詮久(あまこはるひさ)率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城(広島県)を攻(せ)められましたが(吉田郡山城の戦い)、わずか3千という少ない軍勢(ぐんぜい)で、城に籠(こも)って敵の攻撃を防ぎながら、攻め手が食べ物や武器がなくなるのを待つ戦法によって、尼子氏を迎(むか)え撃(う)ちました。家臣や友好的な領主層(そう)の協力、大内義隆(おおうちよしたか)の援軍(えんぐん)・陶晴賢(すえはるたか)の活躍(かつやく)もあって勝利し、戦後、安芸国の中心的存在(そんざい)となったのです。さらに、支配を固めるため、次男元春(もとはる)と三男隆景(たかかげ)をそれぞれ、安芸の豪族(ごうぞく)である吉川家、小早川家へ養子に出し、「毛利両川体制」(もうりりょうせんたいせい)と呼(よ)ばれる強固な同盟(どうめい)関係を結んだのです。
天文20年(1551)、陶晴賢が謀反(むほん)(君主にそむいて兵を挙げること)を起こし、大内家の実権(じっけん)を奪(うば)うと、元就と対立します。劣勢(れっせい)となった元就は、安芸の厳島(いつくしま)(広島湾に浮かぶ小島)に宮尾城(広島県)を築(きず)き、陶軍をおびき寄(よ)せ、背後から奇襲(きしゅう)攻撃(こうげき)(不意を突(つ)いて襲(おそ)い掛(か)かる戦法です)をかけると共に、村上水軍が陶軍の船を次々と沈(しず)めたのです。敗戦を悟(さと)った陶晴賢は自害し、毛利軍は「厳島(いつくしま)の戦い」で大勝利を飾(かざ)りました。
陶晴賢を倒(たお)して、西の隣国(りんこく)である周防(すおう)を手に入れた元就は、東の尼子家を倒すべく出雲(いずも)を攻めます。弘治(こうじ)4年(1558)から8年間に及(およ)ぶ戦を繰(く)り広げた末、永禄(えいろく)9年(1566)に遂(つい)に、月山富田(がっさんとだ)城(島根県)を落城させました。こうして、中国地方の8カ国を支配下に置いた元就は、「西国の覇王(はおう)」と呼ばれるようになったのです。
郡山城復元模型(安芸高田市歴史民俗博物館提供)。山全体に曲輪群が広がり、麓にも堀で囲まれた居住区が広がっていました
毛利氏の居城・吉田郡山城
安芸の小規模(しょうきぼ)な国人領主から中国地方のほぼ全域(ぜんいき)を支配下に置く戦国大名にまで成長した毛利氏が一貫(いっかん)して本拠(ほんきょ)とした城が吉田郡山城です。城は、可愛川(かわいがわ)と多治比川(たじひがわ)が合流する地点の北側の岸の標高約390m(比高(ひこう)約190m)の郡山に築かれ、その範囲(はんい)は約1㎞四方に広がっていました。山頂(さんちょう)本丸から周囲(しゅうい)を見渡(みわた)すと、吉田盆地(ぼんち)のほぼ全域を見下ろすことができます。
勢溜の壇(せだまりのだん)先端部より南西方向を見る。山頂部と周囲の平坦(へいたん)部との比高差は約190mで、樹木(じゅもく)が無かった当時には、四方全域が見渡せました
城が、最初にできた時期ははっきりしませんが、南北朝(なんぼくちょう)期に郡山南東の小さな尾根(おね)続きに小規模な山城が築かれたと言われています。この城は、現在の山頂から東南に延(の)びる小さな尾根の上を利用しており、尾根続きに三条(さんじょう)の堀切(ほりきり)を設けることで、簡単(かんたん)に尾根を伝わって敵(てき)が来られないようにしていました。西端(はし)の比高約90mの最も高い場所を主郭(しゅかく)とし、東に続くほぼ真っすぐな尾根続きに階段状(かいだんじょう)に曲輪(くるわ)を設けた、小さな城でした。
旧本城跡と堀切。尾根続きの背後を堀切(右)で遮断し、半島状をなす尾根を独立させ、長さ約200m程の本丸(左)が設けられていました。最初に、城が築かれた場所と考えられています
元就が入城すると、やがて安芸国の中心的な勢力(せいりょく)まで力をつけ、ついには中国8カ国を支配する大大名にのし上がっていったのです。この間、郡山城もより住みやすく規模を広げる工事が行われ、永禄年間(1555~72)には郡山のほぼ全域にわたって曲輪群が配される巨大山城となっていました。この頃の山城は、住むところを山のふもとに置いて、山の上は合戦に備(そな)えた最後の守りを固める場所としている場合が、ほとんどでした。しかし、残された記録から元就は山の上の本丸に住んでいたことが確実(かくじつ)で、家臣も山の上に住居(じゅうきょ)を造(つく)って住まいとしていたのです。
豊臣政権下の郡山城
元就の死後、跡(あと)を継(つ)いだ輝元(てるもと)の代に、天下統一(とういつ)をめざす織田信長(おだのぶなが)が中国に進出。播磨(はりま)・因幡(いなば)・備中(びっちゅう)で対立しますが、本能寺(ほんのうじ)の変によって信長が死去すると、後を継いで実力者となった羽柴秀吉(はしばひでよし)と同盟関係を結びました。天正13年(1585)にはその支配下に入り、備中以西の9カ国120万石を安堵(あんど)(土地の所有権(けん)などを秀吉から公認(こうにん)されることです)されています。豊臣政権の大名となったことで、郡山城にも石垣(いしがき)が採用(さいよう)され、天守も築かれたと考えられています。併(あわ)せて城下町も整備(せいび)され、近世山城として完成したのです。
最上段より本丸と二の丸を見る。本丸は、山頂部に位置する約35m四方程の曲輪で、元就の屋敷があったと言います。北端に櫓台、一段下に27m×15mの方形の二の丸が付設していました
完成を見た郡山城は、山上の中心的な役割(やくわり)を果たしている部分・内郭(ないかく)部・外郭(がいかく)部と堀(ほり)に囲(かこ)まれた山のふもとの4つの地区に大きく分けることができます。中心的な部分は、山頂に本丸を置き、階段状に二の丸、三の丸、御蔵屋敷(おくらやしき)を配し、ここに高さ2~5mほどの石垣が用いられていました。さらに、本丸の背後(はいご)の北側の隅(すみ)に5mほどの高さを持つ物見台(ものみだい)も築かれました。現状は、崩(くず)れてはいますが、そこかしこで石垣の下部が確認できます。
毛利氏の石垣は、4~5mおきに巨大な立石(りっせき)を据(す)え、その間を布積(ぬのづみ)された石垣(横方向に目地を揃(そろ)えて積んだ石垣です)で埋(う)めるという極めて特徴的(とくちょうてき)なものでした。崩落(ほうらく)が激(はげ)しい中でも、三の丸へと続く通路の側面で確認されます。狭(せま)い山上部を巧(たく)みに利用し、中心的な役割を持つ御殿(ごてん)を造り上げていたことが判明(はんめい)します。
三の丸通路に残る立石。三の丸は、城内最大の曲輪で、石垣・土塁などによって四段に分けられています。この三の丸へと続く通路脇の石垣の中に、毛利氏特有の立石を置いた箇所(かしょ)が残されており、主要部は石垣で囲まれていたことがほぼ確実な状況(じょうきょう)です
内郭と外郭、山麓部
中心部から5~20mほど低く、6筋(すじ)に枝(えだ)分かれした尾根が延びています。ここが内郭部で、本丸の北下に姫丸壇(ひめまるのだん)、東に釜屋壇(かまやのだん)、東南に厩壇(うまやのだん)、南に妙寿寺(みょうじゅじ)(輝元の母の菩提寺(ぼだいじ))壇、西に勢溜壇(せだまりのだん)、そして北西に釣井壇(つりいのだん)が置かれていました。また、中心部の南西約50m直下に満願寺壇(まんがんじのだん)があり、現在(げんざい)も湧(わ)き水が自然と溜(た)まる蓮池(はすいけ)と呼ばれる二カ所の溜池(ためいけ)や庭園が残されています。
このように、城の中に寺院まで建立(こんりゅう)し、普通(ふつう)の暮(く)らしをするには、山の下まで降(お)りなくてもよかったのです。内郭部は、高低差を利用した切岸(きりぎし)が守りを固めるための重要な施設(しせつ)で、この他わずかな堀切(ほりきり)があっただけです。各曲輪とも一つの曲輪で機能(きのう)し、それぞれが中枢部(ちゅうすうぶ)を固める前線基地(きち)のようでもあります。周辺域(いき)の曲輪群は、石垣はほとんど見られず、土造りが基本となっていました。
満願寺跡に残る蓮池の跡。寺は、毛利氏が入城する以前から存在していました。本丸の真南の山頂近くに位置しています。元就の本家相続が決定した際(さい)には、入城日時を占ったと言われています。蓮池は、二ヵ所あり今も水が湧き出ています
内郭の外周にも多数の曲輪群が広がり、外郭を構成(こうせい)しています。勢溜壇西下に矢倉壇(やぐらのだん)、一位の壇(いちいのだん)、さらに堀切で区切って南に尾崎丸(おざきまる)、その南東の尾根続きの先端(せんたん)部分が当初の郡山城の本城です。東側厩壇の先端に馬場、北側釜屋壇の先端には堀切で区画して羽子の丸(はごのまる)等が置かれ、全山に曲輪群が展開しています。外郭の中心は、隆元(たかもと)の住まいが置かれた尾崎丸で、二重堀切で尾根筋を遮断(しゃだん)し、土塁(どるい)を構え完全に独立(どくりつ)した巨大な曲輪でした。
尾崎丸跡を望む。毛利隆元の居所と考えられており、長さ42m×幅約20mの規模で、北側は堀切と土塁によって区画されています。土塁上段と下段に小曲輪を配置して守りを固めています
南側のふもとに凹状(おうじょう)の堀で囲まれた地区がかつてあったようです。現在は市街地化が進んでしまい、まったく堀の痕跡(こんせき)は認められませんが、大通院谷(だいつういんだに)から山麓(さんろく)を取り巻(ま)くように内堀と呼ばれる地名が残っています。この堀の内側に屋敷地が存在していたと考えられています。
最も盛(さか)えた時期には、1㎞四方の全山を軍事的な防備(ぼうび)を固めた城として、一族郎党(ろうとう)すべてが山に居住していたのです。全域の曲輪数は実に200を超(こ)える数であったといいます。毛利本家や一族だけでなく、重臣から下級家臣までもが郡山山中に屋敷を造り上げ、主従(しゅじゅう)ともども険(けわ)しく不便な山中で暮らしていたのです。
勢溜の段跡。本丸の峰から南西方向へ延びる尾根筋を利用した曲輪群で、10段の曲輪で構成されています。各曲輪の面積は約500㎡~700㎡の規模で、曲輪間の比高差は1m程でした
天正19年(1591)、太田川の河口(かこう)デルタを利用した平城(ひらじろ)の広島城(広島県)が完成して輝元が移住(いじゅう)すると、山間部の盆地に位置し交通の利便性も悪い中世山城の郡山城はその役割を終えることとなりました。
ふもとの駐車場から本丸までは、40分ほどの行程(こうてい)ですが、途中(とちゅう)の至(いた)る箇所で小規模な曲輪群を見ることができます。尾根筋のすべてに曲輪群が展開するため、城内の主要な曲輪を見て廻(まわ)るだけでもかなりの時間を費(つい)やすことになってしまいます。山上ということもあり、時間的余裕(よゆう)を持って見学することをお勧(すす)めします。通常の城跡(じょうせき)でよく目にする土塁や堀切は極めて少ないですが、その曲輪の数の多さに圧倒されてしまいます。
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘(おか)が続いている場合、それを遮(さえぎ)って止めるために設けられた空堀(からぼり)のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士(どうし)の区切りや、城の境(さかい)をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。堀切を二重に重ねて配置しているものを「二重堀切」と言います。
※曲輪(くるわ)
城の中で、機能や役割に応(おう)じて区画された場所のことです。曲輪と呼ぶのは、おもに中世段階の城で、近世城郭(じょうかく)では「郭」や「丸」が使用されます。
※切岸(きりぎし)
曲輪の斜面(しゃめん)のもともとの自然の傾斜(けいしゃ)を、人工的に加工して登れないようにした斜面のことです。
次回は「四国の城1」です。
加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。