理文先生のお城がっこう 歴史編 第26回 江北地方を支配した浅井氏の城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。26回目の今回は、北近江一帯を支配した戦国大名・浅井氏が造った城と、城を築く技術の高さについて見ていきましょう。



■理文先生のお城がっこう
前回「第25回 近江守護、佐々木六角氏の城」はこちら

近江国(おうみのくに)は鎌倉(かまくら)時代のはじめ、佐々木氏が守護(しゅご)(国単位で置かれた軍事活動の指揮官(しきかん)であり、政策(せいさく)を決定し実行する役職です)職を幕府(ばくふ)から命じられました。それ以来、嫡流(ちゃくりゅう)(本家を継承する家系です)の六角(ろっかく)氏、庶流(しょりゅう)(本家より分かれた一族のことです)の京極(きょうごく)氏を中心にして佐々木一族が繁栄(はんえい)を極めることになります。戦国の世になると、土地や年貢(ねんぐ)の管理をしていた有力な地元の武士(ぶし)が力をつけるようになりました。そして、地方をまとめて支配(しはい)をするようになった有力者を国人領主(りょうしゅ)と呼(よ)んでいます。近江の中で、国人領主として力をつけ、六角氏や京極氏と戦って、戦国大名(幕府の命令を無視して独自(どくじ)に領地を支配するようになった有力者のことです)として北近江一帯を支配下に置いたのが浅井(あざい)氏でした。

小谷城、イラスト
小谷城イラスト。東尾根筋の山上部と尾根に挟まれた清水谷に屋敷地が広がっていました。西尾根の要所にも曲輪が配置されました(「復元小谷城」(長浜み~な編集室)より転載)
アドバイス:中井均/原案:太田浩司/イラスト:牛谷訓子

小谷城跡
東から望んだ小谷城跡。平野部に舌状に伸びた丘陵を利用して築かれています。この山全体に1000ヶ所を越える曲輪群が広がっています

浅井氏と江北の城

戦国期後半になると、江北地方では京極氏に替(か)わり浅井氏が急速に力を伸(の)ばし、支配する土地を広げて戦国大名となりました。浅井氏の居城(きょじょう)小谷(おだに)(滋賀県長浜市)で、やはり一山全体に1000ヶ所を越(こ)える曲輪(くるわ)が広がる大きな範囲(はんい)を持つ城でした。標高約495mの小谷山から南に舌(した)のようにまっすぐに延(の)びる尾根筋(おねすじ)を利用して築(きず)かれています。南と北の二つの城を繋(つな)げて一つにした巨大(きょだい)な山城(やまじろ)で、最も北側で最高所にある山王丸(さんのうまる)から、南に向かって小丸(こまる)、京極丸(きょうごくまる)、中丸(なかまる)と階段(かいだん)のように曲輪群が切れることなく続き、大堀切(ほりきり)によって城は二つの城域(いき)に分かれることになっていました。

この堀切の南に設(もう)けられた曲輪群は、本丸を最高所に、大広間、桜(さくら)の馬場、御馬屋、御茶屋、番所と北側の城と同じで、階段のように曲輪群が切れることなく続いていました。鞍部(あんぶ)(山の尾根のくぼんでいる所です)をはさんでさらに金吾丸(きんごまる)、出丸と南に続く尾根の上に曲輪が延びています。西側の斜面(しゃめん)に数多く見られる小さな曲輪群は、小規模(きぼ)な陣地(じんち)のような働きをねらった曲輪群で、谷から城に登ってこようとする敵(てき)に備(そな)えていたと考えられています。小さな曲輪を設けていない斜面には、竪堀(たてぼり)を設けることで対応(たいおう)していました。京極丸のあった北側の曲輪群に久政(ひさまさ)、本丸のある南に長政(ながまさ)の館があったと言われています。

黒鉄門跡、石垣
黒鉄門跡の周囲に残る石垣。主要部の入口にあたるため、石垣造りの門が構えられています。ここを上がると大広間、その奥が本丸です

Uの字形に連なる小谷山の中央部にあたる清水谷(しみずだに)は、三方を山に囲(かこ)まれ南側に向かって開く谷です。南に堀を設けて谷をふさいで、内部に浅井氏三代(亮政(すけまさ)・久政・長政)の山麓(さんろく)の御屋敷(やしき)や重臣たちの屋敷地が広がっていました。初期の本丸があったとされる小谷山の最高所の大嶽(おおずく)から西に延びる尾根の上には、援軍(えんぐん)にかけつけた朝倉勢が陣を敷(し)いた福寿丸(ふくじゅまる)と山崎丸が残り、曲輪を囲む土塁(どるい)が残っています。

現在(げんざい)、城跡(あと)にはかなりの石垣(いしがき)が見られ、浅井氏段階に石垣を用いていたことが確実(かくじつ)な状況(じょうきょう)です。各曲輪の虎口(こぐち)などの重要な場所を中心に石垣とし、山王丸の東斜面には「大石垣」と呼ばれる高さ5m程(ほど)の見事な石垣も残されています。対立していた佐々木六角氏から石垣を積む技術(ぎじゅつ)を導入したとは思えませんので、別の技術者集団(しゅうだん)によって積まれた石垣と考えられます。

山王丸、大石垣
山王丸の東斜面の大石垣。小谷城内で最も高い5mの石垣になります。自然の石垣をほぼ垂直に積み上げた石垣です。周囲には石材が散乱し、周辺も石垣造りであったと思われます。

江北(こうほく)を支配下に置いた浅井氏と、江南(こうなん)を領土としていた守護佐々木六角氏の国境(くにざかい)が犬上川(いぬがみがわ)でした。境目(さかいめ)の城(国境を守るために置かれた支城のことです)として太尾山(ふとおやま)鎌刃(かまは)(ともに滋賀県米原市)、佐和山(さわやま)、菖蒲嶽(しょうぶだけ)城(ともに滋賀県彦根市)の4城が特別に重要な城とされていました。

中でも、鎌刃城は背後(はいご)の尾根筋を九条の堀切で切断(せつだん)し、主郭(しゅかく)は土塁と石垣を採用(さいよう)していました。発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)によって、主郭には(えん)(建物の縁(へり)部分に張り出して設けられた板敷き状の通路のことです)を巡(めぐ)らす建物が確認されています。主殿(しゅでん)(屋敷の中の最も中心となる建物のことです)にあたる建物と考えられます。建物は、曲輪全体に広がっていることは無く、曲輪の南側に寄(よ)って建てられ、北側半分が空白地帯であったと思われます。主郭に空白地帯が存在(そんざい)する事例は多く、一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき)(福井県福井市)の居館、八王子城(東京都八王子市)の御主殿(ごしゅでん)などが有名です。この空白地帯は、閲兵(えっぺい)(城主の前に兵士たちが整列して軍備(ぐんび)などを見てもらうことです)などの儀式(ぎしき)の場として使用されたと言われています。

鎌刃城主郭枡形虎口
鎌刃城主郭枡形虎口を見る。発掘前は、左右の石材が虎口の中に捨てられていました。石材を除去すると城門の礎石が確認され、枡形虎口と判明したのです。

また、北側の端(はし)の曲輪では、地下室を伴(ともな)う礎石(そせき)建ちの総柱(そうばしら)建物(1間ごとにくまなく格子(こうし)状に柱を立てたものを言います)が確認(かくにん)されました。大きな櫓(やぐら)と考えられ、最前線に配置して上から攻(せ)め寄せる敵を攻撃するための施設(しせつ)と思われます。こうした大きな櫓が、やがて天守のようなシンボルになっていったのでしょうか。

虎口は石垣で造られた内桝形(うちますがた)で、高度な築城(ちくじょう)技術を使って築かれていました。発掘調査で確認された虎口の前面の石垣は、石材と石材の間の隙間(すきま)に、粘土(ねんど)が練り込(こ)まれていたのです。練積(ねりづみ)と呼ばれる非常(ひじょう)に独特(どくとく)な積み方の石垣です。通常の石垣は、築石部の裏側に裏込石(うらごめいし)と呼ばれるこぶし大の石を隙間なく詰(つ)めていました。ところが、この石垣は裏側に裏込石が無く、削(けず)り込んだ地山に直接石を積み、隙間に粘土を接着剤(せっちゃくざい)として詰め込んでいたのです。特殊な技術を持った石工(いしく)集団の手によって積まれたとしか思えません。


練積の石垣(鎌刃城)
練積の石垣。本丸虎口前面の石垣は、石材と石材の間の隙間に、粘土が練り込まれていました。練積と呼ばれる非常に独特な積み方で、他で見ることが出来ません(米原市教育委員会提供)

この鎌刃城の石垣は、元亀(げんき)元年(1570)以降(いこう)、浅井方から離反(りはん)し織田方に味方した堀氏段階の可能性(かのうせい)もあります。

いずれにしろ、安土城以前の段階で、江北でも石垣を用いた城が築かれていたことが解(わか)ります。近江は、金剛輪寺(こんごうりんじ)・敏満寺(びんまんじ)・百済寺(ひゃくさいじ)と古くから石垣造(づく)りの寺院が存在し、独自の石垣構築技術者が存在していたことを裏付けています。

鎌刃城、復元イラスト
鎌刃城復元イラスト(考証:中井均/作画:香川元太郎)
最高所の本丸をはじめ、主要部は石垣によって囲まれていました。手前が総柱造りの大櫓で、シンボルというより防御の要としての役割が主でした

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘(おか)が続いている場合、それを遮(さえぎ)って止めるために設けられた空堀(からぼり)のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士の区切りや、城の境をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。

※竪堀(たてぼり)
斜面の移動を防(ふせ)ぐために設けられた堀のことです。等高線に対して直角に掘られます。連続して配置された場合「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」と呼びます。

境目の城(さかいめのしろ)
敵の領地と接するような場所(国境)の見張りや守備をするために築かれた城のことです。いつ敵が攻めてきても発見できるようにするための城で、支城(しじょう)のひとつの形です。

主殿(しゅでん)
屋敷の中の建物で、一番重要で中心となる建物で、主人が居住した建物のことです。御主殿とも言います。江戸時代になると御殿と呼ばれるようになります。

※総柱建物(そうばしらたてもの)
掘立柱(ほったてばしら)建物または礎石建物の中で、1間ごとにくまなく格子状に柱を立てたものを言います高床(たかゆか)式の倉庫のような建物だと考えられています。

※内桝形(うちますがた)
曲輪の内側に造(つく)られた桝形です。敷地面積が減ってしまうという難点(なんてん)がありますが、その後ろにも兵を置くことができるため、より強固な防備を持たせることができました。

練積(ねりづみ)
石材と石材の間の隙間に粘土を練り込めて、石材同士を接着させて積み上げた石垣のことです。石垣の初期段階の試しに行ったものと考えられます。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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