理文先生のお城がっこう 歴史編 第32回 四国の城1(細川氏と勝瑞(しょうずい)城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。32回目の今回は、阿波国(現在の徳島県)を支配した細川氏と三好氏が拠点とした勝瑞城(しょうずいじょう)。その当時の姿を、近年の発掘調査の結果から見ていきましょう。

足利(あしかが)の有力な家来だった細川氏は、南北朝時代に阿波(あわ)国に入って、秋月荘(そう)(阿波市)に拠点(きょてん)を置きました。応仁(おうにん)の乱(らん)(1467年~)に際し、8代目の阿波国守護(しゅご)細川成之(しげゆき)は、東軍の総大将(そうだいしょう)細川勝元(かつもと)を支(ささ)えて活躍(かつやく)します。

勝元が亡くなると、その子供であった聡明丸(そうめいまる)(後の政元(まさもと))の後見役(こうけんやく)( 年少の主人などの後ろだてとなって補佐(ほさ)することです)として細川一門をまとめ上げ、幕府(ばくふ)の中で三管領(さんかんれい)(室町幕府の管領(将軍を補佐し将軍に次ぐ権力(けんりょく)を持つ役職(やくしょく)です)職を世襲(せしゅう)した、斯波(しば)・ 細川・畠山(はたけやま)の三家をさします)に次ぐ地位を固めていきます。この成之の代までに、阿波国の拠点となる守護所を秋月から勝瑞(しょうずい)に移したと考えられています。これ以降(いこう)、勝瑞は阿波の政治・文化の中心として、繁栄(はんえい)を極めることになります。

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勝瑞は、現在の旧吉野川(当時の吉野川本流)河口付近に位置し、吉野川の水運を押さえるには好都合な要衝(ようしょう)の地であったと考えられています。地図は重見髙博氏の「発掘調査から考える守護町勝瑞の範囲と構造」(『守護所・戦国城下町の構造と社会―阿波国勝瑞―』思文閣出版より)

三好氏の台頭

三好(みよし)氏は、阿波の三好郡を名字としていることから、鎌倉(かまくら)時代の阿波守護であった小笠原(おがさわら)氏の子孫と伝わります。いつ頃(ごろ)から細川氏に仕えるようになったのかは、はっきりしません。吉野川上流域(いき)守護代(しゅごだい)(代行を守護から任(まか)された人のことです)で、応仁の乱に際しては、細川氏に従(したが)って京都に上っています。

細川政元の養子となった澄元(すみもと)を細川家の惣領(そうりょう)(家名を継(つ)ぐべき人のことです)とした三好之長(みよしゆきなが)、足利義澄(よしずみ)の子・義維(よしつな)と細川澄元の子・晴元を擁立(ようりつ)(支持してもりたて、高い地位に就(つ)かせようとすることです)して力を揮(ふる)った三好元長(もとなが)(之長の孫)、そして飯盛山(いいもりやま)(大阪府)を居城(きょじょう)に畿内(きない)全域に勢力(せいりょく)を及(およ)ぼした三好長慶(ながよし)と三好氏は「天下を動かす」力を要するようになっていったのです。

阿波国を支配したのが長慶の弟義賢(よしかた)(実休(じっきゅう))で、天文22年(1553)に主君である細川持隆(もちかた)をひそかに殺(ころ)して、その子供の真之(さねゆき)を後継ぎとし、実質的に阿波国の支配者(しはいしゃ)になったのです。細川氏の守護所であった勝瑞の地に、三好氏もまた居館を構(かま)え、領国(りょうこく)支配の拠点としています。勝瑞は、河川(かせん)から海を経由(けいゆ)して物流(ぶつりゅう)(物を必要な場所に、供給(きょうきゅう)する仕組みのことです)・文化の拠点としての機能(きのう)も果たすことになるのです。

細川、三好の拠点・勝瑞城

勝瑞城(徳島県)館跡は、吉野川下流北岸の河川の堆積(たいせき)作用(上流から運ばれてきた土砂(どしゃ)が積み重なる働きです)によって造(つく)られた平野の上に立地しています。阿波国守護細川氏が守護所としました。戦国期に入り、細川氏から実権(じっけん)を奪(うば)った三好氏もまた勝瑞の地を本拠としています。勝瑞は、細川氏の守護所として、また三好氏の戦国城下町として阿波国の政治(せいじ)・経済(けいざい)・文化の中心となり繁栄(はんえい)することになりました。

勝瑞の町には、細川氏や三好氏の館、家臣団(だん)の屋敷、寺や神社、町屋が所狭(せま)しと並び、多くの人々が行きかい、賑(にぎ)わっていたと思われます。『昔阿波物語』(江戸時代に細川家の旧臣(きゅうしん)・二鬼島道智(にきとうみちとも)によって書かれた本です)には、勝瑞に(いち)(定期的に人が集まり商いを行う場所のことです)が並(なら)んで、様々な物資(ぶっし)が売り買いされた様子が記されています。「阿州三好記大状前書」(『阿波国微古雑抄(あわのくにちょうこざっしょう)(阿波国の古代から室町時代の古文書・古記録、地誌などを収録した資料集です)所収)によれば、勝瑞には27の寺院があったとされています。


永禄(えいろく)5年(1562)三好義賢の子、長治(ながはる)が後を継ぎましたが、天正3年(1575)に土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏が阿波に侵攻(しんこう)を開始します。同5年(1577)になると、長治が自刃(じじん)に追い込(こ)まれ、その後、讃岐(さぬき)の十河存保(そごうまさやす)(義賢の子)が勝瑞に入り、土佐勢と戦うことになります。天正10年(1582)、中富川(なかとみがわ)の戦いで長宗我部元親(もとちか)に敗れた三好方は、籠城(ろうじょう)していた勝瑞を捨(す)て讃岐へと逃亡(とうぼう)してしまいます。ここに阿波三好氏が滅亡(めつぼう)しました。

同13年(1585)、四国攻めの後、豊臣秀吉は阿波一国を蜂須賀家政(はちすかいえまさ)に与えます。家政は、その居城を徳島に定め、城下町経営(けいえい)を開始しました。家政は、勝瑞にあった寺院などを徳島城下に移します。こうして、勝瑞の町は姿(すがた)を消し、静かな田園地帯へと変化していくことになるのです。

勝瑞城館跡と発掘調査

平成6年(1994)度からの発掘調査によって、様々な遺構(いこう)や遺物(いぶつ)が発見されました。旧吉野川に臨(のぞ)む中世都市勝瑞の範囲(はんい)は、最大で東西1,500m×南北800mにも及(およ)ぶことが推定されています。遺跡周辺の平均(へいきん)標高は約2.5mと低い土地で、遺跡の中心は旧吉野川南岸に形成された微高地(びこうち)自然堤防(しぜんていぼう)(河川の流路に沿って形成される自然の高まりのことです))上に展開しています。

吉野川は、大正15年(1926)に堤防(ていぼう)が築(きず)かれるまでは暴(あば)れ川で、遺跡の周辺にも複雑(ふくざつ)な古い川の流れの痕跡(こんせき)が認(みと)められ、周辺には「浜(はま)」・「船戸」・「渡(わた)り」などの地名が残されています。地名からも、河川交通の盛(さか)んな中世都市が形作られていたことがうかがわれます。

細川氏・三好氏の関連遺跡は、勝瑞一帯に広がると考えられ、平成13年(2001)に国史跡(しせき)に指定されました。国史跡「勝瑞城館跡」を含む中世遺跡群を「守護町勝瑞遺跡」と呼(よ)んでいます。

勝瑞城、CG復元
CGで推定された東方より望んだ勝瑞城館(CG制作:中野真弘氏)(勝瑞遺跡デジタル博物館より)。築地塀(ついじべい)(土塀)、橋や主門などの、館への入り口を想定した勝瑞館です

平成6年、「勝瑞城跡公園整備事業」の一環として、発掘調査を実施し、上幅(はば)約13mの(ほり)や、基底(きてい)部幅約12.5m・高さ約2.5mの土塁(どるい)が確認されました。また、濠(ほり)の肩(かた)や城の内部からは大量の瓦(かわら)がまとまって出土しており、瓦葺(ぶ)きの建物が存在したと推定されています。

ここから出土した遺物は、素(す)焼きの土師器皿(はじきざら)をはじめ備前焼(びぜんやき)、瀬戸美濃焼(せとみのやき)等の国産陶器(とうき)や、中国磁器(じき)、瓦、銭等です。こうした遺物から、勝瑞城跡の部分は16世紀末に築かれたことも判明しました。その年代から、本来の城跡ではなく、中富川の戦い時に急造された詰城(つめじろ)の可能性(かのうせい)が高まって来ました。本来の館は、さらに南に位置することが指摘(してき)されています。

現在、城跡の一部が三好氏の菩提寺(ぼだいじ)(先祖(せんぞ)代々のお墓(はか)のあるお寺のことです)である、見性寺(けんしょうじ)境内(けいだい)(お寺の敷地(しきち)の中のことです)となっていますが、周囲(しゅうい)には濠(ほり)が巡(めぐ)り、一部土塁も残っています。また、見性寺の境内(けいだい)には、三好氏の歴代(れきだい)の墓が立ち並んでおり、その墓は之長、元長、義賢、長治のものといわれています。

勝瑞城、堀跡、会所跡
堀跡(左)と会所跡に造られた建物のイメージ(便益施設)(右)。規模は、発掘調査で検出された間取り通りですが、壁(かべ)を造らないことで復元建物と区別しています

本格的な発掘調査は、平成11年(1999)から開始されました。勝瑞城館は、複数の曲輪(くるわ)によって成り立っていると考えられています。それらの曲輪は、幅10~15m、深さ3~3.5m程の大規模(だいきぼ)な壕(ほり)によって区画されていました。発掘調査では縦(たて)横に走る壕跡が検出(けんしゅつ)されています。また、濠に囲まれた区画の内部から枯山水(かれさんすい)庭園(水を使わないで水のある感じを上手く表した庭園です)が発見されました。16世紀後半に造られた庭園で、0.5~1m程の小振(ぶ)りな石を組み合わせずに、一個(こ)一個を単独(たんどく)で配置していることが特徴(とくちょう)です。また、庭園の北側では、庭園を眺(なが)めるために築いたと思われる礎石建物(そせきたてもの)跡も見つかりました。宴会(えんかい)(酒食を共にし、歌や踊(おど)りを楽しむ集まりのことです)やおもてなしをするための会所と考えられています。

勝瑞城、庭園、眉山
CGで復元された主殿縁側(えんがわ)より庭園・眉山(びざん)を望む(CG制作:中野真弘氏)(勝瑞遺跡デジタル博物館より)。主殿や会所の縁側からは、遠く眉山の頂きを借景に取り込んだ庭園を眺(なが)めることができたと推定されています

池泉庭園(ちせんていえん)も確認(かくにん)されました。東西約40m以上×南北約30mの大規模な園地を持つ庭園で、護岸(ごがん)(園地の岸)は素掘りや州浜(すはま)で、なだらかになるため、やさしい雰囲気(ふんいき)を醸(かも)し出しています。園地の北側で、大規模な礎石建物跡が見つかっています。その規模や建物の形から、勝瑞城館の主殿(しゅでん)の跡ではないかと言われています。この建物の柱と柱の間隔(かんかく)の単位「一間」は、6尺(しゃく)5寸(すん)(約197㎝)と京間(きょうま)(和風建築の間取りの一つで、6尺 (182cm) を1間とする田舎間(いなかま)に比べて、畳(たたみ)の寸法が大きくなります)を採用(さいよう)していました。

勝瑞城、会所
CGで推定復元した会所(CG制作は中野真弘氏)(勝瑞遺跡デジタル博物館より)
中世の会所は、宴(うたげ)が催(もよお)される接客(せっきゃく)空間でした。連歌会・茶寄合(よりあい)・花会せ会など、親しい間柄の人々が寄り集まって優雅(ゆうが)な社交と遊興(ゆうきょう)に興じただけでなく、会食や飲食の饗宴(きょうえん)の場でもありました

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※土塁(どるい)
土を盛って造(つく)った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀を掘った残土を盛って造られました。

※堀(ほり)
城を守るために、土を掘って外から入れないようにする施設です。水をためた水堀と水がない空堀(からぼり)とに分けられます。水のある堀を「濠」として区別することもあります。

※詰城(つめじろ)
戦闘(せんとう)が起こった時の対応(たいおう)のために、館(居館)の背後(はいご)や近くの山上などに築かれた臨時(りんじ)的な城のことです。戦闘が起こった時は、最後の防衛(ぼうえい)拠点になる城です。

※曲輪(くるわ)
城の中で、機能や役割に応(おう)じて区画された場所のことです。曲輪と呼ぶのは、おもに中世段階(だんかい)の城で、近世城郭では「郭」や「丸」が使用されます。

※礎石建物(そせきたてもの)
建造の柱を支える土台(基礎(きそ))として、石を用いた建物のことです。柱が直接(ちょくせつ)地面と接していると湿気(しっけ)や食害などで腐食(ふしょく)や老朽(ろうきゅう)化が早く進むため、それを防ぐために石の上に柱を置きました。初めは寺院建築に用いられ、城に利用されるようになったのは戦国時代の後期になってからのことです。

次回は、「四国の城2(長宗我部氏の台頭と城)」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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